日も暮れて、明るい都会の夜空にほんの僅かな星々が輝く頃。
幼い頃から願い続けていた再会と、燈向の一世一代の告白とを一気に受けて、ふわふわとした心地のまま春人は自宅まで送り届けられた。
帰りの車の中では、行きとうって変わって車内に沈黙が満ちた。けれどそれは決して嫌なものではなく。
胸が高鳴り、くすぐったい様な心地で、ふと目が会うたびに気恥ずかしいけれど自然に笑んでしまうような、そんなあたたかい沈黙だった。
「……それじゃあ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
春人のアパートの前に車が止まる。それを合図に春人は助手席のシートベルトを外してドアを開けた。
車を降りてドアを閉めれば、そのタイミングで助手席の窓が下りる。
春ちゃん、と呼んで燈向が運転席から体を此方へ寄せてくるので、春人もそっと車の方へ上体を傾けた。
すると燈向の左手がスッと伸びてきて、春人の髪を幾度か撫でる。
「また、ね」
ゆっくりと離れる手を視線で追えば、その先には燈向の優しい笑みがある。
あの日のような爛漫な笑顔ではないけれど、その向こうに幼い彼の面影を垣間見る気がするのは現金だろうか。
「はい、また……。 おやすみなさい」
春人はそっと笑いかけて、車から離れる。アパートへ入らない事で見送る意志を示せば、それを汲み取ったのか燈向は助手席の窓を上げてゆっくりと車を進めた。
アパートから少し先の曲がり角を曲がりかける車に、春人はそっと手を振る。
大きく腕を上げた訳でもないのに、燈向の車は角を曲がる直前に二度、ハザードを点滅させて姿を消した。
「あ……ふふっ…」
バックミラーで見ていたのか、それとも偶々か。春人には知る由もないけれど、それでもこの甘くてくすぐったい別れに、自然と笑みが溢れるのは仕方の無い事だった。
「凄い一日だった……」
アパートの自室へ戻って取り敢えず身支度を解いて春人はひとり、今日一日の出来事を振り返った。
事件の日から仕事と警察と、相手方への対応で日々が目まぐるしく過ぎるなかでの今日。色々と内容の濃すぎる出来事ばかりが続く。
胸の内は言い表せない幸福に満ちているのに、体は緊張の糸が切れた様に疲れがどっと押し寄せて手も足も重たい。
ぼすっ!とベッドに倒れ込むように寝転がって、春人はシーリングライトが煌々と輝く天井をぼんやりと見つめた。
──RiRiRiRiRiRiRi……
どれ位そうしていたのか。突然の着信音にビクリと跳ね起きた春人は、慌てて携帯を手に取る。
音からするに登録外の番号だが、春人が番号を教えていると言うことは恐らく何処かしら関わりのある人なのだろうと思い、通話ボタンをフリックする。
「はい、青葉です」
『あ、夜分にごめんなさいね。私、大家の──』
訝しみながらも応答した春人の耳に、聞き知った声が届く。
それはこのアパートの大家夫妻の奥さんの声で、おっとりした優しい声色で春人へと語りかける。
『昼間、あなたのお隣さんから私に連絡があってね』
「連絡……ですか?」
『ええ、なんでもあなたが留守の時に……ご夫婦なのかしら?四、五十代くらいの男女の二人組が訪ねて来たらしいのだけど……』
「──!!」
大家の、おっとりとした口からでた『夫婦』と言う言葉に、春人は心臓が一気に縮こまり、全身の熱が一気に冷める様な感覚に襲われた。
『それが、その……なんと言うか、ちょっと普通じゃない様子だったらしくて……』
『ああ、いえ! 勘違いしないで頂戴ね、私もお隣さんも貴方がとっても良い住人さんだってちゃんと知ってるわ! でも、だから心配で私に連絡をくれたのよ。
ただ一回訪ねにきた程度で、いきなり警察に電話したって相手にされないだろうから、って』
あなた、その男女に心当たりある? と言う大家の言葉が、どこか遠くに聞こえる。
ドッドッド…… と嫌な脈を打つ胸を宥める様に押さえながら、春人は必死で理性を握り締めた。
「ちょっと、面識は無い……と思います…」
『そうよねぇ……何かの勘違いだったら良いのだけど、もしまたあるようなら連絡を下さいな』
管理会社、警察……そんな言葉が大家の口から発せられているが、今の春人には一つも耳に入ってこない。
気が付けば通話を終えていて、真っ黒な画面に映る自分の顔を見て春人は無性に泣きたくなってベッドに潜り込んだ。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、美しい顔を鬼の様に歪めた母の顔。
恐らく訪ねて来たのは母に違いないと、春人には確信があった。原因はおそらく、今回の傷害事件だろう。
今は非公開にされているが、春人が怪我を負わされたあの夜の様子はライブ配信されていたし、問題のシーンを切り取った動画や、独自のエンタメニュースを取り扱う配信者達が、今回の事を纏めて動画として公開していたりするので、春人の顔が世間に知られてしまった。
故に、何かのきっかけで今回の事を知った春人の母親が、探偵なり興信所なりを使って春人の居場所を突き止めたのだろうと想像するに難くない。
春人が母親の元から逃げ出した時、彼女には特定の交際相手はいなかった筈。とすれば、一緒に居たと言う男は今の恋人か夫か。
二人の関係がどうにせよ、赤の他人の目から見ても只事ではない雰囲気を纏っていたと言うのなら、用件などきっとろくでもない事だ。
そんな事を考えていると、今ここに居もしない『誰か』が自身の身体を撫でるような、おぞましい感覚に襲われて、春人は思わず己の身を掻き抱いた。
逃げるように意識を沈めるけれど、それはあまりにも冷たい夜だった。
