CoQktail-カクテル-


「お引っ越しお疲れ様~!」
 時刻は午後六時を少し過ぎた頃。
 店を開けるにはまだ少し早い時間帯に、二人以外誰も居ない店内で「かんぱーい!」と上機嫌な燈向の音頭で二人は自然とグラスを合わせる。
 店内BGMのメロウジャズを一瞬だけ掻き消した声はしかし、次の瞬間には何時も通りで。
「足りないものは今度の休みに買いに行こうね」
 そう言ってグラスを傾ける燈向の手には赤ワインが、向かいのカウンター席に座っている春人の手には、南国の海のような青が鮮やかなカクテルがある。
 あの日から三日。
 取り急ぎで引っ越しの手配をして、慌ただしく今のアパートから燈向の家に移った春人だったが、必要なものはほぼ全て持ってきているので、完全に荷解きが終わっていないとは言え不便はない。

「……足りないもの、有ります?」
 故に純粋に何か不足があっただろうかと春人は小首を傾げるが、燈向大有りです、と言いたげにウンウンと首を上下に振った。
「春ちゃんの洋服! クローゼットが半分も埋まってないってどう言うこと?!もっとお洒落しよ?んで俺とデートして!」
「はい……」
 だから先ずはお買い物デートしよう! と息巻く燈向に圧され、つい頷いてしまった春人だが、正直、疑う余地もない程に真正面から好意を──愛情を向けられて擽ったくもあり、嬉しくもある。
 思わず緩んでしまいそうな口許を誤魔化す様にグラスに口をつければ、それを嬉しそうに燈向が見つめてくる。
 なんだろう?と再び頭を傾げると、燈向はそっと春人の方へ手を伸ばし、カウンター越しに春人の手を握った。

「それね、ブルーラグーンっていうカクテルなんだ」
「確かに、青い海みたいです」
「カクテルにも、花言葉みたいにカクテル言葉っていうのがあってね。例えば、カシスソーダなら『貴方は魅力的』とか、コロネーションは『あなたを知りたい』とか」
「!!」
 聞き覚えのあるカクテルの名前に、春人がはっと眼を見開けば、それとは逆に燈向はさらに愛しげに目を細める。

「それで、ブルーラグーンは『誠実な愛』」
「ちょっ、と……待って、燈向さん…」
 夕焼けよりもっと深い朱の瞳が、解りすぎる程の愛を乗せて見つめて来るのがわかって、春人の身体は一気に体温が上がる。
 熱い頬を隠そうと伸ばした手は、それを阻止する燈向の手によってカウンターへと留められた。
「だぁめ。待たない。 春人、好きだよ。大好き。俺はキミに誠実な愛を誓う。だからずっと、俺の傍にいて」
 両手をやんわりと握られ、溶けそうな程の熱い眼差しを注がれて、春人の心臓は爆発するのではないかと思う程に早鐘を打っている。
「溶けそう……」
「ははっ、春ちゃんは体温が低いから、俺が溶けるくらいの愛情を注いで丁度良いかもね」
「もう……」
 勘弁して……と春人が白旗を上げれば、燈向はまた嬉しそうに笑う。
「春ちゃん」
 もうすっかり聞き慣れてしまった声が、春人を呼ぶ。優しく、落ち着いた声色につられる様に視線を合わせれば、やはり燈向は優しく、そして幸せそうに微笑んでいる。

 嗚呼、と春人は思う。

 遠い昔のあの夕暮れの日。
 運命だったあの場所で、春人今の燈向と同じ表情を浮かべた大人をたくさん見た。
 そうして、それはきっと永遠に自分へと向けられる事のない感情なのだと、幼いながらに理解して、諦めた。
 けれど今。燈向がいる。
 あの日憧れた幸福の笑みを自分へと向ける燈向がいる。
その事実が春人の胸を震わせ、堪えきれない涙になって込み上げてくる。
 もう泣くのは止めるのだと、初めて燈向とキスをしたあの日に決めたのに、燈向といるとどうしてこんなにも涙が溢れて止まらないのだろう。

「燈向さん」
「うん」
「好き……。 好きです…貴方が──燈向さんが」
「俺もだよ。 春ちゃんが好き」
 春はただ、すき、と何度も繰り返す。
 まだ解決していない問題も残っているけれど、それでももう春人は未来に対して何も怖いと思う事などない。
 だからどうか、この手を離さないで──そう願いを込めて握り返した手はあたたかい。

 カラン、とグラスの中で氷が澄んだ音を立てる。それはまるで、始まりの合図に似ていた。