「それで、あの子と来たら面と向かって兄の同級生に飛び掛かっていって…… アイツが苦労して押さえてたけど、自分の為に怒る弟にそれはもうデレデレだったよ」
「……何だか意外です。 燈向さんがそんなにやんちゃだったなんて。それに、ご兄弟の仲も良いんですね」
「歳が六つも離れていたらやっぱり可愛いくて仕方なかったんだろうね。 そう言えば春くん、ご兄弟は?」
「あぁ…えっと……いません…」
と、何やら歯切れ悪く口にしたところで、ピンポン── と事務所のチャイムが鳴る。瞬間、パッと笑みを浮かべた要が「来たぞ」と言って席を立つ。
来客を迎えに出た筈だが、玄関の方向から要の豪快な笑い声がするのはどうしてだろう。
「春ちゃん…!」
「!?」
バタバタと足音がしたと思ったら、焦った表情を浮かべた燈向が応接室へ駆け込んできた。
ダークネイビーのストレートデニムに、黒のパーカーと言うカジュアルな出で立ちがオフ感を漂わせているが、よくよく見れば赤い髪がぴょこぴょこと跳ねている。
「おっ、お前っ……起きたら迎えに来いと言ったが、寝起きで来る奴があるか…!!」
あっはっはっは! と腹を抱えて笑いながら応接室に戻ってきた要の言葉に春人は成る程、何時もより隙だらけの出で立ちだから、どこか見慣れない感覚を覚えたのかと納得した。
「だって! ほっといたらカナさん春ちゃんに手ぇ出すでしょ!」
「失礼な! 私を何でもかんでも手を出す獣の様に言うなっ」
「でもカナさん、春ちゃんの顔好きでしょ?!」
「当たり前だろうが! 顔が綺麗な人間が嫌いな奴があるか!!」
要がぐっと拳を握りながら力強く答える。先程から容姿を褒められっぱなしなのは何処かくすぐったくて仕方がない。
(───あれ?)
ふと、気付く。昔は容姿を褒められてもそれ程嬉しくはなかった。
むしろ、母が連れてくる嫌な人たちの粘着質な声が頭の中でリフレインして不快な気持ちにすらなった。
だと言うのに、燈向にも要にも「顔が綺麗」と褒められて嫌な気持ちにならない。
「はいはい、もう分かった分かった。 ほら、道が混む前に帰りなさい」
「はい、は一回でいいんですよ。 さ、春ちゃん」
帰ろっか、と言いながら燈向は何の疑問も口にせずに春人へ手を差し出す。
燈向の向こう側、応接室の入り口で品よく腕を組んでいる要へチラリと視線を遣れば、「そうしなさい」と言わんばかりにゆっくりと頷いた。
「はい……」
燈向の手を取れば、そっと握り返される。当たり前の事が嬉しくて、そして今ここで何も聞かないでいてくれる優しさに胸が苦しい。
こんな、出会って間もない自分にこれ程までに優しくしてくれる人達に、自分は何を還せるだろうか。
そう考えたとき、あまりにも自分が何も持ち得ない事に泣きたくなるけれど、もう泣くのはやめようと決めた。
途方もない恩返しになってしまいそうだけれど、いつか、自分の行いに依ってこの優しい人達の心からの笑顔を見られたなら……そう在れる様に、今立ち向かうべき時なのだと春人はそっと、己を奮い立たせた。
「どこからどう、お話すれば良いか分からないんですけど……」
「うん……」
要の事務所から連れ帰られて訪れた、数日ぶりの燈向の自宅。
燈向は春人をソファに座らせて、自分は彼の顔が良く見えるように角に置いている一人掛けの方へ座った。
燈向の入れた温かい珈琲を前に、春人は頭の片隅に追いやっていた忌まわしい過去をそっと紐解いた。
春人はまず、自分が所謂『私生児』であることを打ち明けた。
かつて高級クラブ一のホステスだった母が、とある企業の跡取りと恋に落ちて結婚をし、授かった子供が自分だった。
しかし、詳しい事情は分からないが、父と母は籍を入れていなかったのだ。
「高校を卒業して家を逃げるようにして飛び出したあと、色々調べて戸籍を抜いたんです。 その時に、母が一度も誰とも結婚をしていなかった事を知りました」
「父の顔は……いいえ、名前ももう思い出せません」
春人はそっと、右手で前髪を掻き上げて額の傷を燈向へ見せる。
そこにはまだ大きな絆創膏があるが、あの夜事件で負った傷の下に、今もはっきりと分かる古い傷があるのを燈向は知っている。
「僕がまだ本当に小さい頃……ある…雷の酷い夜でした。
父と母が大喧嘩をしていて……母が父に掴み掛かっているのを見て、僕はびっくりして母を止めようと抱きついたんです。 そうしたら、母には僕が父の味方をしたように見えたんですかね……多分。 突き飛ばされて…それで」
言って、髪を掻き上げていた手を下ろせば、それははらりと空色の髪に隠された。
「その日以降、父の姿を見た記憶はありません」
春人の白い指がマグカップの持ち手に触れる。
持ち上げて口を添える寸前、熱い珈琲を冷ますために吹き掛けられた息が、酷く震えていたのを燈向はまだ気付かないフリをした。
「………………。 それからは、地獄でした」
コトリ、とマグカップが立てる小さな音すら響きそうな程の静寂を、春人の声がそっと開いてゆく。
「始めは殴られたり、食事を貰えなくなって……それから、母に新しい恋人が出来る度に家を追い出されたりしました。 でも、だからあの日、燈向さんに会えたんですけど……」
重たい沈黙が二人の間に横たわる。春人のゆっくりとした深呼吸の音すら明確に聞こえる程に。
「僕が中学に上がった頃……ある日母は知らない男を連れて戻ってきました」
ぺたり── 春人の背中を在りし日の幻影が触れ、撫でる。
色欲にまみれた誰とも分からない気色の悪い声が耳の奥で春人を呼ぶ。それを振り払う様に頭を振って、春人は懸命に言葉を紡いだ。
「最初は抵抗しました。 でもそうすると相手の男に殴られたり、後で母に酷く罵られたり、打たれるので……その内に止めました。
それが高校を卒業するまで……。 でも、時々母に内緒だと言って僕にお金をくれる人もいて……それで、そのお金を隠しておいて、僕は母の元から逃げたんです。
逃げ出したあと、一年は色んな仕事をしました。 それで、絵を描くための専門学校に行く資金を貯めて……でも、許されない事で手に入れたお金を使うことを躊躇しなかった」
背負った過去が、罪悪感が春人に重くのしかかり、そうして無意識に春人は上体を伏せてしまった。
「……僕は、見てくれが綺麗なだけの、とんでもない人間です。 でも、それでも……貴方を好きになってしまったから…だから、黙っていたくなかった。
貴方と……燈向さんとちゃんと向き合える人間になりたい。
もう、母の影に怯えながら生きていきたくない。
許されるなら……貴方と──」
──共に生きたい。
掠れた声で紡がれた切なる願いは、それでもはっきりと燈向の耳に、そしてその胸の深くに届いた。
「春ちゃん……」
春人を呼ぶ燈向の声が震えている。
「いま凄く、キミを抱き締めたい……」
良いかな? と問う燈向の声は震えていて、そっと燈向の方に視線を遣れば、彼はその朱い瞳から静かに涙を溢していた。
「燈向さん……」
春人はそっと、静かに燈向の隣へ移れば、その薄い身体を燈向の両腕が掻き抱いた。
すぐに布越しに燈向の体温が伝わって来て、春人はそれを留める様にそっと腕を回して抱き返す。
「泣かないで……僕は、思い出して貰えて、好きって言って貰えて、こんなにも嬉しいんです……」
生来肌の白い春人の指先が、燈向の濡れる頬をそっと拭う。
それでもなお、静かに頬を伝い落ちる燈向の涙に、春人はそっと唇を寄せた。いつかの夜、彼がそうしてくれたのと同じ様に。
「ずっとずっと、貴方に『会いたい』と思っていました。
燈向さんがくれた約束があったから、僕は生きて来られた。 貴方のくれた約束が、ずっと僕を守ってくれていたんです。
出会ってからずっと、燈向さんは僕を助けてくれて…今もこうやって、こんな僕を抱き締めてくれる……こんなに幸せなことは無いです」
「春ちゃん……」
朱い夕焼けが泣いている。けれどそれは酷く温かい雨だった。
「好きだよ……オレは、春ちゃんがどんな過去を抱えていても、キミが好きだ。 オレも、春ちゃんと生きたい」
燈向の手が、春人の手を掴む。
春人の白い手を引き寄せた燈向は、その白く柔らかな手のひらに唇を寄せた。
「キス…していい?」
指を絡め合いながら手を握り、燈向がそっと伺うように問い掛ける。きっと、春人が話した過去の事を気に掛けてくれているのだろう。
春人が燈向からのキスを拒んだ事も、嫌だと思ったことも無いと言うのに、やはりこの人はどこまでも優しい人なのだ、と春人は小さく頷きながら思う。
「春ちゃん…好きだよ……」
言って、燈向そっと春人の唇に己のそれを寄せる。
そっと触れ合わせるだけの優しい口付けだ。
「ん……」
それを何度も繰り返し、そうそて最後に春人の白い頬にちゅ、とキスをして燈向そっと顔を離した。
「ははっ、やっべー……凄く緊張した……」
分かる? と燈向が春人の右手を自らの胸に当てさせると、その手のひらに酷く速い鼓動が伝わってきた。
「!!」
「キスするだけでこんなドキドキしたの、春ちゃんが初めてだよ」
そう燈向は笑うけれど、彼の瞳は柔らかく細められ、その視線は雄弁に春人への愛を謳っている。
「僕も……」
そう言って、春人は自ら燈向へと身体を寄せる。
それはまるで人の温もりに身を寄せる猫の様な、明確に甘える意思を持った行動だった。
燈向は今までそうしてきた様に、春人の体を抱き締める。『春』の名を戴くと言うのに、あまりにも低い体温はしかし今となっては酷く愛しい。
春人は漸く誰かに触れられる事が、愛される事がこんなにも温かで幸せな事なのだと解った。
そしてそれは同時に、春人という『蕾』が漸く花開いた事を意味していた。
