行きとは違う、静かな帰り道。
 燈向は何も語らず、春人もまた、何も問い掛けることはしなかった。
 ゆっくりと歩いて戻った薬師神の邸。その広い前庭を横切って、邸の裏手に回れば、そこには良く手入れされたイングリッシュガーデンと大きな(けやき)があった。
 所々、目印のように埋められた飛び石を辿るように庭の奥へと進んでゆけば、立派な蔦バラ覆われたアーチの向こうに、個人が構えるには大きな温室が見えた。

 燈向は春人の手を引いたまま、その温室の前で立ち止まると「春ちゃん、鍵あるよね」 と問い掛ける。
 春人はそれに黙って頷いて、いつも首から下げていた鍵を取り出した。燈向はどうぞ、と繋いでいた手をそっと解いて、春人の背を優しく押す。

 少し高さの低い入り口扉には、真鍮(しんちゅう)の錠前が掛けられている。
 春人が左手でそっとそれに触れて見れば、そこには鍵の柄と同じ花模様のリースが浮き彫りにされていた。
「これ、ウコンの花なんだよ。 薬師神家の家紋なんだ」
「あ……」
 鍵を持ったまま躊躇う春人のその手を上からそっと握って、燈向は鍵を錠前に差し込んだ。そのまま捻れば、カチャンと音がして錠が外れる。

 鍵と錠前を外して、燈向は温室の扉を開けた。
「ようこそ、オレの『秘密基地』へ…… なんてね」
 昼間の陽射しに温められた空気がフワリと流れ出る。どうぞ、と促されて温室に足を踏み入れれば、微かに花の甘い香りが漂っている。
 大きく育った観葉植物に、ハイビスカスやプルメリアなど、暖かい国で見られるような植物の鉢植え、アイアンの飾り棚には愛らしく寄せ植えされた多肉植物の鉢が大小置様々かれている。
 天井から下げられたハンギングプランターから伸びるワイヤープランツやバインシュガーがカーテンのような役割を果たし、それぞれのエリアを上手く仕切っていた。
 微かに聞こえる水の音につられて奥へと歩を進めれば、温室の一番奥に大きな水鉢があり、その水面には睡蓮の葉が浮いている。
 外から水を引いているのだろう、水鉢の縁に添えられたブロンズ製のカエルがもつ蓮の葉から細く水が滴っていた。

「凄い……」
 好奇心に駆られて、温室の中をあちこち歩き回る春人の背中を、燈向は優しく見守っている。
 昔、自分が大好きだった──いいや、今もここは大切で大好きだが──その場所をこうしてキラキラと眼を輝かせながら歩く春人の姿に、燈向は胸の奥底が温かくなるのを感じていた。
『好きなものを分けあえる人を、大切にね』
 昔、そう言って優しく微笑んでくれた祖母の姿が脳裏に浮かぶ。

 ──お祖母様、随分と時間が掛かってしまったけど、オレの『大切な人』です。

 そう燈向が心の中で語り掛けるのと同時に、春人が柔らかな微笑みを浮かべながら燈向へと振り返った。
 その微笑みの向こうで、在りし日の微笑みを浮かべる祖母の姿を、燈向は確かに見た。

「……!」
「燈向さん……?」
 燈向は堪らない気持ちになって、衝動的に春人を抱き寄せる。
 その腕の中で少し戸惑った様に声を上げる春人の体を、ほんの少し強く抱き締めた。
「…………」
 そうすれば春人は何も言わず、けれどそっと、まだ少しだけ躊躇いの残る腕を燈向の背に回す。
(柔らかい……花の香りだ。 それから、青空と…あの日見た、名も知らぬ花)
 胸騒ぎに導かれるように温室を飛び出したあの日。今ちょうど春人の側にある鉢植えには、春人の瞳と同じ色をした花が咲いていた。

 懐かしい思い出の全てが、青葉 春人と言う存在で色付いて行く。朧気な記憶は霧が晴れた様に鮮明になれば、あの日脳天を貫く衝撃と共に知った愛おしさが際限無く込み上げてくる。
「春ちゃん」
「……燈向さん?」
 ふと腕を緩めて、春人を呼ぶ。そうすれば不思議そうに瞬きをしながら応える様の、なんと愛しいことか。

「春ちゃん……青葉 春人さん」
「ひ…なた、さん??」
 燈向は春人を抱き締める腕をそっと解いて、そのまま両手を握りそっと片膝を着く。さながら忠誠を誓う騎士の様なその振る舞いに、春人は困惑を禁じ得ない。

 けれど燈向はそんなことはお構い無しだ。何せこれから一世一代の大告白をするのだから。
「好きです。一目見たときからずっとずっと好きでした。
でもオレは春ちゃんと同じ男だし、これから先苦労することもあると思うんだけど、でも、それでももうこの手を離したくないんだ」
「燈向さん……」
「もうどこにも行かないで。 必ずオレが守るから、どうかオレの隣に居てほしい……オレと、お付き合いしてください」
 どこにも行かないで──それは春人が幼い頃から抱き続けた願いだった。

 父親の顔はもう覚えていない。母親には何をしても疎まれ、ろくに愛情も与えられず過ごした。
 それ故に周囲からも次第に距離を取られるようになり、春人たくさんの『またね』を別れの言葉にし続けた。
 春人と同じ願いを口にした燈向もまた、ずっと己の唯一無二を求めていたのだ。

「僕、は……」
 果たされない再会の約束ばかりの人生の中で、唯一、皇 燈向と言う男だけが、春人を迎えに来てくれた。
 春人の薄い唇が戦慄く。乾いたはずの視界が歪んで、頬が濡れる。
「燈向さん、が……思うような人じゃ、なくてっ…恋、も……よく、分かりません……」
 春人の記憶の中の、言えない過去が牙を剥きながら蘇る。
 胸の内側で、忌まわしい過去が暴れまわって、傷だらけの心から血が吹き出す。
 春人は自分が綺麗な見た目だけの、とんでもない人間なのだと燈向に打ち明けられずに今に至ってしまった。

 わかっている。分かっているのだ。
 自分は燈向に見合うような人間じゃないと。
 愛されるべき人間じゃないと。
 全部打ち明けて、この優しい手を、あたたかい手を離すべきなのだと。

「でもっ……」
 春人は、僅かに燈向の手を握り返す。夕暮れよりも深い赤が、一瞬大きく揺れた。

 高校を卒業するのと同時に、密やかに貯めていた僅かばかりの貯金とほんの少しの私物だけを小さなカバンに詰めて、春人は逃げるように家を出た。

 逃げ出した春人を、母はきっと血眼になって探すだろう。だから、遠く誰も知らない土地に行くことも考えた。若いのだから仕事さえ選ばなければ金銭を稼ぐ事もできる。
 だから何処でだって生きて行けると思っていたけれど、結局『木を隠すなら森の中』と言わんばかりに人口の多い隣県に逃げたのは、あの夕暮れに交わした約束が忘れられないで居たからだった。

 逃げ出したその年は幾つものアルバイトを掛け持って、とにかくお金を稼いだ。
 そうして二年目に小さな頃から好きだった『絵を描くこと』を本格的に学ぶ為に専門学校入学した。
 そこで奇しくも一年で大学を中退して同じ専門学校に入学した夏樹と出会ったのだ。
 夏樹は、彼なりの距離感で春人を慈しんでくれた。着かず、離れず、時に少しだけ強引に。そうして遂には春人を『家族』だと呼んで、抱き締めてくれた。

 けれど夏樹は春人の絶対的な居場所ではない。

 彼には彼の愛すべき最愛の人が居て、それは春人へと向ける愛情とは違うし、春人もまた、夏樹にそんな類いの情は望んでいなかった。

 勇気を振り絞って逃げ出した先、夏樹と言うかけがえの無い友人に出会い、優しい出会いを幾つか与えられて春人の小さな世界は完成していた。
 それで良かったはずなのに、皇 燈向と言う人間に出会い、心を交わす内に春人は己の本当の願いを強く強く思い知らされたのだ。

 それを口にする事はとても恐ろしい。けれど、春人ただひとりを照らす優しい夕暮れがそれを良しと言ってくれるのならば──。
 
「もう、ひとりは嫌……!」

 心の底から絞り出すように、しかし掠れ消え入りそうなほど小さな声で、春人は精一杯の願いを口にする。

「春人──!!」
 小さく、細やかな願いはしかし、燈向の耳に、心に確と届いた。
 ジャリ、と燈向靴裏が小さな音を立てたのと同時に、春人はその腕の中にいた。ぎゅう、と抱き締められて息が苦しい。
「もう絶対、離さない……」
 心の底から絞り出すように紡がれた燈向の言葉は、春人の胸の内側にすっと入り込む。
 視界を滲ませる涙を瞬きで払う。つぎの涙が滲むまでの、ほんの僅かな時間、見上げた燈向の顔はひどく穏やかで、柔く眼を細めて春人を見つめていた。

 夕焼けより少しだけ朱い瞳が、優しく、けれど燃えるように熱く視線に愛を乗せて春人を映す。
 あまりにも情熱的で、視線が触れるその先から溶けてしまいそうな感覚に陥って、春人はそっと眼を閉じた。
 それと同時に、唇に柔らかな熱が触れる。
 それはあたたかな温もりと共に、春人を苦しめる過去の痛みをそっと和らげてゆく。

 恋など生まれてこの方経験のない春人だが、キスも──その先も知っている。

 それが辛くて悲しくて…… でもこれは、この熱は燈向なのだと思うと痛む胸の奥底から悦びが僅かに顔を出す。

「春ちゃん…も一回だけ、いい?」
 鼻先が触れ合う程の、お互いの輪郭すら曖昧になるような距離で燈向は二度目を求めた。
 それに僅かに頷く事で春人は応え、そっと眼を閉じる。
 閉じた瞼に熱い唇が触れて、ちゅっ、とリップ音がしたと思えば、再び柔らかな熱が唇に触れる。
 触れて、離れて、また触れて。そうして最後にゆっくりと額の端の傷に口付けて、名残惜しそうに離れる熱を追うように春人は瞼を開く。

 ──燈向の瞳が燃えるように、赤かった。

 いつの間にか暮れていた空に溶け込む様な赤い髪と、それよりももっと深い──まるで夜の寸前の様な朱い瞳が春人への慈しみを乗せて燃えていた。

 いつか……そう、いつかのあの日夢見た再会だ。
 きっときっと、二度目は無いだろう。
 過ぎた願いだと分かっていても、そう遠くない『いつかの日』に手放さなくてはいけない温もりと知っていても──否、だからこそ、春人はそれを口にする事を選んだ。

「好きです……貴方が、好きでした」