一夜明けた翌朝は、雲一つない青空が広がっていた。間もなく夏が近付いて来る季節になった所為か、過ごしやすい気温だ。
だと言うのに左手に握った手は酷く冷たくて、切なくなる。きっと今隣にいる春人の心は、今日のこの晴れ空の様に澄み渡ってはいないのだろう。
「春ちゃん」
そっと呼べば、目を合わせて小さく笑うけれど、春人は決して「大丈夫」とは言わない。いや、言わなくて良いのだ。今は。
「危なくなったら、すぐ行くから」
そう言って、燈向はそっと持ち上げた春人の手の甲に唇を寄せる。
そうしてそっとその手を解くと、春人は何も言わずただ一度だけ頷いてアパートの方へ歩きだす。
春人の胸元で、約束の鍵が静かに揺れていた。
「だから…! 知らないって言ってるでしょう……!」
「嘘よ!何か聞いてんでしょ!! 黙ってないで教えなさいよ……!!」
一週間ぶりの自宅アパート。いつもは閑静で穏やかであるはずのそこは、とある女のけたたましい声が響いていた。
一階のエントランスにまで筒抜ける程の声量で、聞き知った声が騒ぎ立てているのが解って、春人はもう泣きたくなった。
(それでも……)
親子である以上『精算』等と言うのは不可能だ。
けれど縺れた糸を解いて、今度こそ本当に春人は自由になりたいと願った。
燈向と共に、未来へ進む為に。
階段を上る。少しずつ上がって行く視界の先には、やはり想像していた通りの姿があった。
「……何、してるの」
すっと息を吸って吐き出した言葉は、思いの外落ち着いていて、それでいて平坦で。
感情の乗らないその声を耳にした途端、女は──春人の母はピタリと口を止めた。
「春人……!?」
凡そ十年の間、行方をくらませていた我が子を見て、母は大きく目を見開いた。
「あぁ、本当に春人なのね?! 嬉しい……!やっと会えたわ…!!」
そう言って彼女はまるでドキュメンタリードラマの様に声を震わせながら春人の元へ駆け寄り、その身体を抱き締めた。
途端に香るキツい香水の匂いに、不快感が腹の中で暴れだす。
「嗚呼、見ない間に立派になったのね──」
等と言いながら、彼女は何かを確かめる様に春人の顔や身体に手を這わせる。
「何しに来たの」
「何って……いやね、春人。 普通、子供が居なくなったら親は心配するでしょう?」
「十年も経ってるのに? 今更何の用なの」
「っ、それは…私にも色々あって……!! いっ、今はそんな事どうでも良いでしょ?!
ねぇ春人、お願い。 お母さん今ちょっと困ってるの……貴方に助けて欲しいのよ」
そう言って彼女は春人の右腕に縋る様に抱きついて見上げる。
間もなく五十を迎えようかと言う年齢のはずなのに、不相応に若く見える事を自覚している仕草だ。
大きな瞳を潤ませているその様は、男であれば恐らく庇護欲を掻き立てられるのだろうが、如何せん春人は『息子』なのだ。
そんな手段が通じる訳もないと言うことを、この女は解っていない。
「困ってるって、何に」
腕に絡み付く彼女の身体をそっと離して、問う。これからこの『母親』が何を言うのか、予想はつくけれど。
「あのね春人、お母さん今ちょっとお金に困ってるの……また昔みたいに助けて頂戴?」
母の言葉を聞いて、そうして口を開けば開く程、春人の胸の内が凍てついて行く。
そもそも、春人が姿を見せたあの瞬間、彼女は春人を一目見て蛇の様に笑った。
それはほんの一瞬で、きっと本人すら自覚は無いだろうけれど、だからこそそれが彼女の──『母』の本当の顔なのだと確信して、酷く吐き気を覚えたのだ。
現に金に困っていると言う彼女は、『共に働いて欲しい』とは言わなかった。春人に『昔みたいに』と言ったのだ。
昔のように、身体を売れと── そう、言ったのだ。
「貴方に援助することなんて無い。 ……帰って」
春人はそっと母親の身体を押し退け、努めて淡々と言い放ち自宅へ戻ろうと一歩踏み出した、その時。
「母親が困ってるってのに、ずいぶん薄情な息子じゃねぇか」
「!! 誰っ…?!」
知らぬ誰かに、後ろから腕を捕まれた。
母親の存在にばかり気を取られていた春人は、三階へ続く階段に男が座っている事に気が付けないでいたのだ。
振り返れば、春人と同じくらいの背丈の、それでいて春人より明らかに体格の良い中年の男が春人の腕をしっかりと捕まえている。
無地のワイシャツにスラックス、それから少し派手な貴金属と男の身体に染み付いた煙草の臭いに、込み上げる不快感を隠そうともせず、春人はそっと口を開いた。
「離してください。 見ず知らずの人にこんなことされる理由はありません」
「あぁ、オレもアンタが話聞いてくれりゃあ直ぐに離してやるよ」
「ねぇ、ほら!言ったでしょ!?上物だって……!! ね、ほら、それ連れてってよ!それでアタシの借金チャラにしてよ…!!」
「あぁ? あ~………」
春人およそ『母親』であるはずの人間の口から出た言葉に、絶望に等しい落胆を覚えた。
彼女にとって、いつまでも、そして何処までも自分は『道具』でしかないのか、と。
燈向の言う通りだった。
掌の微かな窪みに残った水の様な、そんな過去の愛情すら今はもう無いのだ。
借金のカタに子供を売るだなんて、そんな事をこの現代で平気でやってのける人間を、どうして『母』と呼ぶ事が出来るだろう。
男は何かを考えるように曖昧な返事を返したが、春人の腕を離す様子はない。
「……帰って」
「は……?何言ってるのよ春人。 ねぇ、お母さん今大変なの。アンタと遊びたいって人はまだ居るんだから!」
春人の中で『母親』だった人は、必死の形相で縋ってくるけれどそこにもうひとかけらの憐憫すらわかなかった。
「お前さんよぉ……」
ようやく春人の腕を離した男が、低く凄みのある声色で呼ぶ。
けれど最早いまの春人には何の効果も無く、ただただ暗い瞳が見つめ返すばかりで。
「お前の母さんな、オレらの所から五本分ほど借りてんだわ。 で、『息子が出してくれる』ってんでここ数日待ってたんだがよ……」
やはり、と最早春人は溜め息を隠しもしない。
隣人は夫婦と言っていたが、その実サラ金の取り立屋であった。
五本……と言うのは聞きなれない表現だが、直ぐに働いて返せる様な金額で無いのだろう。そうでなければ長年蒸発していた我が子をわざわざ探しだすなど、この女にとって利が無ければ行わない事だ。
「例え僕がいまその金額をお渡しできる状態であったとしても、それは僕には関係の無いことです」
「まぁ、そらそうだわな。 借りたのはお前の母親であって、お前さんじゃねぇ」
「ちょっと!何でよ!! お金持ってんなら払ってよ!!アンタ、アタシの子供でしょ?!子供なら親を助けなさいよ!!」
「子供だった僕に!! 貴女は一体何をしてくれたって言うの?!」
春人の悲痛な怒りの声が、辺りに響く。
腹の中で熱いものがグルグルと暴れまわって、思考が真っ赤になって行くのが解った。
「貴女はいつだって自分本意で、僕に何もしてくれなかった! あまつさえ僕にあんなっ……あんなっ…!!」
──たすけて と。
初めて知らぬ男に乱暴された時、何度も何度もそう母に叫んだ。けれどその男は母が春人を売る為に連れてきたのだから、当然彼女が春人の懇願を聞き入れる訳がなく。
泣き叫び、見知らぬ男に無理矢理に身体を拓かれる春人を、彼女は詰まらなさそうに煙草を吹かしながら眺めていたことを、今でも覚えている。
なのに。なのに──!!
どうして、ただ『母』と『子』であると言うだけでそんな理不尽な要求を無条件に飲まなければならないのか。
春人は片手でぎゅっと強く鍵を握りしめた。
心の中で、幼い自分が癇癪を起こして暴れている。でも、それでいいのだ。嫌なことは嫌だとはっきりと拒否をして、目の前にいるこの人に何を思われようとももうどうだっていいのだ。
「僕はもう二度とあんな事はしない! もう二度と僕に関わらないで!!」
母に愛されたいと願った幼い自分はもういない。
いま、胸の中で春人を守り、奮い立たせてくれているのはあたたかな夕暮れの記憶と、陽だまりの様な愛情だ。
「アタシの役に立たないなら、アンタなんて居る意味ないのよ──!!」
恐らく予想だにしていなかった春人の反抗に、頭血が上ったのだろう。彼女は激昂して手を振り上げた。
「そこまでだ」
が、その手が春人を打つより前にその細腕を取り立て屋の男が掴んで止める。
恐らく男は自分の側だと思っていたのだろう。振り上げた腕を容易く止められた事に彼女は驚いて目を見開くが、直ぐにギッと目を吊り上げて男を睨んだ。
「何すんのよ!お金が返って来なくて困るのはアンタもでしょ?!」
「ああ。貸したモンは返して貰わなきゃ困るさ」
でもな、と男は続ける。
「さっきも言ったがオレらが貸したのはアンタにであって、この兄ちゃんにじゃねぇんだわ。 借りたモンは借りた人間がきっちり返すってのが筋だ」
「ちょっと……嘘でしょ…? ねぇ、待ってよ…お、願…お願いします待って!!」
男の言葉にサッと顔を青ざめさせる彼女の姿を見ても、春人には何の感慨も湧かない。
金切り声にも似た悲鳴じみた声で、立て板を滑り落ちる水の様に懇願の言葉を並べ立てる彼女の腕を引きながら、取り立て屋の男は階段へ向かってズカズカと歩き出した。
「ああそうだ、兄ちゃん!」
階段を下りる手前。立ち止まった男がギャアギャアと騒ぐ女を無視して春人へ振り返った。
「連絡先、要るか?」
ワイシャツの胸ポケットから一枚の名刺を取り出して見せる男に、春人は「いいえ」と頭を振った。
「だよなぁ。 コレはこっちで面倒見るから、まぁ……後は自分でしっかりやんな」
男は、春人の返事を解りきっていたのだろう。カラリと愉快そうに笑うと、女を──母を引っ張って階段を下りていった。
エントランスで深い夕暮れの様な赤い眼をした男とすれ違う。
彼は何も言わずじっと此方を見詰めてきたかと思えば、一呼吸の後にさっと階段へ向けて歩き出した。
「おお、怖ぇ怖ぇ」
同業者かと一瞬勘繰る程の強い眼差しはしかし、荒くれ者のそれとは違う、覇気の様なものが根底にあって。
違う意味で手を出してはいけない相手だと本能が告げるままに、男はいつの間にか大人しくなっていた女の腕を引いて、近くに待たせておいた車へと歩き出した。
