事件から三日経った。
あれから病院やら警察での事情聴取やらで春人は多忙を極めていたが、その全てに燈向が随伴し、春人の面倒を見てくれていた。
怪我の方は包帯も取れ、今は少し大きめの絆創膏で傷をカバーしているが、前髪からチラリとそれが覗く程度であるので、見た目にはさほど気にならない。
今朝は小鳥の囀りが響く穏やかな朝だった。空は青く、風もない穏やかな日だ。
自宅アパートの前で春人は一人、待ち人を待っている。
約束の時刻まで後十分と少し。事前に『着いたら連絡するから』と言われてはいたが、ソワソワと落ち着かなくて春人は身支度を整えて自宅を出た。
「おはよう、春ちゃん」
「おはようございます、燈向さん」
今日は件の女性弁護士との顔合わせの日だ。場所は隣県。セッティングしたのは燈向で場所も彼が指定した。
『どうしても、改めて話したい事があるから』
と前日に連絡があり、弁護士との顔合わせは燈向が指定した場所で行うことになった。
燈向の車の助手席に乗り込んで、シートベルトを締める。
ふと視線を感じて運転席の方へ目を向ければ、燈向がハンドルに上体を傾けた姿勢でニマリと笑みを向けていた。
「………………あの?」
「いえいえ、なぁんにも? 別に、約束の時間より前に待っててくれるなんて可愛いなぁ、とか思ってないよ?」
「燈向さん…!!」
「あっははは!!」
春人がアパートの前で待っていた理由すらお見通しの上で、あえて言葉にされた燈向の感情に、春人は頬を染める。そんな春人の反応を面白がる燈向の笑い声に合わせて、僅かに車が揺れた。
「は~……やっぱ春ちゃんは可愛いなぁ」
「………」
「ははっ、ゴメンって。 出発しま~す」
燈向は目尻に浮かんだ涙を拭って、不満そうに唇を尖らせる春人の頬をツン、とつつく。
気恥ずかしそうに目を逸らした春人の横顔を流し見て、燈向はゆっくりとアクセルを踏んだ。
都内から車を走らせること二時間程。
かの有名な観光地に程近いそこはしかし、閑静な住宅街だった。
大きな邸と呼ぶに相応しい建物が数多く建ち並び、そのどれもが街並みを形作るひとパーツとして機能している。
「この角の先が目的地だよ」
と言う燈向だったが、先程から助手席の窓の外を流れてゆく景色は、一軒の大きな邸の生け垣だ。
「あれ、門が開いてる……。 先に着いたのか。待たせちゃったかな」
大きなアーチを描く門構えの向こう。正しく大正浪漫を体現したような和モダンな邸へ続く広い石畳の道を、燈向の車は躊躇いなく進み入る。
弁護士との初顔合わせの場所をわざわざ指定すると言うからには、何か向こうの、あるいは燈向の事情があるのだろうと思ってはいた。
しかしあまりにも予想外になりつつある場所と状況に、春人は今更ながらに緊張を覚え始めた。
「あの……燈向さん。 ここは?」
勝手知ったる風で気兼ねなく敷地内に進入する燈向へ、春人は恐る恐る問い掛けた。
「ああ、えっと、オレのお祖母様のお家だよ。 とは言え、オレが小学生の時に亡くなっちゃって、今は親戚の人が管理してくれてるんだけどね」
大きな邸、お祖母様、親戚が管理──おおよそ一般的ではない単語ばかりが燈向の口から転がり出て来ることに、春人はもう驚きを隠せない。
そんな春人の様子をチラリと横目で見た燈向は、少し気まずそうに笑っている。
「オレが誰かはまぁ、この後話すから……今は心強い味方に会いに行こうか」
「……はい」
そう言って車を大きな邸のロータリーに停め、運転席を降りた燈向に倣って、春人もまた、助手席を降りた。
ドラマか何かで目にするような、美しい幾何学模様のステンドグラスが嵌め込まれた玄関扉を開いた先には、正しく『エントランスホール』と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。
正面に大きな階段が設えられているが、それは踊り場で左右に別れて二階へと繋がっている。階段の側の大きな花瓶に活けられた花々が、このエントランスホールに色彩と、優しく華やかな香りを供していた。
思わず見上げた天井からは、クリスタルの輝きが美しい、大きくてクラシカルなデザインのシャンデリアが柔らかな橙色の光を放っている。
「わぁ……」
描く者として、デザインを嗜む者として、純粋に芸術的価値の高さを伺わせるこの邸宅の洗練された美しさに、春人は知らず嘆息する。
「春ちゃん、こっち」
邸宅内の佇まいに感心する春人を、燈向はそっと目を細めて呼ぶ。
おいで、と小さく手招きする燈向に、本来の目的を思い出した春人はハッと小さく跳ねて、そうして慌てて彼の背を追った。
木製の飾り柱の装飾が美しい廊下を歩いた先。突き当たりの大扉を燈向はノックする。
『どうぞ』と知らない声が聞こえる。燈向が扉に手を掛けると、音もなく開いた。古くても、よく手入れをされている証拠だ。
ドラマや映画や……それこそ漫画やアニメにも描かれるような、品良くコーディネートされた大きくて長い机と、沢山の椅子。
その長い机の一番奥、上座に座っていた女性がスッと立ち上がった。
紺地に細い縦ストライプのスーツを纏うその女性は、ヒールを履いていることを差し引いても春人と背丈が変わらない様に思う。肩の下辺りまで伸びた纏まりのある黒髪は毛先に向けて緩くウェーブを描いている。
その髪を優雅に揺らしながら、ファッションモデルもかくや、と言うような美しいウォーキングで此方へ向かってくる。
数メートルの距離を颯爽と詰めた彼女は、パッと明るい笑顔を向けて燈向の方へ手を差し出した。
「やぁ、ひな坊!! 随分と久しいな!!」
「ちょっとカナさん……オレもいい加減大人なんだからその呼び方やめてくださいよ」
燈向は彼女の手を握り返しながらも、少し苦い笑顔を浮かべる。
ひな坊、カナさん…… そんな風に呼びあえる親しい仲なのはそれだけで理解できた。しかし……
「ひな坊……」
あまりにも愛らしいあだ名に、春人は思わずそれを口にしてしまった。
「も~っ!ほらぁ……春ちゃんにまで移っちゃったじゃないですか!」
「あっ、いやっ、ごめんなさいこれはそう言うつもりじゃなくてっ」
春人が思わず口にしたそれを耳敏く聞き付けた燈向が、彼女に抗議をしながらよよよ…… と顔を被う。
思いがけない反応に、これは流石に失礼が過ぎたかと春人が慌てて弁明をし始めたところで、ワッハッハと豪快な笑い声が上がった。
「成る程、これはお前が入れ込む訳だ」
「入れ込むとか止めてくださいよ。 純愛って言ってくれます?」
顔を被う指の隙間からジトリとした視線を向ける燈向を、彼女は「失敬失敬」と軽くあしらう。
そうしてスッと姿勢を正し、口元に柔らかな笑みを浮かべ、今度は春人へと右手を差し出した。
「では改めて…… 初めまして。 今回私がキミの弁護を務める要 優輝だ。事情は概ねそこのひな坊から聞いているよ。災難だったね。
しかし驚いたな……この世の美しいものをかき集めたらこうなった、みたいな。 これはひな坊がメロメロになる訳だ」
「ぇえっと……」
「ちょっとカナさん! オレが面食いみたいに言わないでくれます?!春ちゃんの良い所は見た目だけじゃないんだから!」
「ダッハッハ!! メロメロなのは否定しないのか!!これは相当だ!」
「カナさんっ!!」
要が差し出した手を条件反射の様に握り返してしまったが、それはそうとして春人は目の前の二人が繰り広げる掛け合いに呆気にとられ思わずポカンとしてしまう。
燈向が彼女を豪快、あるいは気っ風が良いと表した通り、さっぱりとした性格で芯が強いのだろう。
けれどそれとは別に、燈向がこんなにも砕けた態度を取れる相手と言うのが新鮮で、少し子供っぽいとも取れるような反応をする燈向に、春人は意外な一面を見た。
「では、戯れはこれくらいにして、本題に入ろうか」
そう言って要はスッとテーブルの方へと自然に春人をエスコートする。
この場はすっかりと彼女が主導権を握る空間になっていた。
