「では、我々はここで…。申し訳ないですが皇さん、以降宜しくお願いします。 HAL先生、お大事に。スケジュールはいくらでも調整しますから、無理はしないでくださいね」
「すみません……色々有り難うございます…」
「任せて下さい」
「ハル、何かあったら連絡して来いよ」
「ん。夏樹もありがとう。 みどりちゃんに『大丈夫』って伝えておいて」
 深夜の総合病院の駐車場。オフィス街に近いそこは、深夜だと言うのにパトカーのサイレンが絶え間なく聞こえてくる。
 この件に関して、すべての支払いやら手続きは大瀧が一手に引き受けてくれた。
 どうやら会社として春人の後ろだてになってくれると言う大瀧に、春人は一度は断ろうと思ったのだが、事が事だ。
一人では手に負いきれないと思って、春人は有り難くその申し出を受ける事にした。
 大瀧の好意に甘える事にはまだ抵抗があった春人だけれど、夏樹は「そうしてもらえ」と肯定し、燈向は「大丈夫だよ」と背中を押してくれた。


 病院前で別れた四人は、夏樹と大瀧はタクシーで、春人は燈向の車でそれぞれの帰路につく。
四月の半ばとは言え、夜はまだ肌寒い風が吹く。まるでそれから庇うように燈向は風上に立って、春人の手を引く。
 夜風に吹かれてガサリと音を立てるのは、痛み止めや湿布薬やらが入ったビニール袋だ。

「春ちゃん、平気?」
「まだ……」
 春人に合わせてだろうか、燈向はゆったりとした速さで歩く。
 緩く握られた手はあたたかく、春人が少し力を入れて握り返すと、何も言わず同じだけの力で握り返してくれた。
 深夜の病院の駐車場はがらんとしていて、燈向の車はすぐに見つけられた。燈向はなにも言わず、春人の手を引いたまま助手席の方へ回るとそのままドアを開く。
「気を付けてね」
 そう言われ、車のルーフの縁に頭をぶつけないように手で庇われるのは、なんだかくすぐったい。
 しかしそれだけでは終わらない。助手席に座った春人がシートベルトに手を伸ばそうとすると、燈向の手がそれを遮ったのだ。
「手は大事にしないと」
 手首を怪我した春人を慮ってだろう。燈向はそう言ってシートベルトを引いてユニットへ差し込んでくれたが、その所為で距離が一瞬で詰まって、春人は不意の接近に思わずギクリとしてしまう。………不快、と言う意味ではなく。

 病院から燈向の自宅までは十分も掛からない距離だった。深夜だからと言うのもあるだろうが、それにしても近い距離だ。

 自宅近くの駐車場へ着くと、燈向はまず車内で春人のシートベルトを外し、それから「少し待っててね」と言ったかと思えば車を降りて助手席側へ回りドアを開けたかと思えば、当然のように手を差し伸べてくれて。
 あまりの厚遇に春人は気恥ずかしくなって、燈向の顔を見ることが出来ない。それでも差し出された手を拒みたくなくて、春人はそっとその手を取った。
「……大袈裟じゃ、ないですか?」
 二階の自宅に上がるときも手を引かれ、リビングに通されたと思ったら丁寧にリビングのソファまで連れられて座らされた。
 ここまで壊れ物のように丁寧に丁寧に扱われると、逆に恐縮してしまう。そう思って恐る恐る口を開くと、寝室へ春人の着替えを見繕いに行っていた燈向が、きょとんとした顔で首を傾げた。
「オレがそうしたいって思ってやってるんだけど……嫌だった?」
「嫌……ではない、です…けど………」
「じゃあ問題ないね。 需要と供給は成り立ってる」
「そう言う事じゃない気が…」
 戸惑う春人に燈向はニコリと笑って、着替えを差し出す。それから燈向は「蒸しタオル作ってくるね」とキッチンへ向かい、またしても春人は致せり尽くせりな状況に縮こまるしかなくなった。




(広いベッド……ふわふわしてる…)
 あれやこれやと世話を焼かれ尽くされた深夜一時前。
「寝てる時に急変すると不味いから、一緒のベッドだけどゴメンね。 ……オレ、寝相はそんな悪くないと思うから」
 そう言って先に通された燈向の寝室のベッドに潜り込んで、春人は微睡む。

 オフィス街だからこそなのか、深夜は春人の自宅周辺よりも静かで、燈向のいる浴室のシャワー音さえ聞こえてくる程だ。
 「気にせず寝てていいよ」 と燈向は言ったが、家主を差し置いてそれはどうなのだろうと、春人は妙な気を張って先程からベッドの中でうとうとと船を漕ぎつづけている。

 燈向と出会って、春人は自分が少しずつ変わっている事を自覚していた。けれど、何分(なにぶん)と今日は色々なことがありすぎた。

 明日から自分は“どう”して行くべきなのかも考えつかない。
 部分麻酔も切れてきたのか、額がジクジクと痛む。

 痛みは嫌いだ。寂しくて、苦しくて、怖くて、辛い……そんな思い出ばかりが甦ってくるから。けれど。
(いつも助けてくれるのは……どうして……?)
 誰か助けて── そう思ったときにいつも現れるのは燈向で、彼は当たり前のように春人の手を引いて春人が恐れるものを遠ざけてくれる。


 ひなた──その名の通り、あたたかい人。


 彼のやさしさに触れるたび、遠い昔の記憶が頭を過るのだ。

 ひとりぼっちだったあの時、あの公園で、世界のどこにもいなかった春人を見つけて、そして手を引いてくれたあの子を思い出す。

 それが燈向だったらどんなにか。

 そう思った事も一度や二度じゃない。そうであって欲しいとすら思うけれど、そんな運命みたいな偶然、自分には過ぎた幸福すぎる。
(だって僕はそんな価値すらない……)
 聞きたい事も、言いたい事もたくさんある。
 だけど春人は燈向にすべてを打ち明けられない。それを打ち明けてしまうときっと燈向は居なくなる……あの時の“みんな”と同じように。
 それが恐ろしくて、春人は何も言えない。言えないまま、ずるずると燈向の厚意に甘えている。
 その自覚はあった。


 ──皇 燈向という人のあたたかさを知ってしまった。
   その側の居心地の良さを知ってしまった。
   側に居るべきでないと思いながらも甘えてしまう。


(きっと、出会うべきじゃなかった……)

 今回の事が全て終わったら、きちんと今までのお礼を言って、そうしてこれ以上迷惑をかける前に距離を取ろう。

 そう決心した春人だが、固く誓えば誓うほど胸が痛い。
 自分で決めたことに自分で傷付いているなんて滑稽もいいところだが、苦しいものは苦しい。

 春人は広いベッドの中で縮こまるように膝を抱えようとした、その時。
「春ちゃん……」
 優しい声が降ってきて、あたたかい手がそっと肩に触れた。
「痛む? お薬持ってこようか?」
「………っ」
 いつの間に、そこにいたのだろう。
 ひどく優しい顔をした燈向が春人を見下ろしている。
 春人はその眼差しに見つめられた途端、堪らない気持ちになって無意識の内に燈向へ手を伸ばした。
「……!」
 春人が伸ばした手は、わずかに躊躇って燈向の胸あたりを掴む。
突然の出来事にしかし、燈向は拒みもせず一瞬だけ驚いた顔をしてから春人の手が呼ぶままに身を寄せた。
「……痛い?」
 コクリ。春人は頷く。
 自分でも理解出来ない衝動に理由をつけるなら、そう言うことにしておきたいと思ったから。
「もう寝よう? 大丈夫、ずっとそばに居るから……」
 燈向はまるでぐずる子供のような春人を片腕に抱いたまま、器用にベッドに潜る。それから改めてしっかりと春人を抱き寄せて、小さな子供をあやすような甘い声で語りかけ、そっと頭を撫でた。


──トクン、トクン、トクン……


 抱き寄せられた燈向の胸から、規則正しい鼓動が聴こえる。
 触れる腕は、抱き寄せられた胸は、耳に届く声は、いつだってあたたかくて優しい。
(ずっと……ここにいたい…)
 それは出来ない事と思いながら、春人はそっと目を閉じる。


 今だけ……どうか許して欲しい。


 誰に祈っているのかも解らない。
 ただこの夜だけは……そう願いながら春人はそっと眠りの淵に意識を投げた。


 いま自分を抱く燈向が、どんな思いでいるかなど知りもせずに。