翌日。春人は浅い眠りを繰り返しながら夜を越えて、朝日が僅かに顔を覗かせる時間に取り敢えずの荷物を纏めて自宅を出た。
 不審な人物の来訪を教えてくれた隣人には迷惑を掛けてしまった事への謝罪と、暫く仕事で留守にする旨の手紙、それからほんの僅かだが現金を包んだ封筒をドアポストにそっと投函した。
 始発の電車に乗って、ぼんやりと車窓から空ける空を見つめる。背の高いビル群の隙間から覗く夜明けの空は美しいのに、ただ悲しくて仕方なかった。

 飛び乗った始発の電車から目的の駅で降りて、まだ人気も疎らなオフィス街を春人はひとり歩く。
繁華街程ではないが、昼夜を問わず働く人の為に二十四時間営業のファーストフード店くらいはある。
 春人は一先ず目についた店に入り、温かい珈琲を注文し、窓の無い店の奥の方の席に座った。

 鞄から取り出したのは携帯と一枚の名刺。
 それは、『何かあれば、遠慮なく連絡してきなさい』 と要が渡してくれたもの。
 これは、いま要に依頼している件とは全くの別件だ。それは春人自身がよくよく分かっている。
(だけど、もう──)
 逃げたくない。 そう、強く思ったのだ。

 この事を要に依頼するには、自身の事情を詳しく説明する必要がある。
 それは春人が自らの口で過去を語ると言うことで、自身が決して綺麗な人間ではないと言うことの証明に他ならない。

 しかし、春人は願ったのだ。誠実でありたい、と。

 それが燈向と春人の間にどんな結果をもたらすのかは分からない。
けれど、遠い昔の約束を長い時を経て果たしてくれた燈向に、春人はせめて真っ直ぐに向かい合える自分でありたいと願ったのだ。……血の繋がりは決して簡単に振り払えるものではないと分かっていても。

「青葉さん」
「! 要さん、すみません急にご連絡してしまって……」
 時刻が午前七時を少し過ぎた頃。朝食を取るために訪れた客で店内がにわかに混み始めた時間帯に、要は先日のようにぴしりと華麗にスーツを纏って春人が待つファーストフード店へやって来た。
「何かあったら と言ったのは私だから、気にしないで。それより私の事務所に移動しようか。 ここは少し騒がしい」
「あ、はい……」
 そう言って要は、テーブルの上にポツンと置かれていたホットドリンクのカップを手に取った。
そしてその中身が空だと分かるや否や、カツン、と軽いヒールの音を鳴らしながら、流れるような美しい動作でそれをゴミ箱に放り込んだ。
 まるで、女の子が憧れる理想の王子様みたいだ── そんな事を考えながら、春人は要の真っ直ぐに伸びた綺麗な背中を追いかけた。

「ようこそ、要法律事務所へ……なんてね」
「お、お邪魔します……」
 オフィス街に建ち並ぶ高層ビルの一角にある、テナントビルの一室。
ビルエントランスと事務所玄関の二ヶ所にオートロックの扉があり、セキュリティカードを持つ関係者に伴われないと入れないようなそのテナントビルは、一目見て高級なそれであると分かる。
「それで、どんな困り事かな?」
 事務所の中にある応接室で、蜂蜜のような甘い香気のたつ紅茶を前に、要は柔らかな笑顔で口火を切った。
「あの……今の事とは全く関係の無い案件なので、もし無理なら断って下さって平気なので……」
「まぁそれは話を聞いてから、ね。 取り敢えず話して貰えるかい?」
 遠慮がちな春人の言葉をやんわりと絶ち切って、要はその先を促した。
 分野が違うのならばそれを得意とする同業者を紹介するし、そうでないのならば我が弟の様な存在である燈向が大切にするこの彼の為に一肌でも二肌でも脱ぐ気概はある。

「あの、本当に私情で申し訳ないんですが………」
 そう言って春人は自らの生い立ちを語り出す。
 春人の戸籍上の母親と言う人間は、愛人関係にあった男性との関係悪化から始まった育児放棄に、家庭内暴力……あまつさえ売春行為の強要と、犯罪のオンパレードだった。
 十八歳の時に逃げるために家を出た時、父親の事が一瞬頭を過ったが、その存在はおぼろ気にしか記憶になく、名前はおろか顔も思い出せない程で、そんな曖昧な存在を当時の春人が探し出せる訳もない。
 都会の人の中に隠れながら、息を潜めるようにして今まで暮らしてきた春人の支えが、幼い頃に偶然出会った燈向との『約束』であっただなんて、ドラマチックも良いところだが、それを美談とするには青葉 春人と言う人間が歩んで来た人生はあまりにも……。

「……成る程。 それはこのまま私が引き受けよう」
 春人が全てを語り終えたのは、温かな紅茶の湯気がすっかりと消え、ほんの僅かな温もりだけを残した頃。
 春人の口から語られたこれまでの人生に、要は強烈に胸が悪くなる感覚を覚えた。
 正直なところ、珍しい話ではない。
 けれど、要は初めから春人をクライアントとしてではなく、自らの内側に招いた『身内』として見ていた。

 燈向自身は何も言わないが、彼が兄伝いに連絡を取ってきた時点で『青葉 春人』と言う人物は相当に大切な存在である事など明白なのだ。

 それに、初めて春人を紹介されたあの日。

 場所は燈向が何よりも大切にしていた思い出の薬師神家の邸で、そこにこんな美人を伴って現れて、あんなに『好き』が駄々漏れの目でその人を見つめ、そして自分に「力になって欲しい」と乞われ、それでこの二人の間に友人以上の感情が無いと判断する程、要は鈍くないのだ。

 何度でも言うが、要にとって燈向は弟にも等しい存在だ。
 そんな子が選んだパートナーだ。協力しないと言う選択肢がある筈もない。それに。
「戦う意思のある子は好きだよ」
 そう答えれば、春人はほっと胸を撫で下ろす要に息を吐いた。
 まだどこか不安そうな雰囲気を纏ってはいるが、彼の瞳は確かに強い意志を湛えている。
 この子もまた、燈向と共にこれから先の未来を歩んで行くために、或いは燈向と真っ直ぐに向かい合える自分で在るために、今、戦うことを選んだのだろう。

 どこまでも健気で、出会って日も浅いと言うのにこんなにも心の内側の柔らかい部分を擽ってくるのは、恐らく天性の性だ。

「君が燈向と先に出会ってくれていて良かったよ」
 そうでなければきっと自分と春人は出会ってもいないだろうが、仮にそう言う世界線があったとして、自分が狂わない自信が無いのが恐ろしい…… と要の言葉に不思議そうに首を傾げる春人を見ながら、要は内心で苦笑いを浮かべたのだった。