水瀬綴。
艶やかな黒髪とややたれ目で緑がかった黒い瞳、薄く整った唇。そして左目の下にある泣きぼくろが特徴的な男の子の名前だ。
その端正な容姿から中学時代は「王子」と持て囃されていた。
私と同じクラスになったことはないが、3年間委員会が同じだったので顔見知りではある。何回か話したこともあるし。
彼のことはずっと「水瀬」と呼んでいたので下の名前が「綴」だということを失念していた。どうりで既視感があったわけだ。
いやそんなことは今更どうでもいい。
今一番疑問なのは――。
「何で水瀬がマッチングアプリやってるの‥‥‥!?」
水瀬の容姿なら女の子には絶対困らないはずなのに。
わざわざ出会い目的でアプリを入れる意味がわからない。それとも手ごろな遊び相手を探していたのか。いやだとしても、人が賑わうところに繰り出せば逆ナンくらいされるだろうし。
怪訝な顔をする私を興味深そうに見つめながら水瀬が答える。
「ん? 罰ゲーム」
「え」
「負けたらアプリに登録してマッチングした相手と会ってこいってやつに負けたんだよね、俺」
やれやれと肩を竦めながら水瀬が私の隣に腰を下ろす。
かくいう私はというと、知らない文化の話に開いた口がふさがらなくなっていた。
遊び半分で登録する人がいるのは予想していたが、まさか罰ゲームに使われるなんて思ってもみなかった。一軍男子のすることはよく分からない。文化が違いすぎる。
そう困惑していると横からふっ、と気の抜けた吐息が聞こえた。
「まぁでも厄介そうなやつじゃなくてよかった」
水瀬は目を伏せながら少しだけ口角を上げた。その表情の妙に似合っていて、不覚にも心臓がドキッと飛び跳ねた。
そうしていると、水瀬の長いまつ毛が際立って見える。もしかしたら私より長さも毛量もあるかもしれない。
横目で観察していることが気取られないように、そっと口を開く。
「っていうか、水瀬が私のこと覚えてるって思わなかった」
「え、さすがに覚えてるよ。委員会ずっと一緒だったじゃん」
「あー、確かに?」
そう返しつつも、いざ誰と委員会が同じだったか言えと言われら困る。全員の名前を間違えずに答えられる自信なんてない。
やはり頭のいい人は脳の作りから違うのだろうか。
水瀬が身に纏っているのは紺色の学ラン。ここらで一番偏差値の高い進学校の制服だ。
頭がいいのはなんとなく風の噂で知っていたが、まさかあの進学校に通っているとは知らなかった。
「あ、でも髪型変わってたのにはびっくりした」
「え」
不意にそう言われ、間抜けな声が漏れた。水瀬はそんなに驚くことかと言いたげな顔で首を傾げる。
「いや、そこまで覚えてるんだなぁ、って」
「何それ」
そんなに変わってたら気づくって、と軽く笑われた。
中学時代までボブカットだった私は、陽介の「ロングが好き」という発言をきっかけに髪を伸ばすことを決意し、高校1年生終わりの今では背骨を軽く覆えるくらい長くなっていた。今はその髪を後ろで一つに纏めている。いわゆるポニーテールだ。前髪は後ろ髪を伸ばすときに一緒に伸ばし、触覚とともに軽く巻いていた。
少し垢抜けたかな、なんて自意識過剰だと思っていたが、誰もが認める容姿整いである水瀬に変わったと言われると本当に垢抜けたように感じられて素直に嬉しい。水瀬にその意図はなかったとしても変わったことには変わりないし。
なんて浮かれていたからまずかったのかもしれない。
「お、水瀬とうるはじゃん! 珍しい組み合わせだなー」
「! 陽介!?」
電車から降りてくる人波の中に陽介がいることに気づけなかった。
私たちの住んでいる地域は都会とも田舎とも言えない中途半端な都市で、電車が10分に一本やってくる。
地元の最寄り駅ということもあり、ここで同級生に会ったら面倒なので次の電車が来る前にここを去ろうと思っていたが、予想外の水瀬の登場に気を取られて忘れていた。
ドクン、ドクン、と心臓が嫌に跳ねる。さっき水瀬の笑顔を見たときとはまた違う、苦くて苦しい鼓動。
私と同じく名前を呼ばれた水瀬は「誰?」と眉を顰めていた。
「は? 覚えてねーの? ほら、1年と3年の時クラス一緒だっただろ!?」
「そうだっけ?」
不満げに口を尖らせる陽介をよそに私に視線を向けた水瀬は、小さく「あ」と呟いた。
「思い出した。相馬陽介だ」
私を見ながらそう言った後、水瀬は再び陽介を見上げた。
「それで、何か用?」
鬱陶しそう言い放った水瀬の視線に耐えきれなかったのか、陽介は気圧されたように目を逸らした。
「いや、特に用はないけど久々に会ったから懐かしくて」
「へぇ。‥‥‥ならもう行くね」
「えっ――、水瀬!?」
突然グイッと腕を掴まれ、強制的に後ろに続かされた。
陽介は呆然としたまま。どんどん遠ざかっていく。
「水瀬、ちょ、待って‥‥‥!」
「何? まだあいつと何かあったの?」
「ないけど‥‥‥」
「だよね」
じゃあいいじゃん、という言葉を最後に、水瀬は喋らなくなった。ただ無言で私の腕を引くだけ。その力が強くてとても抵抗する気にはならなかった。
腕が解放されたのは、人気のない住宅街に入ったときだった。
微かに切れた息を整えていると、水瀬が肩越しに振り返った。
「まだあいつのことが好きなの? 運命の人は俺なのに?」
どこか拗ねた言い方。まるで小さい子どもみたいだ。
でもそれより気になったのは、水瀬の口から出た「運命の人」というワード。とても罰ゲームでマッチングアプリに登録した人の発言とは思えない。
「あんなの機械が決めたことでしょ。私は迷信だと思ってるよ」
水瀬だってそうでしょ、と同意を求めたけれど、頷いてはくれなかった。ただ「そうなんじゃない?」とだけ。
そのままお互いに喋らなくなって、微妙な空気のまま解散となった。
❀̸
あれは私が中学三年生のときのこと。
学級日誌を書くために教室に残っていたら、グラウンドから運動部の活発な声が聞こえた。気になって窓辺に立つと、そこからサッカーボールを蹴る陽介が見えた。部活を頑張る姿はいつもより3割増しでかっこいい。つい見惚れていたから、横に人が来たことに気づけなかった。
「もしかしてあいつのこと好きなの?」
突然、そう訊かれた。
声の方を見ると、同じ委員会の水瀬が突っ立ていた。思わぬ人物の登場に狼狽える。
「えっ? な、なんで」
「見たら分かるよ」
見透かすように言う水瀬に少しだけ、ほんの少しだけ恐怖心を抱いた。
だって私たちはこれまでまともに話したことがなかったから。あったとしても事務的な会話だけ。にもかかわらず水瀬は私の気持ちをピタリと言い当ててしまった。
窓から差し込む夕日に照らされ、水瀬の黒髪がキラキラと瞬く。
水瀬の視線がグラウンドでサッカーをする陽介から私に移った。
「ねぇなんでそんな無駄なことするの?」
「無駄‥‥‥?」
「だって好きになっても結ばれるとは限らないじゃん」
水瀬の言葉に嘲りは含まれていなかった。ただ、心底疑問に思っているだけ。
だからこそ余計にたちが悪いと思った。
私の心の弱い部分をピンポイントで突き刺してきたみたいで、一瞬息が詰まった。
それを悟られないように、真っすぐ彼の目を見る。
「それでも、私は陽介が好きだよ」
芯の通った声が、水瀬の瞳を揺らした。
それと同時に、きちんと口に出したことで、自分の気持ちが確固たるものなのだと改めて自覚されられた。そのことがなんだか急に恥ずかしくなって、頬に熱がこもる。
水瀬は「ふーん」と興味なさげに言って「まぁ頑張りなよ」と手をひらひらさせながらこの場を後にした。
内が静寂を取り戻す中、外では相変わらずはつらつとした声が響いていた。
❀̸
湯船に浸かり、天井をぼんやりと眺めながらあの日のことを思い返す。
あれ以来水瀬が私の気持ちに言及してくることはなかったけれど、あまりに衝撃的な出来事だったので心のしこりとして残っていた。
水瀬は何故あんなことを訊いたのだろうか。モテるあまり片思いする意味が分からなかったから、とか? だとしたらかなり嫌な奴だ。
でも水瀬に限ってそれはないだろう。告白されない日はないぐらいモテていたのに、王子とさんざん持ち上げられていたのに、水瀬は一度も彼女を作らなかったのだから、きっと恋愛に興味ないんだ。アプリを入れたのも罰ゲームの一環だったし。
それにしても――同じクラスだった陽介のことは覚えていなかったのに、何で委員会で数回顔を合わせただけの私は覚えていたんだろう。しかも私は髪型を変えていたのに。
覚えてたら今度訊いてみよう。今度があるか分からないけど。
艶やかな黒髪とややたれ目で緑がかった黒い瞳、薄く整った唇。そして左目の下にある泣きぼくろが特徴的な男の子の名前だ。
その端正な容姿から中学時代は「王子」と持て囃されていた。
私と同じクラスになったことはないが、3年間委員会が同じだったので顔見知りではある。何回か話したこともあるし。
彼のことはずっと「水瀬」と呼んでいたので下の名前が「綴」だということを失念していた。どうりで既視感があったわけだ。
いやそんなことは今更どうでもいい。
今一番疑問なのは――。
「何で水瀬がマッチングアプリやってるの‥‥‥!?」
水瀬の容姿なら女の子には絶対困らないはずなのに。
わざわざ出会い目的でアプリを入れる意味がわからない。それとも手ごろな遊び相手を探していたのか。いやだとしても、人が賑わうところに繰り出せば逆ナンくらいされるだろうし。
怪訝な顔をする私を興味深そうに見つめながら水瀬が答える。
「ん? 罰ゲーム」
「え」
「負けたらアプリに登録してマッチングした相手と会ってこいってやつに負けたんだよね、俺」
やれやれと肩を竦めながら水瀬が私の隣に腰を下ろす。
かくいう私はというと、知らない文化の話に開いた口がふさがらなくなっていた。
遊び半分で登録する人がいるのは予想していたが、まさか罰ゲームに使われるなんて思ってもみなかった。一軍男子のすることはよく分からない。文化が違いすぎる。
そう困惑していると横からふっ、と気の抜けた吐息が聞こえた。
「まぁでも厄介そうなやつじゃなくてよかった」
水瀬は目を伏せながら少しだけ口角を上げた。その表情の妙に似合っていて、不覚にも心臓がドキッと飛び跳ねた。
そうしていると、水瀬の長いまつ毛が際立って見える。もしかしたら私より長さも毛量もあるかもしれない。
横目で観察していることが気取られないように、そっと口を開く。
「っていうか、水瀬が私のこと覚えてるって思わなかった」
「え、さすがに覚えてるよ。委員会ずっと一緒だったじゃん」
「あー、確かに?」
そう返しつつも、いざ誰と委員会が同じだったか言えと言われら困る。全員の名前を間違えずに答えられる自信なんてない。
やはり頭のいい人は脳の作りから違うのだろうか。
水瀬が身に纏っているのは紺色の学ラン。ここらで一番偏差値の高い進学校の制服だ。
頭がいいのはなんとなく風の噂で知っていたが、まさかあの進学校に通っているとは知らなかった。
「あ、でも髪型変わってたのにはびっくりした」
「え」
不意にそう言われ、間抜けな声が漏れた。水瀬はそんなに驚くことかと言いたげな顔で首を傾げる。
「いや、そこまで覚えてるんだなぁ、って」
「何それ」
そんなに変わってたら気づくって、と軽く笑われた。
中学時代までボブカットだった私は、陽介の「ロングが好き」という発言をきっかけに髪を伸ばすことを決意し、高校1年生終わりの今では背骨を軽く覆えるくらい長くなっていた。今はその髪を後ろで一つに纏めている。いわゆるポニーテールだ。前髪は後ろ髪を伸ばすときに一緒に伸ばし、触覚とともに軽く巻いていた。
少し垢抜けたかな、なんて自意識過剰だと思っていたが、誰もが認める容姿整いである水瀬に変わったと言われると本当に垢抜けたように感じられて素直に嬉しい。水瀬にその意図はなかったとしても変わったことには変わりないし。
なんて浮かれていたからまずかったのかもしれない。
「お、水瀬とうるはじゃん! 珍しい組み合わせだなー」
「! 陽介!?」
電車から降りてくる人波の中に陽介がいることに気づけなかった。
私たちの住んでいる地域は都会とも田舎とも言えない中途半端な都市で、電車が10分に一本やってくる。
地元の最寄り駅ということもあり、ここで同級生に会ったら面倒なので次の電車が来る前にここを去ろうと思っていたが、予想外の水瀬の登場に気を取られて忘れていた。
ドクン、ドクン、と心臓が嫌に跳ねる。さっき水瀬の笑顔を見たときとはまた違う、苦くて苦しい鼓動。
私と同じく名前を呼ばれた水瀬は「誰?」と眉を顰めていた。
「は? 覚えてねーの? ほら、1年と3年の時クラス一緒だっただろ!?」
「そうだっけ?」
不満げに口を尖らせる陽介をよそに私に視線を向けた水瀬は、小さく「あ」と呟いた。
「思い出した。相馬陽介だ」
私を見ながらそう言った後、水瀬は再び陽介を見上げた。
「それで、何か用?」
鬱陶しそう言い放った水瀬の視線に耐えきれなかったのか、陽介は気圧されたように目を逸らした。
「いや、特に用はないけど久々に会ったから懐かしくて」
「へぇ。‥‥‥ならもう行くね」
「えっ――、水瀬!?」
突然グイッと腕を掴まれ、強制的に後ろに続かされた。
陽介は呆然としたまま。どんどん遠ざかっていく。
「水瀬、ちょ、待って‥‥‥!」
「何? まだあいつと何かあったの?」
「ないけど‥‥‥」
「だよね」
じゃあいいじゃん、という言葉を最後に、水瀬は喋らなくなった。ただ無言で私の腕を引くだけ。その力が強くてとても抵抗する気にはならなかった。
腕が解放されたのは、人気のない住宅街に入ったときだった。
微かに切れた息を整えていると、水瀬が肩越しに振り返った。
「まだあいつのことが好きなの? 運命の人は俺なのに?」
どこか拗ねた言い方。まるで小さい子どもみたいだ。
でもそれより気になったのは、水瀬の口から出た「運命の人」というワード。とても罰ゲームでマッチングアプリに登録した人の発言とは思えない。
「あんなの機械が決めたことでしょ。私は迷信だと思ってるよ」
水瀬だってそうでしょ、と同意を求めたけれど、頷いてはくれなかった。ただ「そうなんじゃない?」とだけ。
そのままお互いに喋らなくなって、微妙な空気のまま解散となった。
❀̸
あれは私が中学三年生のときのこと。
学級日誌を書くために教室に残っていたら、グラウンドから運動部の活発な声が聞こえた。気になって窓辺に立つと、そこからサッカーボールを蹴る陽介が見えた。部活を頑張る姿はいつもより3割増しでかっこいい。つい見惚れていたから、横に人が来たことに気づけなかった。
「もしかしてあいつのこと好きなの?」
突然、そう訊かれた。
声の方を見ると、同じ委員会の水瀬が突っ立ていた。思わぬ人物の登場に狼狽える。
「えっ? な、なんで」
「見たら分かるよ」
見透かすように言う水瀬に少しだけ、ほんの少しだけ恐怖心を抱いた。
だって私たちはこれまでまともに話したことがなかったから。あったとしても事務的な会話だけ。にもかかわらず水瀬は私の気持ちをピタリと言い当ててしまった。
窓から差し込む夕日に照らされ、水瀬の黒髪がキラキラと瞬く。
水瀬の視線がグラウンドでサッカーをする陽介から私に移った。
「ねぇなんでそんな無駄なことするの?」
「無駄‥‥‥?」
「だって好きになっても結ばれるとは限らないじゃん」
水瀬の言葉に嘲りは含まれていなかった。ただ、心底疑問に思っているだけ。
だからこそ余計にたちが悪いと思った。
私の心の弱い部分をピンポイントで突き刺してきたみたいで、一瞬息が詰まった。
それを悟られないように、真っすぐ彼の目を見る。
「それでも、私は陽介が好きだよ」
芯の通った声が、水瀬の瞳を揺らした。
それと同時に、きちんと口に出したことで、自分の気持ちが確固たるものなのだと改めて自覚されられた。そのことがなんだか急に恥ずかしくなって、頬に熱がこもる。
水瀬は「ふーん」と興味なさげに言って「まぁ頑張りなよ」と手をひらひらさせながらこの場を後にした。
内が静寂を取り戻す中、外では相変わらずはつらつとした声が響いていた。
❀̸
湯船に浸かり、天井をぼんやりと眺めながらあの日のことを思い返す。
あれ以来水瀬が私の気持ちに言及してくることはなかったけれど、あまりに衝撃的な出来事だったので心のしこりとして残っていた。
水瀬は何故あんなことを訊いたのだろうか。モテるあまり片思いする意味が分からなかったから、とか? だとしたらかなり嫌な奴だ。
でも水瀬に限ってそれはないだろう。告白されない日はないぐらいモテていたのに、王子とさんざん持ち上げられていたのに、水瀬は一度も彼女を作らなかったのだから、きっと恋愛に興味ないんだ。アプリを入れたのも罰ゲームの一環だったし。
それにしても――同じクラスだった陽介のことは覚えていなかったのに、何で委員会で数回顔を合わせただけの私は覚えていたんだろう。しかも私は髪型を変えていたのに。
覚えてたら今度訊いてみよう。今度があるか分からないけど。



