*
「はああ、お散歩中のゴキブリってどうにかならないのかなぁ」
放課後、そのままお店に直行してスタッフルームに入ると、ビラ配りを終えたらしいリンリンがすぐにやってきた。
一瞬、本物のゴキブリを想像したけど、ここの業界では別のものを指すことを思い出しては「おつかれ」とできるだけ柔らかい声を意識する。
「こっちは仕事だから無視するわけにもいかないもんね」
「ホントだよ。ビラももらわないってなにごと? 頭わいてるとしか思えない」
「タダで楽しもうとする人間って減らないよ」
お散歩は、ビラ配り。ゴキブリはそのキャストにやたらと絡んでくるクズ人間のこと。
この業界に入って自然と覚えた用語だ。
「ののかぜちゃん、ちゃんと撃退できてる?」
リンリンに聞かれて苦笑する。この店での私は、ひ弱で可憐な女の子を演じている。それはお客だけではなくキャストにも。このご時世、どこで情報が漏れるかわからない。だから油断しないように気を配らなければいけない。
「うーん、逃げちゃうかなあ」
本当は撃退しているし、酷い奴には背負い投げをくらわせたこともある。
正直その辺りで困ることはない──けど。
「ののかぜちゃん」
ホールに入り、オーダーを通していると、近くに座っていたお客から呼ばれる。ちなみにここは指名制ではなく、普通のカフェのように店員が勤務している。ただ、推し制度というものは存在して、気に入っている女の子に声をかけてサービスを受けることはできる。
「チェキを一緒に撮ってもらいたかったんだけどいいかな?」
この人は最近通うようになった二十代後半と思わしき自称ITの男性。いつもスーツで来るし、ここぞとばかりにパソコンを開いて仕事はしてるけど、リンリンいわく「仕事してる風」らしい。
いつも忙しそうに電話をしたりもするけど、実際はかかっていないところをたまたま目撃したり、仕事内容も曖昧だったりするから信用ならないらしい。
まあ、そこまではよくあることと言えばよくあるけど──
「妹がののかぜちゃんのファンになっちゃって。またチェキを撮ってこいって頼まれて」
「わあ、うれしいです。もちろん撮りましょう」
ここではSNSにアップせず個人で楽しむものであれば、チェキも基本的にはいいとされている。
でも、妹のためといいながら自分はちゃっかり写ろうとするところなんかは「妹を都合よく使っているだけで本当は自分が欲しいだけ」ともリンリンは言っていた。
どちらにしても、私としてはどんな理由でもよかった。この人の場合、写真を撮れば、満足そうに笑ってくれるから。ただ、最近は要求がひどくなっている気もする。
たとえば腕を組んでほしいとか、頬にキスをしてほしいとか。接触はNGだから角が立たないように断ることに神経を使う。
とはいえ、私と写真を撮りたいなんて思う人はここに来る人たちぐらいだ。もしプライベートの自分がバレてしまえば……きっと、こんな風には笑ってもらえないのだろう。
カランカランと来客を知らせるベルが鳴る。そこには今日はめげずにやってきた宇佐見がいた。
「おかえりなさいませ」
リンリンが対応してくれたことで、私はそのセリフを宇佐見に言わずに済んだ。
宇佐見はじっくりとメニューを見たあと「ブラックで」とペコペコしながら頼んでいる。
「あの人、この前も来てたよね?」
チェキが終わり、店内を見渡しているとリンリンに耳打ちされて曖昧にうなずく。
知り合いでしたというオチは誰にもバレたくない。基本的にここではキャスト同士でさえも互いのプライベートの姿を知らない。
あくまでもここだけの関係だ。
「お目当ての人がいるっぽくて」
「あ、そうなんだ。でも推し制度は使ってないよね?」
「うーん、そこなんだよね」
ただコーヒーを飲むためなら、ここじゃなくてもいい。席代もかかってくるし、落ち着くような空間でもないだろう。
「でもあの人、素材いいんだよ」
リンリンの言葉にぎょっとする。素材がいい? 宇佐見が?
「ちなみにどのあたりが?」
「え? うーん、最初はあのピアスの量に驚くけど、顔とかは整ってるほうだと思う。パーツがいいっていうのかな。あと、男のハーフアップもあの人なら許せる」
「饒舌だなあ」
確かに普段はもっさりとしている髪も、あんな感じでスッキリさせるだけでかなり印象が変わる。そんな会話をしていると、リンリンご指名の客からの注文が入り、にこやかに去って行く。見送った流れでなぜか宇佐見と目が合い、頷かれた。なんだ今のは。こっちに来いってか。
「なに」
「あ、いや……ここってどういうことしてたらいいのかなと」
「は?」
「どうにも落ち着かなくて」
落ち着かないなら来るなよ。どう考えてもおかしいだろ。
「別に何もしなくていいけど。カフェにいるときと同じ感じで」
「みんなカフェでどう過ごしてるもんなの?」
「……」
いよいよこの男がここに通っている理由がわからなくなる。
「はああ、お散歩中のゴキブリってどうにかならないのかなぁ」
放課後、そのままお店に直行してスタッフルームに入ると、ビラ配りを終えたらしいリンリンがすぐにやってきた。
一瞬、本物のゴキブリを想像したけど、ここの業界では別のものを指すことを思い出しては「おつかれ」とできるだけ柔らかい声を意識する。
「こっちは仕事だから無視するわけにもいかないもんね」
「ホントだよ。ビラももらわないってなにごと? 頭わいてるとしか思えない」
「タダで楽しもうとする人間って減らないよ」
お散歩は、ビラ配り。ゴキブリはそのキャストにやたらと絡んでくるクズ人間のこと。
この業界に入って自然と覚えた用語だ。
「ののかぜちゃん、ちゃんと撃退できてる?」
リンリンに聞かれて苦笑する。この店での私は、ひ弱で可憐な女の子を演じている。それはお客だけではなくキャストにも。このご時世、どこで情報が漏れるかわからない。だから油断しないように気を配らなければいけない。
「うーん、逃げちゃうかなあ」
本当は撃退しているし、酷い奴には背負い投げをくらわせたこともある。
正直その辺りで困ることはない──けど。
「ののかぜちゃん」
ホールに入り、オーダーを通していると、近くに座っていたお客から呼ばれる。ちなみにここは指名制ではなく、普通のカフェのように店員が勤務している。ただ、推し制度というものは存在して、気に入っている女の子に声をかけてサービスを受けることはできる。
「チェキを一緒に撮ってもらいたかったんだけどいいかな?」
この人は最近通うようになった二十代後半と思わしき自称ITの男性。いつもスーツで来るし、ここぞとばかりにパソコンを開いて仕事はしてるけど、リンリンいわく「仕事してる風」らしい。
いつも忙しそうに電話をしたりもするけど、実際はかかっていないところをたまたま目撃したり、仕事内容も曖昧だったりするから信用ならないらしい。
まあ、そこまではよくあることと言えばよくあるけど──
「妹がののかぜちゃんのファンになっちゃって。またチェキを撮ってこいって頼まれて」
「わあ、うれしいです。もちろん撮りましょう」
ここではSNSにアップせず個人で楽しむものであれば、チェキも基本的にはいいとされている。
でも、妹のためといいながら自分はちゃっかり写ろうとするところなんかは「妹を都合よく使っているだけで本当は自分が欲しいだけ」ともリンリンは言っていた。
どちらにしても、私としてはどんな理由でもよかった。この人の場合、写真を撮れば、満足そうに笑ってくれるから。ただ、最近は要求がひどくなっている気もする。
たとえば腕を組んでほしいとか、頬にキスをしてほしいとか。接触はNGだから角が立たないように断ることに神経を使う。
とはいえ、私と写真を撮りたいなんて思う人はここに来る人たちぐらいだ。もしプライベートの自分がバレてしまえば……きっと、こんな風には笑ってもらえないのだろう。
カランカランと来客を知らせるベルが鳴る。そこには今日はめげずにやってきた宇佐見がいた。
「おかえりなさいませ」
リンリンが対応してくれたことで、私はそのセリフを宇佐見に言わずに済んだ。
宇佐見はじっくりとメニューを見たあと「ブラックで」とペコペコしながら頼んでいる。
「あの人、この前も来てたよね?」
チェキが終わり、店内を見渡しているとリンリンに耳打ちされて曖昧にうなずく。
知り合いでしたというオチは誰にもバレたくない。基本的にここではキャスト同士でさえも互いのプライベートの姿を知らない。
あくまでもここだけの関係だ。
「お目当ての人がいるっぽくて」
「あ、そうなんだ。でも推し制度は使ってないよね?」
「うーん、そこなんだよね」
ただコーヒーを飲むためなら、ここじゃなくてもいい。席代もかかってくるし、落ち着くような空間でもないだろう。
「でもあの人、素材いいんだよ」
リンリンの言葉にぎょっとする。素材がいい? 宇佐見が?
「ちなみにどのあたりが?」
「え? うーん、最初はあのピアスの量に驚くけど、顔とかは整ってるほうだと思う。パーツがいいっていうのかな。あと、男のハーフアップもあの人なら許せる」
「饒舌だなあ」
確かに普段はもっさりとしている髪も、あんな感じでスッキリさせるだけでかなり印象が変わる。そんな会話をしていると、リンリンご指名の客からの注文が入り、にこやかに去って行く。見送った流れでなぜか宇佐見と目が合い、頷かれた。なんだ今のは。こっちに来いってか。
「なに」
「あ、いや……ここってどういうことしてたらいいのかなと」
「は?」
「どうにも落ち着かなくて」
落ち着かないなら来るなよ。どう考えてもおかしいだろ。
「別に何もしなくていいけど。カフェにいるときと同じ感じで」
「みんなカフェでどう過ごしてるもんなの?」
「……」
いよいよこの男がここに通っている理由がわからなくなる。



