「…いや、仕事早くてびっくりした。 ああ、うん………うん。そう…じゃあ、それで進めて……あ、ゴメン。ちょっと待って、」

 聞いたことのない、低い声が聞こえる。
 無理やり目蓋を押し上げて、少し目を開いてみたけれどひどく重たくてすぐに閉じてしまう。それを何度もなんども繰り返していると、あたたかい手が頭を撫でてくれた。
「ごめん、起こした? ……大丈夫、まだ寝てていいよ」
 綿飴みたいに甘い声が鼓膜をくすぐる。髪を撫でる手が、鼓膜を揺らす甘い声がくすぐったくて、春人は無意識にその手を捕まえて握りこむ。
 そのままもう悪さをしないように両手でしっかり捕まえて、頬をよせた。目なんかとっくに開いていない。だってこのあたたかい手が閉ざしてしまったのだから。
「……おやすみ、春人」
 もう一度、綿飴みたいにふわふわ甘い声が降ってきて、そのまま春人の意識を連れ去ってしまった。


 すう、すう、と穏やかな寝息がかすかに聞こえる寝室。時刻は午前八時を少し過ぎた頃。
 燈向は自身の寝室のベッドで上半身だけを起こし、声を潜めながらも自身の兄と連絡を取っていた。

 兄──皇 大翔(すめらぎ ひろと)は燈向の兄であり、皇家の現当主である。

 燈向は今現在、両親とはほぼ絶縁関係にあるが兄とは昔から兄弟仲はよく、折に触れ連絡を取り合っていた。
 ただ今回は事情が事情なだけに穏やかな世間話とはいかない。
 燈向はあの夜、春人を害した男たちに自分達が何をしでかしたのかを徹底的に解らせてやろうと決意した。端的に言うならマジ切れというやつだ。
 家名でも何でも使えるものは惜しみ無く使って、一切の情け容赦なく徹底的に。
『……………………………………』
「無言やめて、兄さん。 オレだって恥ずかしいんだよ」
 まさか春人が目を覚ましてしまうとは思わなかった。いや、目を覚ましたと言うより微睡んだと言ったほうが適切かもしれないが。

 春人が一瞬目を覚ましたあの時、まだ寝てて良いと言った所までは理性があった。しかしあんな風に甘えられては、現状も理性も吹っ飛んだって仕方がない。
 握り込まれた左手はまだそのままなのは今が堪らなく愛しいと思っているから。
『………っ!』
「兄 さ ん ?」
 電話口の向こうで笑いを堪える気配がして、燈向は春人を起こさない程度に語気を強める。そうすると、わざとらしい咳払いが聞こえてようやく兄は口を開いた。
『いや、すまない。 燈向があんまりにもメロメロで』
今日日(きょうび)メロメロとか言わないし。 古いと思う」
『兄さんが悪かったよ、拗ねないでくれ』
「拗ねてませんけど?」
『悪かったって。 いや、しかしお前がそんなに入れ込んでるのは初めてだな』
「……自分でもそう思ってる」
『良いことだと兄は思うよ。 じゃあ、彼女には話を通しておくから、詳しい話はそっちで進めてくれ』
「ん。 ……ありがとね、兄さん」
 電話口の向こうから『どういたしまして』と穏やかな返事が帰ってきたのを聞き届けて、燈向は「またね」と電話を切った。

 通話を終えた携帯に表示されているのは、一件のテキストファイル。
 春人が病院に運ばれたすぐ後、燈向は春人につける弁護士を手配するために兄に連絡を取った。

 どうして兄を仲介するのかと言う理由についてだが、もちろん燈向にも弁護士の知人友人は居る。が、今回は『絶対に負けない』と言う前提で『より重い罰則を課せられるか』が重要になる。
 そうなった時に思い浮かんだのが兄の旧い友人であり、兄の会社の顧問弁護士でもある人物だったのだ。
 その人は、それこそ兄が中学生くらいからの友人であったので、燈向とも面識も交流も十分にある。

 連絡先だってきちんと知っているが、兄の会社に関わっている以上は兄にも一言断りを入れておくのが筋だろうと思って先に一報を入れたのだ。
 事情を知った兄がすぐに件の友人へ取り次いでくれ、その人もまた二つ返事で引き受けてくれたことは喜ばしい事だった。が。
『キミがそんなに陶酔する相手というのは大いに興味がある。 都合をつけて近日中にも会いに行くから、隠さずに合わせておくれよ!』
 と、好奇心丸出しで言われたことについては少々文句を言いたい。
「………そんなに特別扱いして…る、かぁ……うん」
 周りからこうも珍しがられている事に、燈向は過去の恋愛遍歴を思い返してみた。
 そうして、自分の執着の強さを改めて自覚すると気恥ずかしくなって頬が熱くなるが、それを見咎める人はいない。
 成る程、これが『恋は盲目』と言うやつか…… と一人納得して、燈向は改めて手元の携帯に目を落としたのだった。


 彼らはどうやらかの有名配信サイトではかなりの知名度もあり、彼らを応援するファンも少なくないが、活動内容については度々議論が起こるような──所謂、『炎上』した企画も少なくないようだ。
 今回のように一般視聴者を招いた企画でも炎上の過去があるようだが、その知名度とメンバーの片割れの家庭が裕福なようで、その金銭力で以て捩じ伏せた事も少なく無いらしい。

 目を通せば通すほど嫌になるような内容ばかりが書き連ねられたそれを、燈向はいったん閉じる。
 しっかりと握り込まれた手をそっと解いて、眠っている春人を起こさないように慎重に、ゆっくりと再びベッドへ潜り込む。
 隣で眠る春人が身動ぎする気配がして視線を向ければ、自分の収まりの良い場所を探しているのだろうか。まるで甘える猫のように燈向の方にすり寄る仕草に言い様の無い気持ちが溢れる。
 燈向はデータをタブレットに転送し、携帯をサイドボードに置いて、ゆっくりと身体を横たえる。額の傷に触れないように気を付けながらそっと腕を春人の頭の下に差し込んで、その身体を抱き寄せた。
「ん………」
 そうすると体温の高い燈向の方へ春人は身体を寄せてくる。
 それが堪らなく愛しくて、燈向はひとり悶える。
 どうか穏やかな夢を…… そんな祈りを込めて燈向は春人の額へ唇を寄せた。
 けれど触れるのは包帯のかさついた感触。
 嗚呼、はやくこの柔らかな肌に触れられる日が来ればいい…… そんなことを思いながら、燈向ももう一度目蓋を閉じた。