CoQktail-カクテル-


 コンクリート造りの階段を駆け上った先。奥から二番目の部屋のドアの近くに春人はいた。
 春人が近くに立っているドアは数十センチ程空いていて、春人はどうやらその部屋の住人と何やら話をしているようだった。

「春ちゃん」
 呼べば、燈向に気が付いた春人が彼の方を見て、そうして泣きそうな顔で無理矢理笑った。
 大股で春人に駆け寄ると、ドアの向こうの住人は春人に二、三言葉を掛けてそっとドアを閉めた。
「春ちゃん……」
「…………………」
 春人は何も言わずそっと燈向の袖を引いて自宅のドアの鍵を開けて、その向こうへ誘う。
 ドアが閉まりきるより早く、春人が何も言わず燈向の胸に身を寄せた。そうすれば燈向もまた、何も言わずその身体を抱き返す。
「泣いても、いいのに……」
 燈向がそっと囁いた言葉に、春人は黙って頭を振る。
「いじっぱり」 と返せば、抗議するように春人は力強くその肩に頭を擦り付けた。

「いてて…ゴメンって。 頑張ったね、春ちゃん」
 アパートのエントランスで控えていた燈向は、状況次第ではあの場に踏み込むつもりでいたが、春人はそんな燈向の心配を他所に気丈に母親と対峙し、その未練を振り払った。
 彼の母と共にいた男が、その道の人間としては理性のあるタイプだったと言うのも大きかっただろう。

 春人と母とのやり取りの中で、母親の方がお世辞にも出来た人間ではないと冷静に判断し、結果的に彼が春人の母親を引き取る形になった事で、事は二人が予想していたよりはるかに早く、そして小規模で終結した。
「要さんに、連絡しないと……」
 言って、春人はそっと燈向の胸を押しながら顔を上げた。その瞳は僅かに潤んでいる様にも見えるけれど、彼が示した通り泣いてはいなかった。
 一度『あちら側』の人間が『連れていく』と言えば、そうそうな事では元の健全な日常には戻って来られないだろう。
 法より先に向こう側が結果を出してしまっては、もう要が春人と母親の間に入る理由もない。君子危うきに近寄らず──恐らく要ならそう言って笑う気がする。

「ところで春ちゃん確認したいことがあるんだけど」
「はい……何ですか?」
 ふっと真面目な顔を見せる燈向に、春人はこてりと小首を傾げる。春人のあの先程までの張り詰めた雰囲気はどこへやら。
 あまりにもあどけないその表情はしかし、自分の腕の中であると言う理由なのだとすれば、幸福なことこの上ないと燈向は思う。
「結構な騒ぎになっちゃったし、お母さんに家も知られちゃったから……ここは引っ越すよね?」
「…………あ」
 そう言えば、見たいな顔をして春人は少し眼を伏せた。
 あの母親が彼らの元から逃げ出して、再び春人の所へやって来る……なんて言うのは確率こそ低いが無いとは言いきれないのだ。
 春人自身の身の安全や、これ以上の周囲への迷惑を考えれば、今居る場所から移った方が良いのは明白で。

「で、そんな春ちゃんにご提案なんだけど……」
 言って、燈向はポケットに片手を突っ込んで何かを取り出すと、春人の右手をそっと取った。
 上に向けた手のひらに手を重ねてそっと開けば、春人の掌に何かがポトリと落る。
「………?! 燈向さん、これっ」
 春人は掌の上に落ちた『何か』に眼をやって、そうしてその東雲色の眼を丸くした。
「うん、俺ん家の鍵」
「?!?!」
「ちょうど使ってない三階が空いてるし。 できれば……」

「今度は、一緒に帰りたいな」

 燈向は春人の手を上から握って、そうしてそっと、まるで祈る様に額を合わせた。
 お互いの輪郭がぼやける距離で見つめ合う瞳は、東雲の空が次第に潤み、そうしてそっと合図の様に瞼が閉じるとどちらともなく唇合わせた。

 そっと触れるだけのキスはまるで誓いのようで。

 明かりすらついていない薄暗い玄関と言う少しばかり残念なシチュエーションではあるが、そんなことはこの際どうだって良いのだ。

「オジさんになっても、おじいちゃんになっても、俺に『おかえり』って言わせて?」

 そう囁く燈向の側で、春人はただ頷く。
 ひとりぼっちだった子供たちが帰る場所を見出だした瞬間だった。