───ピピピピッ!ピピピピッ!!
記憶の夕暮れは軽やかな電子音と共に朝を連れてきた。
ベッドサイドチェストの上でアラームを響かせる携帯を手探りで取り上げ、ぼんやりとしたままの頭でアラームを止める。
(……懐かしい、夢)
頭まですっぽりと潜り込んでいたベッドから起き出し、自分しかいない部屋を見渡す。遮光カーテンの向こうはきっと晴れやかな空が広がっているのだろう。カーテンの下から零れる光が眩しいくらい白い。
春人にとって遠い昔の出来事を夢にみるのは珍しい事ではない。
良い思い出を夢としてみることもあるし、嫌な思い出を夢としてみることもある。
昨夜の夢は春人にとって良い夢の部類だ。春人はいつも首に掛かっている細い革紐を手繰り寄せ、その先に括られている古びた真鍮の鍵を掌に乗せた。
(結局、また会えることはなかったけれど……)
あの日出会った『夕焼け色の髪をした少年』がくれた鍵は、今もこうして大事に手元にある。
“どこにも居ない”春人を、また迎えに来てくれると言った彼の言葉はきっと嘘ではなかっただろう。
だけど、子供ではどうしようも出来ない事というのは五万とあると言う事はもう少し成長してから知った。
だから、名も告げず「またね」と手を振った彼を恨む気持ちは微塵もない。むしろ、掌のに収まるくらい小さくてもあたたかい希望を与えてくれた事に感謝している。
昨日みたいに怒声のような雷鳴の鳴り響く夜は、懐かしいあの日に戻れるように願いながら鍵を握って眠るのは、春人にとってはもう癖のようなものだ。
──コロン♪
ぼんやりと手に持ったままの携帯が、軽やかな電子音と共に僅かに震える。
メッセージの着信を告げる音に、春人は手にしていた鍵を服の内側にしまい込んで、それから片手でロック画面を解いた。
赤い通知の印のあるメッセージアプリを起動し、馴染みのある名前が表示されているトーク画面をタップすれば、たった一言だけのメッセージが追加されている。
『寝てた?』
『起きた。 おはよう、夏樹』
端から見ればずいぶんと素っ気ないやり取りだが、そうして許される相手なのだ。この『夏樹』と言う人物は。
ポン♪ポン♪と立て続けに送られてくるメッセージを見るに、近くに来ているらしい。
『鍵あけてて』
『わかった』
短いやり取りの後、返事が来なくなる。
春人は言われた通りに玄関ドアの鍵を開け、その帰りに洗面所に寄って顔を洗う。そのままキッチンに入り、冷蔵庫の中を確認した。
卵が三つ、牛乳もそこそこ。確か野菜室にレタスはあった。ベーコンもあるし、冷凍庫にはベーグルがまだ幾つかある。
「……ごはん、食べるかな?」
「ハル~」
取り敢えず二人分の朝食は確保できそうだと安心していると、ガチャン、と玄関ドアが開く音と同時に春人を呼ぶ声が聞こえた。
春人はキッチンからひょっこりと顔を出して来訪者を迎える。
「おはよう、夏樹。 ご飯食べる?」
「んーん、いい。 寝ていい?」
「いいよ。 シャワー使う?」
「使う~」
夏樹の返事を聞いて、キッチンの入口近くにある給湯のスイッチを入れた。
「夏樹」と下の呼ばれ、先程まで春人と気安くメッセージを送りあっていた張本人の彼は、春人の唯一の友人である弓立 夏樹。
夏と言っても秋の手前のような、黒縁の眼鏡も相まって少し気だるげな雰囲気が特徴的な男だ。
春人と夏樹は専門時代に知り合った。
出会いは至って平凡だ。入学式の時に夏樹が春人に声を掛けて、そのまま仲良くなったのだ。
夏樹は大きなあくびをしながら、勝手知ったる何とやらでキッチンにいる春人の前に立つ。
「……寝れた?」
「ん、大丈夫だった」
自分の朝食の支度をしようと片手に凍ったベーグルを持ったままの春人へ、夏樹は手を伸ばす。
春人の空色をした細く柔らかな髪をそっと指先で払って、そのまま目の下を指の背で撫でる。
さらりとした肌の感触。隈もない。眠れた、と言う言葉に嘘は無いことを確かめて、夏樹は満足気に春人の頭を撫でる。
夏樹は長い付き合いの中で、春人が雷雨や強風などの大きな物音がする天候を酷く嫌っている事を知っている。……その理由も。
だから昨日の様な天気の悪い夜はトークアプリの通話機能を使って春人が寝落ちるまで話しをしたり、もしくは今みたいに夏樹が春人の家に泊まって一晩過ごす事が暗黙の了解のようになっていた。
別に春人が「そうしてほしい」と頼んだわけではない。事情を知った夏樹がしたいからしている。それだけの事だが、敢えて触れずにいるのは春人なりの甘えだ。
それは二人の関係だから許される緩やかな依存かもしれないが。
「お茶でも飲む?」
「風呂上がったら貰う」
「ん、わかった」
短い言葉のやり取りをして、夏樹はバスルームへ向かう。
どこに何があるだとか、春人は何も言わない。そうしなくても知っていることを知っているから。
シャワーの音を聞きながら、春人は朝食の支度をする。
ベーグルは冷凍のままトースターで焼いて、その間に電気ケトルのスイッチを入れる。夏樹が一緒に食べるならベーコンエッグのベーグルにしようかと思ったが、ひとりならばジャムで構わないだろう。
クリームチーズも一緒にすればもっと食べろと文句は言われないだろうか…… そんなことを考えながら焼き上がったベーグルを真横に半分にして、その輪にそって莓ジャムを塗る。
個包装のクリームチーズもスプーンで小さく分けてジャムの上において挟めば完成だ。
マグを二つ取り出して、どちらにも紅茶のティーバッグを入れる。これから眠る夏樹の為に、春人はカフェインレスを選んだ。
電気ケトルからお湯を注いで、少し長めに蒸らす。濃い目に出すのは後でミルクを入れるから。
シャワーの音が止んでバタン、とバスルームの扉が音をたてる。ちょうど紅茶も程よく入ったところだし、実に良いタイミングだ。
バスタオルを腰に巻いた夏樹がペタペタと素足の音を立てながらリビングにやって来た。
春人の自宅は割合広々としたロフト付きワンルームで、それなりに広めのクローゼットもある。
その中の一部には夏樹の服が入っていて、彼がどれだけここに通いつめているかが解るだろう。
「シャワーありがと」
「どういたしまして」
「何入ってる?」
「莓ジャムとクリームチーズ」
簡潔なやり取りはテンポ良く進む。たくさんの言葉を口にしなくても通じるのは二人だからだ。
あ。 と口を開けた夏樹に、春人はなにも言わずベーグルを差し出した。
ガブリ。一口にしては大きく持っていかれるけれど、さして気にはしない。
「ん~…… うまい」
「何時に起きる?」
モゴモゴと口を動かす夏樹を見ながら、春人は齧られて歪になったベーグルを皿に置いて冷蔵庫から取り出した牛乳をそれぞれのマグに注いだ。
「十四時から式の打ち合わせがあるから、十三時。 ……出掛ける?」
「ううん、出掛けない」
春人はフリーのイラストレーターなので、基本的に在宅仕事だ。
もちろん、依頼先との打ち合わせなどがあれば出掛けるけれど、今日はそんな予定はない。
「じゃ、おやすみ」
「ん、おやすみ」
いつの間にやら飲み干したミルクティーのマグを、夏樹はシンクに置いて当然の様に春人のベッドへ潜り込む。
数分もしない内に穏やかな寝息が聞こえ始めると、春人もゆっくりと朝食の続きを取りはじめる。
昨日の恐ろしい夜が嘘のように穏やかな一日の始まりだった。
