「春ちゃんっ……!!」
「………………すめ、らぎさっ…」
 たすけて と震える唇はきっと言葉にならなかっただろう。
 それでも燈向は春人の姿を一目見ると血相を変えて春人から見知らぬ男を引き離した。
「ごめん、適当に掴まってて…!」
「…っ」
 駆け寄ってきた燈向がそう言うや否や、春人は突然の浮遊感に襲われる。眩暈のような感覚に、春人は咄嗟に燈向の肩にすがった。
「すみませんちょっと匿ってください! あと救急車!!」
「えっ!? なっ、ど、どうしたんだ!?」
 燈向は近所の工業事務所らしき建物へ、春人を横抱きにしたまま駆けこんだ。
 突然の来訪者に動揺する、知らない中年男性の声が耳に届く。
 しかし頭部から血を流している春人の姿を見てただ事ではないと察したのか、すぐに通報する声が聞こえてきて。
「春ちゃん、大丈夫? 他にどこが痛む?」
 燈向は自らの手が血に塗れるのもかまわずに春人の頭部の傷を押さえる。
 駆け込んだ先の見知らぬ男性は、柔らかなタオルを差し出してくれた。
「これは酷い…きっともうすぐ救急車がくるだろうから、ここでじっとしていなさい」
 燈向とは違う厚みのあるあたたかい手が肩に触れる。転んだ時か、足蹴にされた時かについた土や汚れを、そっとはらってくれる見知らぬ人。
 怖かったろう、もう大丈夫 そう言い聞かせるように繰り返すその声はひどく優しい。
 見知らぬ男性がそう言って春人を慰め続けてくれている間に、パトカーとは違うサイレンが近付いてくる。
 ちょっと待っててね、と彼は言うと救急車を迎えに表へ出ていったようだった。

「……間に合わなくてごめん」
 二人きりになると、燈向は自分の服が汚れるのも構わずに春人を抱き締める。香水に混じる汗の臭いに、燈向がどれだけ必死だったかがわかって、春人はそんなことないと頭を振った。

 燈向は何か酷く後悔している様子だが、しかし春人にはその原因が解らない。
 助けに来てくれただけでこんなにも嬉しかったのに、そんな顔をしないで……。
「怪我人はこちらですか?」
 そう伝える前に、ここの家主に連れられた救急隊員がやって来て、結局春人は何も言えなかった。


「……………っ!!!!!」
「夏樹…………………」
 時刻は深夜零時を迎えようかと言う頃。
 あの後、春人は救急車で病院へ運ばれた。意識はあるが頭部を強打している上に出血もあったのでは、その場での手当てだけでは終えられない。
 額の傷は三針ほど縫うことになった。縫うといっても医療用のホチキスの様なもので傷口を合わせたのだが。
 頭部の裂傷以外にも頬には擦過傷(さっかしょう)、手首は引き倒された時に捻ったのか腫れているし、執拗に蹴りつけられた肩は腫れて内出血を起こしていた。

 それらの手当ての後、頭部に異常はないかCT検査をし、救急車と共に通報を受けて現場に来ていた警察に事情を聞かれる流れとなったわけだが……。

 何分(なにぶん)、春人にはこんな状況下で連絡の取れる『家族』がいない。いや、居るには居るが、連絡を取りたくないのだ。
 しかし幸いにも春人は成人しているし、意識がはっきりとしていて受け答えが出来るのならば問題ないと言うことで、深夜の病院でひとり警察官と対峙していた。
 しかしそこに突然血相を変えた夏樹がやって来て、春人は目を見開く。その後ろから大瀧と、それから……
「皇さん……」
 燈向の姿もあった。

「おっ、おまっ…お前……なんっ…どうしてっ……」
 夏樹は青い顔をして、待ち合いの長椅子に座る春人の前に膝をつき、震える手でそっと真っ白な包帯に触れる。
 十年あまり付き合ってきて、こんなにも動揺している夏樹は初めて見る。
 どこか他人事のように思いながらも、こんなにも心配してくれる夏樹に、春人は改めて深い絆を覚えた。
「大丈夫…………麻酔が切れたらきっと痛いけど…でも、いまは平気」
「!!」
 痛くない、と言ってもよかった。縫うときに処方された部分麻酔がまだ効いているから。
 でも、春人は少し迷って、それから本当のことを口にするほうを選んだ。

──“そう”言っていいと教えてくれた人がいるから。
  “そう”言っていいと実感させてくれた人がいるから。

「そうか……痛かったな…」
 だなんて。
 たった一つしか年齢が変わらないのに、夏樹はまるで『兄』みたいな口ぶりでそう言って、春人の頭をそっと撫でる。
 子供扱いから、弟扱いになってしまった。
 そんな事を考えていると、夏樹の後ろにいた大瀧が厳しい顔のまま口を開く。

「ところでお巡りさん、彼を暴行した人物は……」
「……現在行方を捜索中です。 しかし、暴行時の様子が配信サイトでライブ配信されていますので、身柄の確保に時間はかからないでしょうね」
 春人と夏樹のやり取りに一切口を挟まないでいた大瀧は、いつもの朗々とした雰囲気をきれいさっぱり消し去って淡々と、しかしどこか怒りを滲ませた声色で警察官に問いかけた。
 警察官もまた、それに事務的に答えつつも、語気に滲む呆れは隠す気がないようで。
「多少の揉め事なら若気の至りと言いますが……ここまで来るともう立派な暴行罪ですからね。 青葉さんは頭部を怪我されていらっしゃるので、本日は簡単な聞き取りだけにさせていただきます。
また怪我の具合をみつつ、署で調書の作成にご協力ください」
 そう言って警察官は警察署内の連絡先と自分の名前を書いたメモを春人に渡し、軽く一礼をして去っていった。

「あの、宜しいですか……?」
 警察官の物々しい足音が去って一呼吸置いた頃。春人たちの様子を遠巻きに見守っていた病院職員が静かに声をかけてきた。
「治療費についてなんですが……」
「ああ、はい。 今行きますね」
「えっ…大瀧さん?」
 治療を受けたのならば治療費が発生するのは当然の事。それはもちろん、春人が自分で支払う気でいたのだが、春人が腰を上げるより早く大瀧が対応に向かってしまった。
「前に言ったろ。 社長、お前のことが『お気に入り』なんだって。
黙ってるだけで滅茶苦茶怒ってるんだよ。お前にこんなことした奴らにさ」
 特定のクリエイター贔屓は良くないんだけどな、なんて言う割に夏樹の顔は満更でも無さそうで。
それでいいのだろうか……と春人は思いつつ、訊ねるならば今しかないと、ずっと疑問に思っていた事を口にした。

「そう言えば、夏樹と大瀧さんはどうして皇さんと一緒に……?」
 そう。春人を助けてくれたのは燈向で、彼は到着した救急車に春人を乗せると、「必ず行くから」と言って一度店に戻ったのだ。
 燈向の口ぶりからして、彼はきっと開店中の店を放り出して春人の元へ駆けて来てくれたのだろう。
 ならばこのまま春人に付き添って行くことは出来ない。それは当然の事だ。春人とて小さな子供ではないのだから、そのくらいの事は解る。
 それに、燈向は『行く』と言ったら必ず来てくれる……そんな信頼が春人の中にはあった。だから春人は何も言わずただ燈向の言葉に頷いたのだが、まさか夏樹と大瀧まで一緒に来るとは思ってもいなかったのだ。
「先生のバーで初めて会った時覚えてる?オレの先生が大瀧さんと知り合いでね。 一大事だから連絡先教えて貰って、オレが二人を呼んだの」
 余計なことしちゃったかな?と、燈向は言う。
 春人はその言葉にすぐさまそんな事はないと否定して、「ありがとうございます」 と頭をさげた。
「僕、そこまで気が回ってなくて……事後報告したらまた夏樹に怒られちゃうところでした……」
「怪我人叱るほど鬼じゃないぞ、俺は……」
 夏樹は立ち上がり頬を掻きながらそう言うものの、少しばつが悪そうなところを見ると僅かながらその可能性はあったらしい。

「………………」
 深夜の病院は静かで、少し空気が重たい。
 けれど春人は今ここに『居てほしい』と思った存在が居てくれる事に確かな安堵を得ている。
 だからだろうか。椅子に座っているのに、かすかに目眩を覚えるのは。
「春ちゃん、大丈夫? 気分が悪い??」
 そんな春人の様子に先に気がついたのは燈向の方で。
 春人がほんの少し黙り込んだ様子に違和感を覚えたのだろう。夏樹と入れ替わるように春人の前に膝を着いて、窺うようにその顔を覗き込む。
「ちょっと……目眩が…」
「CTは異常なかったんだよね? ………熱いね。傷か、精神的なものかな」
 目眩がすると言う春人の言葉を聞いて、燈向はそっとその首に手を当てる。額を避けたのは包帯が巻かれているからだ。
 触れた肌は熱く脈も速い。仮にこの目眩が頭部の傷に由来するものでないのなら、恐らく原因は額の傷か、今夜の事件による過剰なストレスだろう。
 手当ても検査も終えた時点で病室ではなく待ち合いで座っていたと言うことは、とりあえず帰宅しても良いと言う判断が医師からあったはずだ。
「春ちゃん、今夜は帰って良いって言われてるんだよね? どうする?病院の先生に言って一晩入院…… は、嫌か。そっか」
 現に春人は燈向の言葉に首を縦に振った。しかしその後の提案にはまるで小さな子供のようにイヤイヤと首を横に振る。
「ひとりで、いたくない……です…」
 消え入るような小さな声だったが、正面に居る燈向にはきちんと届いた。春人の幼い“甘え”。
 その甘えを慈しむように燈向はそっと肯定をして、春人の細い手を取った。
「いいよ。オレんとこおいで? ………良いかな、お父さん?」
「誰が『お父さん』だっ! ……いいっすよ。何かあっても俺の家は病院から遠いし。ハルがアンタが良いって言ってるなら」
 宜しくお願いします。と夏樹は燈向へ軽く頭を下げる。ほぼほぼ初対面なはずの二人なのに、妙に距離が近くて春人は内心驚いた。
「さっきそこで仲良くなったの」
 二人の気安いやり取りにパチ、パチと目をしばたたかせる春人の様子に気が付いたのか、燈向はそう言うと茶目っ気たっぷりにウインクをして見せたのだった。