ふと意識が覚醒する。その瞬間に認識した景色は、夕暮れの朱い空と色とりどりの遊具と、広いグラウンド。
(………あれ?ここって)
 遠い昔に見覚えのある景色に、春人は“これ”が夢の中なのだとすぐに理解した。
夢の中で“それ”が夢であると認識する事は珍しくない。ただ、今まで追憶ばかりしていた光景を自分が自分であると言う意識を持ったまま体験しているのは珍しい。

『ねぇ、』
「!!」
 そんな事を思いながらぼんやりしていると、少年らしいトーンの高い声が春人を呼んだ。
 弾かれるように顔を上げて見れば“今”ではすっかり見覚えのある夕暮れに似た紅い髪と、それに似た紅い瞳。
 少年は左のポケットを探ると、ニコリと笑って手を差し出してきて。
『持ってて』
 そう言って春人の手のひらに一つの鍵を乗せた。
 柄にリースのように丸く花があしらわれたそれは、今の春人には十分すぎるほど見覚えがあって。

(ああ、やっぱり……)

 それは、そうであってほしいと願った答えだった。
『またね!』
 そう言って笑う顔は“今”の彼と変わらない。どうして今の今まで思い出せなかったのだろう。
 果たされなかった『またね』はたくさんある。
 長い時間の中で、きっとどうしようもない理由があったのだと言い聞かせながらも、あの子もまた、たくさんの果たされなかった『また』のひとつだったのだと、心のどこかで思っていた。

だけど。

 燈向はその約束を果たしてくれていた。本人は気付いていないだろうけれど、長い年月を経て、もう一度春人に出会ってくれた。そうしていつも手を引いて、痛みや寂しさから遠ざけてくれて……。
(どうか……)
 けれどその先を願う事は出来ない。これ以上は過ぎた幸福で、燈向にとってこの先はきっと苦難でしかないのだから。

──春ちゃん

 遠くで、燈向が呼ぶ声がする。優しくて、切ない声。ずっとずっと聞きたかった声。目の奥が熱い。夢の中でも涙は溢れるのか……なんて。

春人はゆっくりと目蓋を閉じ、優しくて切ない思い出に幕を下ろした。



「………………………」
 パチ、パチ…… 春人はゆっくりと瞬きを繰り返す。
何度繰り返しても視界はクリアにならなくて、夢の中の涙は現実にまで作用していたのか…… なんてどこか他人事のように思った。
(綺麗……)
 春人は目の前にある燈向の顔をまじまじと見つめる。
 髪と同じ色をした深い紅の睫毛が頬に影を落としていた。スッと通った鼻梁はクールな印象をもたらすが、今はどことなく幼くみえて可愛いと思う。

 もっとしっかり見ておきたいのに。……ちゃんと覚えておけるように。
 なのにどうしても涙は止まってくれなくて、視界はぼやけて滲むばかりだ。

 春人は燈向の頬に手を伸ばす。指先が触れた肌はあたたかい。
 起こさないようにそっと輪郭をなぞると、春人の指先が離れる寸前で大きな手に阻まれてしまった。
「…………どうしたの?」
 燈向が目を開く。
 捕まえた春人の指先を緩く握り直した燈向は、春人が抵抗しないのを良いことにそのままその細い指先に唇を寄せた。ちゅ、と響くリップ音と、起き抜けと言うにはあまりにもはっきりと紡がれた言葉は、彼が寝たふりをしていたと言う事実を物語っていて。

「……ずるい」
「ごめんね? あんまり可愛いことしてるから、つい」
 そう言って燈向は優しく微笑む。
 春人の手をそっと離して、涙の残る目元へ指の背を添えたと思えば、そっと拭われる。
「痛い? 気分が悪い?」
「…………………」
 泣いていることを体調が悪いせいかと問う燈向に、春人は小さく頭を振って否定する。確かに身体はすこし重たい。けれどこの涙はそうじゃない。
 理由は言えない。だから何も聞かないで。
 言いたいけれど言えない言葉が、涙になって溢れて落ちる。はらはらと際限なく落ちる涙を、燈向はずっと拭い続けてくれた。

「……大丈夫、もう大丈夫だよ。 何も心配しないで」
 燈向は春人の涙の理由をどう思ったのだろうか。一瞬何か言いたそうな……あるいは何かを堪えるような顔をして、それからいつものように優しく笑って春人をその胸に抱き寄せた。
 思い返せば燈向の前ではいつも泣いている気がする。情けないところもたくさん見られている。けれど燈向は呆れるでもなく、見放すでもなく傍にいてくれて。
 どうして、と思うけれど臆病な自分には理由を訊ねる勇気もない。
 ただ『許されている』ことに甘えるだけで……。だから、離れがたくなってしまった。
(好き……だなんて…)
 決して言えない感情が春人の胸のなかで膨らむ。

苦しい、さみしい、恋しい………(かな)しい。

 誰かに“恋”をするなんて思っていなかった。有り得ないと思っていた。
 でもきっとこれは“初恋”だから、実らず終わる。初恋とはそういうものだ。それでいい。
 だけど、もう二度とこの(あか)を忘れないようにしっかりと目に焼き付けておこう。夕暮れに似た深い朱はきっと何度も思い出して苦しくなるかも知れないけれど、忘れてしまうよりはきっと良い。

 そう思って、燈向の赤い瞳を見つめた。その時。

「ごめん……」

 視線が絡み、燈向の赤い瞳が一瞬燃えるように揺らいだかと思うと、次の瞬間には彼の顔がぼやけるほど目前にあった。

 唇には柔らかな、けれどすこしかさついた感触。
 一瞬触れて離れたそれはしかし、再びそっと春人の唇に触れた。
 鼻先が触れる。長い睫毛に縁取られた瞳に促されるように、春人は目を閉じた。
 それを合図にしたかのように、もう一度唇が重なる。
 燈向の手がそっと春人の頬を撫で、何度も、なんども触れるように唇が重なった後、そっと離れてゆく。
 それでもまだ鼻先が触れるほどの距離を保ったまま、燈向は春人を見つめていた。

「……まだちゃんと伝えられないけど、嫌じゃないなら…このままここにいて。 どこにも行かなくていい。何も心配しなくていいから、無かったことにしないで」
 燈向の腕は春人を緩く抱いている程度で、このまま春人がその胸を押せば容易にその囲いから抜け出せるだろう。
 けれどきっと燈向はわかっている。春人がそうすることを選ばない事を。
(ずるい……)
 あって無いような選択肢だと言うことを、燈向はわかっているのだ。
「狡くてごめんね……でも、離してあげられないんだ……」
 春人の考えも、気持ちすらもお見通しで、こんなことを言うなんて。
(……本当にずるい人。 けれどこんな時にどう答えれば良いかわからない)
 だから黙って、春人はその胸に顔を埋める。
 あたたかい腕に力が籠って、苦しいほどに抱きすくめられた。
(苦しくて、切ないのに……うれしい…)
 燈向の腕の中で、春人はそっと目を閉じる。
 燈向もまた、“そう”なのかと思って良いのだろうか。自惚れても……否、信じて良いのだろうか。
 遠い昔に夢見たぬくもりに包まれて、胸が苦しい。けれどこれはきっと、幸福の証なのだ。