「え~、それではリンカネ三〇〇万超ダウンロード、ストア評価平均四・三!そして月間セールス平均十億を記念して…… 乾杯!」
 メロウジャズがうっすらと流れる店内に、陽気な声が響く。
広々とした店内はしかし、大人の雰囲気を壊さないようにと暗すぎない程度に明かりが絞られていた。
乾杯の音頭と共に、店内は賑やかなざわめきに包まれる。
 今日は春人がメインでキャラクターデザインを務めたスマートフォン向けアプリゲーム【Re:Incarnation(リィンカーネーション)】の祝賀会だった。

【Re:incarnation】はマルチアクションRPGで、最新の技術が可能にした自由な戦闘システムもさることながら、美麗なグラフィックと、何より数多のイラストレーターが手掛けた多彩なキャラクターが大いにウケた。
 主人公は中性的なモデルで、男性にも女性にも見えるようにデザインされ、作中で展開されるイベントは選択肢によっては対主人公以外の好感度が上がり、そこからキャラクター同士で新たなストーリーが展開されることもある。
 『必ずしも自分が主人公ではない』と言う新しい試みが、上手く世間にヒットした形になった。
 性別を選ばなくても良いと言うのもどうやら大きな反響を得る切っ掛けになったらしい。
 春人が依頼を受けた時も、はっきりと【性別不詳】のオーダーがあった。男性だと思えば“そう”だし、女性だと思えば“そう”見えるようにデザインするのは正直骨が折れた。

 しかし何度も何度もリテイクを重ねて生み出したキャラクターが、こんなにもたくさんの人に受け入れられたと言うのは、正直誇らしい。

HAL(ハル)先生!」
 程よく暗い店内で、一際明るい声が春人を呼ぶ。
HAL(ハル)は春人のペンネームだ。夏樹が学生の頃から自分を「ハル」と呼ぶので、丁度良いと思ってそのまま適当にアルファベットを宛がったのだ。
 声を掛けてきたのは、このゲームを開発した会社の社長──大瀧 圭一(おおたき けいいち)だった。歳の頃は五十過ぎと言ったところだったか。

 三〇〇万超えのダウンロード、セールス平均十億。大手ならば大したことの無い実績なのだろうが、ここは大手と言う大手ではない。だからこそ、この実績は偉業と呼ばれ喜ばれるべきものなのだ。
「大瀧社長……この度はおめでとうございます。 今日はお声掛け下さってありがとうございます」
 春人は乾杯のグラスを片手にしたまま、側にやって来た大瀧に会釈をする。
 対して大瀧は既に次のグラスに移っていたらしく、陽気に笑うその片手には黒ビールのグラスが握られていた。
「いやいや、こちらこそありがとうございました! 他の先生方もそうですが、やはりキャラクターが魅力的でないとユーザーは食い付きませんから!」
 わっはっは! と大瀧は豪快に笑いながら春人の側へ詰め、その肩を抱き寄せた。あまりの力強さに春人は思わずたたらを踏んだが、既に酒が回りはじめて上機嫌な大瀧は気にもしていない様だった。

「先生、次は何を飲まれますか? ここは私のお気に入りでね、バーテンダーの腕も良いんですよ」
「えっ、えっと……あの、僕はまだ…」
 春人はあまり酒が得意ではない。
 全く飲めない訳ではないが、自分のペースを崩すと途端に悪酔いしてしまうのを経験上自覚している。
 しかしご機嫌な大滝の耳には届いておらず……。
 どうしようかと戸惑ったまま、春人は連れられたバーカウンターの前で立ち尽くす。

「マスター! ……って、あれ?」
「すみません、マスターはちょっとリキュール取りに行ってます。 オレで良ければお伺いしますよ」
 大瀧は顔馴染みなのであろうマスターを呼ぶが、どうやらその姿は此所にはなかったらしい。暗い店内でも解る様な、夕暮れみたいな赤い色の髪をしたバーテンダーが、代わりに対応をしてくれるようだ。

「おや? 君、見ない顔だけど……」
「オレは今日だけのヘルプです。 マスターはオレの先生なんですよ」
「へえ! そうなのかい?お弟子さんが居たとは知らなかったなぁ」
「先生が、今日は上得意様が来られるから手伝ってくれって」
「いやぁ~、上得意様だなんてそんな大したものじゃないけどねぇ!」
 あっはっは! と大瀧の上機嫌な笑い声を聞きながら、春人はえい!とグラスの中身を飲み干す。
 新しいグラスを受け取るならば、今のグラスは空けてしまわなくては。相手は取引先の社長だ。酒の席は無礼講(ぶれいこう)とは言え、取り敢えず次のグラスくらいは受け取らなければ失礼だろう。
 冷たいアルコールが喉を通って胃に落ちていく感覚。一気に濃度を増したその香りにクラリと目眩がしそうになって、春人は一瞬だけ強く目を瞑る。
「……それで、何をお作りしましょうか」
「ああ、そうだった! 私はこの黒エールのおかわりを。HAL先生はどうされます?」
「え? えぇっと……」
 酒が得意ではない春人は当然、種類にも詳しくない。
 居酒屋にあるようなお酒の名前位しか知らないが、そんなことをこんなお洒落なバーで口にするのは少し気が引けた。

「オレが作っても大丈夫ですか?」
「えっ? あ、お願いします」
 どうしたものかと春人が戸惑っているのを見かねたのか、赤い髪のバーテンダーはニコリと笑いながら助け船を出してくれた。
 少々お待ちくださいね、と笑った彼は寸胴(ずんどう)の大きめなグラスに次々とリキュールやシロップ、割りものを混ぜてゆく。
 軽やかな手付きでマドラーを巧み繰り、青いカクテルを作り上げると春人の目の前に置いたカクテルグラスにその中身を注いだ。
 南国の海のような青いカクテルがグラスを満たす。
「チャイナ・ブルーです」
 どうぞ、と差し出されたカクテルの名前をバーテンダーが告げると、隣にいた大瀧がまた愉快そうに笑った。
「先生の髪と同じ色とは!口説くにしては安直じゃないかな?」
「確かに綺麗な方ですけど、口説くだなんてそんな……」
 困ったな なんて彼は言っているが、顔はきちんと笑っている。これが大瀧のジョークであると正しく理解しているからだ。

「では、先生、改めて乾ぱ……」
「社長!」
 新しいグラスを受け取った大瀧が「乾杯を」と言いかけたその時、知った声が大瀧を呼んだ。
 バーカウンターに居る二人に声を掛けたのは春人の友人である夏樹だった。
 実はこの会社は夏樹が所属している会社で、このプロジェクトでたまたま春人がメインキャラクターのデザイナーに選抜された事で二人は初めて同じプロジェクトに関わることができたのだった。
「声優の小野上(おのうえ)さん、ご到着されたそうですよ」
「おや、それは!挨拶にいかないとだな!!」
 言われてみれば、店の入口付近が賑わっている。夏樹の言葉に大瀧は手にしていたグラスを一旦置いて、そそくさとそちらの方へ足を運んでいった。

「……平気か?」
「ん、大丈夫」
 夏樹は春人の自宅に私物を置く仲だ。当然、春人が酒が得意ではない事だって知っている。
 明らかに春人のペースではない手元のグラスに夏樹が顔をしかめると、二人の間に明るい声が割って入ってきた。
「お兄さん、大丈夫だよ。 それ、ノンアルだから」
 飲んでみて、と赤い髪のバーテンダーはにこやかに笑う。
 アルコールに関してプロであり、ましてや客の春人対して嘘など吐くはずがないと信用して、春人はカクテルグラスに口をつける。
 まずは華やかなライチの風味がして、それから微かにオレンジが香る。最後にグレープフルーツのわずかな苦みが残ったけれど、全体的な甘さを引き締める良い苦さだ。
「美味しい……」
 先ほど無理やり流し込んだアルコールがすっと中和されるような心地がして、春人は無意識に顔を綻ばせた。
そんな春人を見て安心したのか、夏樹もそっと肩の力を抜く。
「は…「弓立チーフ!!」
 ハル と名を呼び掛けて、夏樹は遠くから部下に呼ばれた。
 なんだかんだ夏樹も立場のあるポジションなのだ。相手にしなければいけない人間は沢山いる。
 あ~…… と明らかに面倒だと言う顔をする夏樹の背中を、春人はそっと押す。大丈夫だから、と。
「無理するなよ。絶対だぞ?」
 そう言い置いて、夏樹は部下が呼ぶ方へ足早に向かった。

「先生?」
「はい?」
 大瀧も夏樹も居なくなって、さてどうしようかと思った瞬間、バーテンダーの彼が声を掛けてくる。
「いや、さっき大瀧さんが『先生』って呼んでたから。 ……先生なの?」
「あ、いや…… 僕はただのイラストレーターなので…」
「あ、あ~! なるほど。そう言う……」
 彼は先ほど大瀧と話していた時よりも随分とラフに話しかけてくる。
見たところ春人とあまり歳が変わらないように見えるせいだろうか。しかし慣れない宴席で一人きりになった今は、かえって彼のそのラフさが心地よかったのは事実で。
「どんなもの描いてるとか聞いても大丈夫?」
「え、あ、はい……」
 守秘義務を慮ったのだろうか。彼は無理には聞かないと言うスタンスを前面に出しながらも、会話が途切れない様に話題を繋いでくれた。

「あっ、それはオレも知ってる! へぇ~!あれ君が描いたんだ!」
 凄いね! と屈託なく笑って称賛を口にする彼に、春人は気恥ずかしくなってしまう。
 絵を描いて生計をたてている以上、自分が描いたものが粗末とは思わないが、何せ春人は褒められると言うことに慣れていない。どう返して良いか解らずに困っていると、春人の手元にあるグラスの隣に小さな名刺が差し出された。
「ここ、オレのお店。よかったら今度来て? ……あぃてっ!」
「私の店で堂々とナンパをするんじゃない」
「先生酷いよ~! 今日自分の店閉めて来たんだからいいじゃん!」
「スマートに口説きなさいと言う話だ。 仮にも昔の杵柄(きねづか)だろうに」
 目の前で繰り広げられる掛け合いに取り残された春人は、ひっそりと口を閉ざして眼前の二人を見守る。
 赤い髪の彼を諌める、『先生』と呼ばれた妙齢(みょうれい)のマスターの眼差しは言葉とは裏腹に穏やかで、春人はそこに二人の絆を見たような気がして、小さく笑んだ。
「……やっと笑った」
「!」
「おにーさん、綺麗なんだから笑ってる方がもっと良いよ。 得意じゃないお酒の席は大変だろうし、困ったらオレにオーダー通して」
 ──とびきり美味しいの、作ってあげる。
 彼はそう言うと、満足気な笑みを浮かべた。パチン、と音がしそうなほど綺麗なウインクまで飛んできては、流石の春人も照れてしまうと言うものだ。

 どうしよう、顔が熱い。こう言うとき、どう言葉を返して良いのかわからない。だって今まで誰も、こんなことを言って来なかったから。

 どうしよう、どうしよう…… 慌てふためく思考回路でそんなことを思案していたら、店の奥から「ハル!」と夏樹の声がした。
「あ、すみません……失礼します」
 鶴の一声とはまさにこの事だと、春人は内心で夏樹に最大級の感謝を送る。まだ飲みきれていないカクテルグラスを片手に、春人はバーカウンターから離れた。
けれどその手にはちゃんと赤髪の彼からの名刺があったのだった。


「……どちらかと言うと、シンデレラだったかも」
 人の輪の中に不器用に溶けてゆく背中に密やかに投げ掛けられた言葉は、誰に届くこともなくそっとほどけて消えた。