──『皇家の恥晒しめ』
そう言って目の前で千々になった紙が舞う。それはテスト用紙“だったもの”。
赤ペンで98と書かれてあったそれは、たった一問だけ途中式の計算を間違えてしまったが、クラスの中では最高得点で、教師には「よく頑張りました」と褒められた。
しかし燈向の両親はそのたった二点を決して許してはくれない。
『こんな些細なミス、大翔なら有り得ないと言うのに、お前と来たら……』
そう言って彼らはいつも燈向と、燈向の六つ離れた兄の大翔と比べる。
いつもそうだった。燈向は何かにつけ兄と比べられる。
六つも歳が離れていれば出来ること・出来ないことの差は開いて当然だと言うのに、彼等はいつも兄の【基準】を燈向に求めるのだ。
燈向とて同年代では学力も運動能力も頭一つ抜けている。
けれど両親の基準はあくまでも兄・大翔であり、燈向を真っ当に評価しようとしない。何故ならば燈向が『次男』だから。
父には弟がいた……らしい。
らしい、と言うのは燈向は自身に叔父がいると言う事実を人づてに聞いて知ったからだ。実際に会ったことは無いし、名前も知らない。
その理由と言うのも、父が家業を継ぐ際に一部の親族と会社役員から『弟を当主に』と半ばクーデター的な事が起きたから。
父の弟と言う人は学業こそいまいち奮わなかったが、性格は朗らかで気さくで、誰にでも分け隔てなく接する人だったらしい。
一言で言えば『人望に恵まれた人』だったのだ。
彼が困っていればどこからともなく人が集まり、協力して問題を解決してしまう。いつも人の輪の真ん中にいて、周りを取り持つ『要』のような人。
これから先の時代はそんな人物が担っていくべきだと、彼を担ぎ上げた人達は口々にそう言ったらしい。
しかし周囲の期待に反して、彼は兄──父から当主の座を奪う気など更々なく、叔父を当主にと息巻く人達を宥め、皇の家を出ると宣言した。
つまり叔父は自ら身を引くことで家を二分する争いを避ける道を選んだのだ。
しかしあまりにも潔すぎたそれは、結果的に兄である父に花を持たせる事になり、皇家の長男であると言う自負の強かった父のプライドを酷く傷付ける結果になってしまった。
だからだなのろう。両親──特に父が次男である燈向にきつく当たるのは。
父にとって『次男』と言うものの存在は過去の忌々しい記憶の引き金になりうるもので、癒えぬ傷そのものなのだ。
──「当代様は跡継ぎで揉めたから……それでなんでしょうけど…」
──「あれは揉めたと言うより周囲が……」
──「せめて女の子だったら、もう少し違っていただろうに……」
──「だからと言ってあんな歳から…。酷いわ……」
家にいる使用人の誰かが、陰でそう言って憐れんでいたのも知っている。
たとえば女に生まれていたとして。
今より両親に愛されていても、幼いうちから婚約者を宛がわれ、家のために嫁がされるだけだ。
結局、女に生まれても家の為に利用されるのならば今のままでいい。それに。
「……ヒナ…燈向。 おいで」
ひそひそ声が燈向を呼ぶ。それは燈向の兄である大翔の声であり、彼は自室の扉から少しだけ顔を出して燈向を手招きしている。
「にいさん」
その手に招かれるまま、燈向は一目散に兄のもとへ駆けてゆく。
部屋の前に行けばさっと手を引かれ、中に引っ張り込まれ、背中で兄の部屋の扉が閉まるのを聞きながらぎゅうっと抱き締められた。
「聞いたぞ燈向! クラスで一番の出来だったんだって?!」
「ふふっ…! にいさんが教えてくれたからだよっ」
大翔は燈向を腕に抱いて、自分より少し朱の強い髪をワシャワシャとかき混ぜるように撫で回す。
少し離れた所で、兄付きの使用人が「おめでとうございます」 と笑みを浮かべて小さく拍手を贈ってくれている。
いつもそうだった。兄は、大翔は決して燈向を見下さない。蔑まない。
真っ当に成果を称賛し、等身大の燈向を見てくれる。父も母も兄の方ばかり目を向けるけれど、その代わりに兄が燈向を見守ってくれている。……それから、陰でこっそり優しくしてくれる使用人も。
だから燈向は早くから父母に“愛されたい”と願うのはやめた。兄がいてくれる。
家族ではないけれど、優しい人がいてくれる。それで十分だったから。
「おばあ様、こんにちは」
「こんにちは」
「はい、いらっしゃい。 二人とも久しぶりねぇ」
燈向には大好きな人がもう一人いた。それは母方の祖母で名を薬師神 由紀子と言う。薬師神家は江戸時代に起源をもつ古い商家で、昔から医薬品の製造・流通を担ってきた古い名家だ。
「おばあ様、今日も温室を見せてもらってもいいですか?」
「ええ、構いませんよ。 後でお茶にしましょうね」
「はいっ」
薬師神家は元々都内に邸を構えていたが戦時中に一度焼失し、それを期に隣県へと本家を移した。皇の家からは車で二時間は掛かるので、あまり頻繁に訪れることはない。
けれど薬師神家本家だけあってその邸宅は広く、おまけに祖母はガーデニングが趣味であったので、広い庭と立派な温室が敷地内にあったのだ。
燈向は祖母と庭師が手入れするその庭が好きで、中でもガラスを半分ほどアイビーが覆う温室が一番のお気に入りで、祖母の邸に来ては大半をそこで過ごす事が多かった。
「弓削さんは今日はお休みだから、鍵を持っていってね」
弓削さん、と言うのが薬師神家に出入りしている庭師だ。彼は祖母よりも幾つか若いくらいで、燈向からすれば祖父のような歳の人だ。
因みに燈向の祖父は彼がまだ赤ん坊の頃に亡くなってしまったので、写真でしかその顔を知らない。
祖父との思い出を持たない燈向にとって、弓削は祖父代わりのような人だったので、会えないと分かると少々気落ちしてしまう。
けれどそんなことは微塵も顔に出さず、燈向は祖母の言い付け通り鍵箱から温室の鍵を持ち出して庭へ向かった。
イングリッシュガーデン風の庭の奥。立派なバラのアーチをくぐったその先の大きな樟の樹のそばに、燈向の好きな温室はある。
二階建てよりすこし低いくらいの、わりと大きな温室だ。外に植えたアイビーが温室のフレームを伝って天井まで綺麗に延びている。
燈向は鍵箱から持ってきた鍵を温室の錠前に差し込む。それは柄に薬師神家の家紋である鬱金の花があしらわれた鍵で、鍵職人手作りの一品ものだった。
邸を都内から此処に移した時、『小さな温室が欲しい』と滅多にものをねだらない祖母からそう言われた祖父が、温室と一緒に特別に拵えた物らしい。
カチャン、と小さな音をたてて鍵が外れる。
錠前を外して扉を開け中に入れば、相変わらず綺麗な花々が咲き誇っていて。
その中でも一際目を惹いたのは、名も知らぬ紫色の花。
細い枝葉のさきに控えめに小ぶりな花を咲かせている姿が慎ましく愛らしかった。
「よいっしょ、っと……」
燈向は温室に据えられている大きな藤編みのハンギングチェアに座る。卵の形をしたハンギングチェアは燈向が座った反動でゆらゆらと揺れた。
ここで何をするわけでもなく、ただぼぅっとするのが好きだ。静かで、あたたかい場所。花の名前はあまり知らないけれど、祖母と庭師が丹精込めて育てている花はきれいだと思う。
……それを分かち合える人がいたら、どんなにか良いだろうか。
そう思った事は一度や二度じゃないけれど、無い物ねだりだ。
(何にも言われないだけ、ここは良い場所……それでいいんだ)
そう自分を納得させて、そっと目を閉じてみる。
だけど燈向は、なんだか今日は胸の奥がムズムズとするような妙な違和感を感じていた。
じっとしていればしている程その妙な感覚は大きくなって、燈向はハンギングチェアから放り出していた足を思いっきり振り上げ、その反動でぴょん!と椅子から跳ね降りた。
「…………」
燈向は母家の方をじっと見つめる。
ちがう、あそこじゃない。
直感的にそう感じて、今度は反対側に目を向けた。ざわり、胸の奥がざわめく。
燈向は少しだけ考えたあと、ざわめきに呼ばれるまま温室を出た。
