「うぇあぁあぁぁ………………」
「えっ……? 何?」
 時刻は十九時を少し過ぎたところ。様々なアラカルトとサラダ、パスタ、バゲットが並ぶテーブルを前に、夏樹が奇妙な呻き声を上げる。
 夏樹も、夏樹の婚約者であるみどりも揃って三人で夕飯の支度をした後、手土産のワインを開けた時に春人がこれを選んだ経緯をポロリとこぼしたのが事の始まりだった。

 夏樹たちの引っ越し祝いと結婚祝いを買いにいったショッピングモールで知り合いに会ったこと、そしてそのまま買い物を手伝ってくれた事をつい口にしてしまったのだ。もちろん、質の悪いナンパに絡まれたことは言わないでおいたけれども。
「ハルに…ハルにっ………恋人がっ!?」
「こっ!? …ちがうって!!ワイン選んでもらっただけ!」
「あなた、しっかり…! 春くんが選んだ人だもの、きっといい人よ!」
「も~!みどりちゃんまで…!!」
 一人娘に彼氏が出来たことを聞かされた時の父親のような反応をする夏樹を見て、みどりは明らかに悪ノリをしている。長年連れ添った妻の仕草(しぐさ)でショックを受ける夏樹を(なぐさ)めているが、顔は完全に面白がっているのは一目瞭然(いちもくりょうぜん)だ。
「………で。 実際は?」
「えぇ……わりと真剣にショック受けてる? 実際は店主とお客さんだよ。本当にたまたま会っただけで、連絡先も知らないもの」
「店主?」
 長い沈黙のあと、大きく息を吸い込んでグッと気を取り直した様子の夏樹に、僅かばかり戸惑う。春人にも夏樹やみどり以外の友人知人はほんの少しだが居るというのに。
 過去に彼らの話をしてもこんな反応はされなかったのに、一体どうしてだろうか?
 しかし夏樹の胸の内など春人が完全に理解できるものでもないのだから、ここは話の腰を折らず続けてしまい、この妙な空気をさっさと終わらせてしまうに限る。
 そう思って春人は素直に燈向との関係を口にしたのだが、またしても夏樹の顔が『娘の彼氏の話をしぶしぶ聞かされるお父さん』みたいになった。
 そんな夏樹の顔を見てみどりは楽しそうに声を上げて笑っているしで、謎の空気は収束の兆しを見せない。

「夏樹たちの会社の近くにある小さいバーの店主さん。 ほら、リンカネの打ち上げの時に少し話したバーテンダーさん居たでしょ?あの人。 僕らと同じくらいの歳だとは思うんだけど……」
「バッ…?! おまえ………それ…っ」
「?」
「あら~……」
 流石に燈向の名前までは口にしなかった。したらしたで何だか余計に拗れそうな気配がしたからだ。
 だと言うのに夏樹はまたしても妙な呻き声を上げながら頭を抱えてしまったし、みどりもみどりで少し驚いた顔で目を瞬かせている。
「別に…ふつうに良い人だよ……」
 そう言って春人は目の前の白ワインが入った自分のグラスにジンジャエールを注ぐ。
酒にあまり強くない春人には、ジンジャエールで割って飲む方が飲みやすいと教えてくれたのも燈向だ。
 春人にとって燈向は“良い人”だ。
春人の下手な会話にもあわせてくれるし、何より優しい。優しすぎて困ってしまうくらいに。