「うん、では裁判の方針はそう言うことで。 他に何か希望はありますか」
「いえ、大丈夫です。 宜しくお願いします」
互いにテーブルを挟んで向かい合い、それぞれの前に置かれたティーカップの紅茶もすっかりと冷めてしまった頃。
概ねの方針も定まり、ビジネス的な話し合いの空気が少し弛んだのと同時に、燈向は「お茶のおかわり淹れてくる」と言って席を立った。
要と二人、広い部屋に取り残された春人は、若干の緊張を残しつつも静かに燈向の帰りを待つ。
そんな春人を見ながら、要はリラックスしたようにテーブルに両肘を着いて、組んだ手の上にそっと顎を乗せて春人を見つめた。
「キミ達は少し似ているな」
「え?」
ふと呟くように、要が言う。
似ている、と言う彼女の言葉に、今までそんなことを微塵も感じていなかった春人は、思わず疑問の声を上げた。
「根っこがね、少し似ていると私は思うよ」
「根っこ……」
「そう。 ひな坊は、あれでいて両親からネグレクト紛いの扱いを受けていてね。いや、ネグレクトと言い切っても良いのかもしれないが……。
気を悪くしないで欲しいのだけど、キミも少し……幼い頃のひな坊と似た雰囲気がある。
ああでも、勘違いしないでやって欲しいのだが、ひな坊がキミを気に掛けるのは、決して憐憫ではないよ。
あれはまぁ……基本は優男ではあるが、兄に似て芯が強いし、いざと言う時は頼りになる子だ。遠慮なく頼ってやってくれ」
それがあの子の為にもなる と要は少し遠くを見つめながら言う。
「さぁて、と。 ひな坊!!悪いが私はそろそろお暇するよ!次の打ち合わせがあるのでね!」
姿勢を正し、組んでいた腕をそのまま上に上げてグッと伸びをした要は、静かに立ち上がり、そうして燈向が姿を消したキッチンの方へ歩き、声を張り上げた。
「え?!ちょっとカナさん?!」 と遠くから燈向が叫ぶ声が聞こえるが、要は言うだけ言うとさっさと鞄を持って部屋を出る。
「か、要さんっ」
春人は慌てて立ち上がり、迷わず玄関へと向かう要を追った。
「あのっ、今日はありがとうございました」
「まだこれからだよ、春君。 何かあったら迷わず名刺の番号に掛けておいで。そう言う事も込みでの契約だからね。良いかい?」
遠慮は無しだよ、と念を押すように要は春人に詰め寄る。
その勢いに押され、ついつい勢いで頷けば、要は満足そうに笑った。
「良い子だ。 ……燈向を宜しく頼む」
まるで子供にするように、要は春人の頭をくしゃくしゃと撫でる。そうして一言、真剣な声色でそう言うと、春人の返事も待たず玄関扉を開けて出ていってしまった。
パタン、と静かに扉が閉まり、彼女のヒールの音が遠ざかってゆくのと同時に、慌てた燈向が顔を出したが時すでに遅し。
要があっさりと帰ってしまった事を知ると、燈向は小さく溜め息を吐いた。
「要さん、お忙しいんですね」
「それもあるだろうけど、あの人昔っからああいうとこあるから……性格かな」
燈向はきっと、昔の要を思い出しているのだろう。少し懐かしそうに目を細めながら、小さく笑った。
「折角だから、少し散歩でも行かない?」
ふと訪れた沈黙を、燈向が柔らかな声で押し退ける。
言葉だけ聞けば、春人に問い掛けているようにも思えるけれど、その実彼の表情は至って真剣で、それでいて春人に決定権を与えていない。
春人は言葉と共に差し出されていた燈向の右手に、自分の左手を重ねた。
そっと握り返された手から伝わる体温に、どうしてだか春人の鼓動が逸る。
「薬師神家って言うのは古くから薬を扱ってきた家でね、ここはオレの母方の実家にあたるんだ」
とは言えさっきもちょっと話したけど、お祖父様はオレが生まれる前に亡くなってるし、お祖母様もオレが小さい頃に亡くなっちゃったから、この家に来るのは本当に……何年ぶりだろう。 二十年ぶりくらいなのかな?
オレが最後にこの家に来たのが小学生の時で…… その時初めて邸の近くに公園があるのを知ったんだ」
つらつらと自身の過去を語る燈向の声を、春人は黙って聴いていた。
相槌も何も返さない春人の事を特に気にする様子もなく、燈向はずっと穏やかに、そして懐かしそうに思い出を語っている。
綺麗に手入れされた生け垣が遥か向こうの方まで長く長く続き、正面に見えるのは良く手入れされた森を思わせるような自然豊かな景色。
入り口には『○○市 ふれあいの森公園』とブロンズに彫られた看板が大理石の大きな岩に嵌め込まれていた。
燈向は春人の手を引いたまま、迷わず公園の中へ歩を進める。
「その日はどうしてだか凄く胸騒ぎがして」
「………………」
「なんだろう……何て言うか、『何かに呼ばれてる』って言うの? 虫の知らせ…じゃないか。まあとにかく、落ち着いてらんなくて」
「一緒に来てた兄さんにも、家にいたお祖母様にも何も言わずに飛び出したんだ」
カサッ、クシャッ…… 二人が歩く度、道の上に落ちた枯れ葉がまるで相槌の様に乾いた音を立てる。
舗装された道が途切れて、開けた場所に出た。
そこは広い広い運動場になっていて、左奥の方に芝で覆われた小さな丘があり、そこにカラフルな大型遊具が設置されている。
ドクリ、春人の心臓が大きく跳ねる。覚えのある景色だった。
いつもの如く男を連れ込んだ母親に追い出され、あの日春人はとぼとぼと街をさ迷い歩いた。
近場の公園ではもう誰も春人を相手にしてくれず、かといってそこに留まると市の職員だと言う知らぬ大人が来て春人に声を掛け、施設に連れてゆく。
恐らく、放置される春人を哀れに思った見知らぬ誰かの善意だったのだ。
けれどその善意で施設に連れて行かれた後、母親に連絡され──市の職員と大喧嘩の様な言い争いをした後に家に連れ帰られると、いつも以上に酷い目にあった。
そうなるのが嫌で、春人は知ったはずの街をでたらめに歩きながら、知らぬ公園に辿り着いたのだった。
そうして、燈向と出会って……夢の様に幸福だった僅かな時間を過ごして。
けれどその後、知った街の知らぬ景色に迷子になって春人は交番に保護された。
そうすれば母親に連絡が行くのは当然で、我が子を心配して駆け付けた母親を演じるそれに引き渡され、連れ帰られた家で口に出したくもない『仕置き』を受けた。
愛おしい思い出と共に、忌まわしい記憶も思い出されて、春人は思わず着ていたシャツの胸の真ん中辺り──その内側にある縁の鍵を握った。
そんな春人を、燈向はそっと眼を細めて見つめる。大丈夫、傍にいる…… と朱い瞳が語り掛けていた。
こっち、と燈向は再び歩き出した。大きな遊具がある方とは逆の、土ばかりしかない運動場の端。
燈向はそこで立ち止まると、春人の手を少し強く握った。
「ここに、子供がひとり居て。 オレはどうして皆と遊んでないんだろう?って思って声を掛けたんだ。
その子は小さな棒切れで地面に絵を描いてて……上手だなって思った。 それで『一緒に遊ぶ?』って誘ったんだ」
春人は燈向の言葉に息を詰めた。それが彼の耳にも届いたのだろう。燈向は春人の手を一瞬だけ強く握った。
「今日みたいな、雲ひとつ無い──綺麗な青空の髪の色をした、綺麗な子だった」
燈向は決して春人の方を見ない。
静かに顔を上げて、今日の晴れた青い空を愛おしそうに見上げるばかりだ。
「一緒に遊ぼうって言ったら、凄く嬉しそうに笑ってくれて……嬉しかったなぁ」
そうしみじみと呟いて、燈向は歩き出した。遊具の方ではなく、木々の繁る小路の方へ。
「俺、前に兄さんがいるって言ったでしょ?でも父親と母親は、基本的にオレを『いないもの』にしてたからさ。
兄さんは違ったけど。
それで、両親はオレが何をしたって、勉強や運動をどんなに頑張ったって、絶対に褒めてくれたり喜んでくれることは無かったんだ。
だから……まぁ、正直、小さい頃のオレは『自分が何をしたって、喜んでくれる人なんかいない』って…… そう思ってた」
自分に優しくしてくれた人達は確かにいる。感謝もしている。けれど、彼らの優しさの大元に『憐れみ』が全く無かったと言えばそれはきっと嘘だ。
それが悪いとは思わない。燈向がその優しい憐れみに救われていたのは事実なのだから。
でも。
「でも別に、その子に遊ぼうって言ったのは可哀想とかそんなんじゃなくってさ、ただ単に、誰とも遊ばないならオレと遊ぼ?って……ホント、それだけだったんだ」
でもさ、と燈向は一瞬押し黙る。サァッと風が吹き抜けてゆく。耳に届くざわめきは、果たして木漏れ日を落とす木々のそれだけだったろうか。
「それで、その子は笑ってくれたんだ。 オレが何にも考えずに言った言葉に……花が咲くみたいに、笑ってくれたんだ」
──嬉しかったなぁ と再び溢して、そうしてやっと燈向は春人へと向き直った。
「それで、別れ際にその子があんまりにも寂しそうにするから……ううん、嘘。 オレももっとずっと一緒に居たかったんだ……だから、また会えるように一つ、約束をしたんだ」
知っている。春人はその『約束』を知っている。
あの時から今日に至るまで、ずっとずっと、春人の心を守り続けた『約束』。
たぶんきっと、燈向は笑っているのだろう。優しい顔で、優しい目でこちらを見つめている。
皇 燈向と言う人間は、そう言う人間なのだと知ったから。
でも、それでも今の春人には燈向の顔がちゃんと見えない。
燈向どころか、世界中の全部が暈けて滲んで、歪んでどうしようもない。
いつ、思い出してくれたのだろう。
小さな子供の頃の約束なんて、思い出したところで忘れたふりをしていたってよかったのに。
「春ちゃん」
燈向がちょっと困った声で春人を呼ぶ。
ヒクリ、と息をしゃくり上げて、春人は片手で眼を被う。手の甲で目元をこするその手を、燈向がやんわりと止めた。
「なーんで、すぐ思い出せなかったんだろう。 あの時さ、こう、雷がドーン!て落ちてきたみたいなさ……それくらい衝撃的だったのに」
燈向の少しカサついた指先が、春人の際限無い涙を何度も何度も浚う。
繋いだままの手も、涙を拭う優しい指先も、声も言葉も、何もかもあたたかい。
燈向──まさに天から降るあたたかい日射しのような人。
「春ちゃん」
木漏れ日が風に揺れる。少しだけ晴れた視界で、燈向が優しく笑っていた。
いつの間にか握られていた両手を燈向がそっと合わせて包み込むように握っている。
「ずっとずっと、待たせゴメン。 待っていてくれてありがとう。……オレの大好きな『秘密基地』に行こう」
その言葉と共に、春人の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。子供みたいに泣きじゃくる春人を抱き寄せる瞬間、燈向の目が少しだけ潤んで歪んでいたのはきっと見間違いではないのだろう。
