私には好きな人がいる。
 その人とは幼稚園の頃から仲が良くて、高校生になった今でもタイミングが合えば一緒に帰る、そんな距離感。
 私はきっと、このポジションにあぐらをかいていた。
 だから――。

「俺、彼女できたんだ」

 その言葉を聞いたとき、頭が真っ白になった。息がヒュッと喉を通り抜ける。
 そんな私には気づかず、隣を歩く彼は続ける。

「これで出会ったんだけどさ。知ってる?」

 ほら、と差し出されたスマートフォンの画面に映し出されているのは、最近流行っている、高校生限定のマッチングアプリだった。
「‥‥‥うん」と何とか声を絞り出して答える。

「良かったらうるはもやってみなよ。彼氏できないーってボヤいてたじゃん」

 確かに言った。でもそれは誰でもいいって意味で言ったんじゃない。あわよくば君と付き合えないかなっていう淡い期待が込めて言ったんだ。だってつい最近まで彼も彼女欲しいってよく言ってたから。
 だから「じゃあちょうどいいし付き合ってみる?」みたいな都合のいい展開を望んでいた。
 それが間違いだったのだと、今になってようやく気づいた。
 もし彼と付き合いたかったのなら、私は積極的に動くべきだった。

 ――そしたら今だって、手を繋いで帰れてたのかな。

「これ友達に薦めてもらったんだけどまじで良くってさー。流行るだけあるわって感じ」

「そうなんだ」と相槌を打ちつつ、彼女できたなら私と一緒に帰るの辞めなよ、と内心毒づく。
 そう思っても言えない。私から言いたくない。

 彼と――陽介(ようすけ)と、距離を取りたくない。

 でももし彼から距離を取ろうと言われた日には、私は立ち直れなくなるだろう。ボロボロに崩れて、修復不可能な石像のように。
 だからそうなる前に、私から切り出した。

「ねぇ陽介」
「ん?」
「彼女できたんなら、私と一緒に帰るの辞めない?」
「え、なんで?」

 陽介はきょんとしている。私がなんでいきなりそう言い出したのか、本気で分かってないんだ。
 こういう鈍感なところに、私は散々振り回されてきた。

「彼女さんに悪いから」

 本当にそう思ってるわけじゃない。むしろ早く別れてくれとすら思っている。

 これは私の防波堤だ。
 私がこれ以上傷つかないための。そして、弱い自分を隠して虚勢を張るための。

 馬鹿な陽介。私はこんなにも彼女さんを妬んでいるというのに、当の彼氏である陽介はそのことに微塵も気づいていない。きっと可能性すら考えていないだろう。
 今だって私の意見に賛同して「うるはってやっぱ優しいよな」と屈託のない笑みを浮かべている。

 こういう人を疑うことを知らない根明なところが、ずっと好きだった。

  ︎‪︎ ❀̸

 ディスティニーラヴ。
 略してディスラヴは今や若者の中では知らない人がいないほど有名なマッチングアプリだ。
 このアプリで出会ったというとあるインフルエンサーと人気モデルがカップルチャンネルを開設したことでSNSで大バズりし、日の目を浴びることとなった。
 キャッチコピーは「運命的な恋を」。
 使用方法は至極簡単で自身の年齢、性別、MBTI、ざっくりとした住所、趣味、簡単な心理テストの回答を入力するだけ。すると自身の運命の人とマッチングするらしい。
 対象者は16歳以上の高校生のみ。それに当てはまらない人のスマートフォンからは、インストール以前に検索してもヒットしないようになっている。
 何人かの友達もこのアプリで彼氏を作っていたが、私は乗り気じゃなかった。

 ――だって所詮機械に選ばれた相手でしょ?

 そんな相手が本当に運命の人と言えるのか、甚だ疑問だ。
 でも実際にこのアプリのせいで陽介に彼女が出来てしまった。それまでは女っけがまるでなくてただ「彼女欲しい」って喚いていただけだったのに。それが悔しくて悔しくてたまらない。それどころかうるはも使ってみればと薦められる始末。
 正直アプリを入れるのは気が進まない。
 でも失恋の傷を癒すには新しい恋をするのが手っ取り早いと聞く。でも陽介のことが好きなまま他の人に目を向けられるだろうか。でもこのままじゃ埒が明かないし。でも私がこんな状態では相手に失礼じゃないだろうか。でも、でも、でも、でも‥‥‥。
 考えが行ったり来たりして落ち着かない。
 教室の喧騒をそっちのけで考えに浸る。というか失恋してもご飯は喉を通ったし、学校にも問題なく来れた。これは私の身体が鈍感なのか、はたまた周りが大袈裟なのか。――まぁ比べようないか。
 視線を横にずらすと、すぐに陽介にピントが合う。もう陽介を目で追うのが癖になってるんだろうな。それももう辞めないと。彼女持ちの男子をじろじろ見る女とかイタすぎる。
 いい加減考えるのに疲れてきたので机に突っ伏していると、上から友達の声が降ってきた。

一色(いっしき)〜。ね、聞いた? 隣のクラスの子がディスラヴでさ――」
「ごめん今ディスラヴの話し聞きたくない‥‥‥」
「あっ、ごめん」

 彼女は私の恋愛事情をよく知る人物だ。今みたいにたまにうっかり発言があるが、根はいい子だ。そういうところが陽介と似てて、胃にダメージを喰らう。自分がストレスがかかると胃にくるタイプだなんて初めて知った。
 カタン、と音がして、彼女が私の前の席に座った気配がした。そして落ち込む私を慰めるようにゆるゆると頭を撫でてくる。

「ねー光井(みつい)ぃ」
「ん?」

 呼ぶと撫でる手が止まった。

「ディスラヴ、どうしよ‥‥‥」
「あー、まだ悩んでるの?」
「うん」

 気が進まないからやらないで終われたらよかったのに、それではどうもスッキリしなくて、こうしてもやもやを抱えている。だからと言ってアプリを入れる気も起こらない。
 一番の願いは陽介が彼女と別れること。
 でもそれは叶わないから、代替品を用意して気持ちを鈍らせるしか方法がない。
 ややあって光井が言った。

「とりあえず入れてみたら?」
「‥‥‥なんで?」

 問うと「うーん」と言いながら視線を逸らされた。

「なんとなく」
「え」
「だってこのまま何もしなかったらずーっとうだうだするでしょ、一色は。だったら無理やりにでもアクション起こしたらいいんじゃないかなって」
「‥‥‥」

 当たってるし一理ある。さすが光井。
 私が感心していると、光井は「それに」と続けた。

「別にアプリで出会ったからって絶対に付き合わなきゃいけないってわけじゃないし。気軽に会うだけ会ってみればいいんじゃない?」

 不意に、道が開けた気がした。
 思い返してみれば私は、アプリを利用するなら相手と恋愛しないといけないというイメージを持っていた。
 でも必ずしもそうする必要はないんだ。相手に申し訳ないとも思っていたけれど、相手だって本気じゃなくて遊び半分の可能性もある。
 そもそも高校生限定のマッチングアプリの時点で、真剣交際を望む人なんているわけがない。
 更には私が実際にアプリを使ってみることで、陽介と彼女の関係がどれくらい軽いのか確認することができるかもしれない。

 ――そうすれば私にも少しだけ、希望が見えてくるんじゃない‥‥‥?

 まだ陽介に縋っている私はみっともない。
 それでももう心は決まった。
 顔を上げて光井に笑いかける。

「ありがとう、光井。私登録してみる!」
「なんなら今やっちゃいなよ。わたしも気になるし」
「ええー、見たところでいきなり結果出ないでしょ」
「いいからいいから〜」

 促されるままスマートフォンを操作する。
 光井は隣で「まだ?まだ?」とソワソワしてるけど、すぐにマッチングするわけな───。ピコン。

「「えっ」」

 2人合わせて画面を覗き込むと、そこには【マッチングおめでとう!!】という文字とパーティよろしくなクラッカーが何個も放たれていた。

「嘘‥‥‥」

 入力し終わった瞬間の出来事だった。
 それ故に酷く困惑した。

 ――いくらなんでも早すぎない!?

  ❀̸

 待ち合わせ場所である最寄り駅にある木製のベンチに座り、スマートフォンを開く。ラインの返信をまとめてしたりインスタのストーリーを眺めたりしたが、大した暇つぶしにはならず、興味のないネットニュースを漁っていた。これも文字が滑って頭に入って来なかったのですぐに閉じた。ふぅ、と息を吐くと白い靄が空気に溶け、身体が強ばっていたことに気づいた。2月の冷たい風にやられ、手もかじかんでいる。どうやら私はそんなことにも気づかないくらい緊張しているらしい。まぁ無理もないか。マッチングした相手と会うのだから。

 遡ること数日前。
 次にアプリから送られてきたのは、マッチングした相手の名前と、2人で会う日時と待ち合わせ場所だった。一応拒否権はあったが、指定された日は暇だったので承認ボタンをタップした。すると向こうも承認したと通知がきて、正式に予定が決まったのだ。

 マッチングした相手の名前はつづり。
 その名を一目見たとき、響きがよくていいな、と思った。
 あと既視感があるな、とも。これは光井と発音が似ているからだろう。
 そんなことを考えながら腕を伸ばして緊張をほぐしていると、人の気配がした。
 その方向に視線を向けるより先に、聞き覚えのある声が聞こえた。

「え、一色?」

 まさかな、と思いながら恐る恐る顔を上げる。

「み、水瀬(みなせ)‥‥‥?」
「あぁ、やっぱり一色だ。久しぶり」

 微かに笑う水瀬に「久しぶり」と返しながら、頭をフル回転させる。

「そ、そういえば水瀬の名前って――」
(つづり)だよ」

 アプリの人と同じ名前だ。

「じゃ、じゃあもしかして、私とマッチングしたのって‥‥‥?」
「俺みたいだね」

 水瀬は迷うことなくそう答えた。

 ――終わった。

 そう悟った瞬間、全身の力が抜け、背もたれに身を任せた。