きゃぁきゃぁと少女達の明るい声が、わあわあと少年達の明るいはしゃぎ声が響く夕方の公園。
ブランコや鉄棒、タイヤの跳び箱に馬やパンダの乗り物。それからくじらの形をした大きな遊具。
住宅街の近くにあるこの公園はそれなりに広大な敷地があり、近所の子供たちの良い遊び場だった。
小さな子供は時に大胆にそのコミュニティを広げ、見知らぬ子ですらその輪に招き打ち解けてしまうものだが、その例に漏れてしまうのが春人と言う子供だった。
春人はいつも、公園の片隅で賑やかな子供の声を聞きながら片手に小枝を持ち、地面とにらめっこをしていた。
はじめは、春人も子供達の輪に招かれていたのだ。
けれど、夕暮れを過ぎてなお迎えの来ない子供…… あまつさえ、時に連日同じ服を着ているとなれば無垢な子供は何もわからなくとも、親は気付くと言うもので。
声を掛けるのが人情であるとは言っても、このご時世だ。我が子を放置する親がろくな人間である筈がないと言うのは大体どんな人間でも解る。
親切心からとはいえ、誰だって藪をつついて蛇を出したくはないのは当然のことだ。
目を背けてはならないと解っていても、現代社会においては我が身、我が子の安全が優先されるのはどうしようもない。
──『あの子に近づいちゃダメよ』
リスクを避けようと我が子に言い聞かせた親の言葉は、子供の口を伝って伝播して行く。春人がつま弾きにされるのは時間の問題だったのだ。
春人は自分がこの場において【異物】であると自覚してもなお、他の場所に移ることはしなかった。否、出来なかった。
まだ幼い子供である春人が、自分の生活圏内から外れ、かつ己の足で向かうことの出来る限界がこの公園だったのだから。
母親は春人の事を『見ない』。
完全に居ないものとして扱う。学校から帰って来ても母親が家にいないことは当たり前で、数日帰って来ないこともある。
食事は冷蔵庫やキッチンの戸棚にあるものを適当に口にするけれど、何でもかんでも下手に食べると母親の逆鱗に触れることがあるので、春人は極力自宅で食事をしない。
今日は学校から戻ると玄関に見知らぬ男物の大きな革靴があった。
こう言うときは自宅に居てはいけないと、春人は過去に身をもって知っていた。
だから気付かれないようにそっと玄関を出て、くぅくぅと鳴るお腹を擦りながらいつものようにその公園へ向かったのだ。
ガリガリ…… と小枝で地面を削る。
名も知らぬ女の子と男の子、近くの野花、遠くでこちらを見ている野良猫…… 春人は目につくものをただただ無心で地面に描きなぐる。
描いている間は何もかも忘れていられるから、春人は余計に己の世界に没頭した。
「何かいてんの?」
「!?」
不意にかけられた声に、春人は驚いて変に力んでしまう。その途端、手のなかで小枝がパキンと音を立てて折れた。
自分の上に落ちてきた影に顔を上げると、そこには自分と同じ歳くらいの男の子がいて。
日が沈む前の夕焼けの色をした髪が、まだ白い夕方の陽を浴びてキラキラと光っているのが印象的な子。
しかし、初めて目にする顔に春人は戸惑って何も言えないでいた。
「……ひとり?」
「ん…」
春人が何も言えないでいることを大して気にしていないのか、少年は続けて問いかけてくる。
ひとり。その言葉に春人は頷く。
家にもここにも、春人の居場所はない。世界のどこにも、自分が居てもいい場所なんてないと知っている。
いま目の前にいるこの男の子は知らない子だけど、きっとそのうちみんなと同じようにぼくを居ないものにするんだ……。
そんなことを考えながら、春人は折れて短くなってしまった小枝を手放し、手近にある小石に手を伸ばした。
──その時。
「じゃあ、オレといっしょに遊ぼ!」
春人よりも幾分か健康的に陽に焼けた手が、春人の白い手を取った。
この時よりもっともっと後に自分が他人よりも体温が低いからだと判ったが、その時は握られた手から伝わる彼の体温は信じられないくらい熱かった事に驚いたのをよく覚えている。
「ほら、行こう!」
名も知らぬ少年は、春人の返事も聞かずに手を引いて駆け出す。
ずっと座ったままだった春人がたたらを踏んでもお構いなしに、こっち! と楽しげに春人の手を引く。
鉄棒、ブランコ、かくれんぼ…… 赤い髪の彼から言い出した木登りは、見知らぬ大人に見つかって「危ないぞ!」 と叱られて慌てて二人で逃げた。
「……ふっ、くふふっ」
「!? あははっ!!」
“悪いこと” をして叱られたのに、春人はそれが何だか妙におもしろくなって、たまらず笑いだしてしまった。
そんな春人につられるように、彼もまた笑ってくれて。
二人でけらけらと笑っていると、きゅるるる…… と春人の腹の虫が鳴いた。
それがあんまりにも大きな音で、春人が恥ずかしくなって俯いていると、彼は右のポケットをゴソゴソと漁って、クッキーをひとつ差し出してくれた。
「オレもお腹すいた!!いっしょに食べよ!」
きっと春人に合わせてくれたのだろうけれど、そうやって屈託なく笑う顔に、春人は心底安心したのを覚えている。
それから、差し出されたクッキーがあまりにも粉々になっているのが可笑しくて、二人してそれを笑ってから分けあった。
「───!」
つぎはなにをしようか? そう、春人が問いかけようとする前に、遠くから彼を呼ぶ声が聞こえた。
……その声が彼を何と呼んでいたかはもう思い出せないけれど。
「あ~… もう帰らなきゃ……」
いかないで、とは言えない。
彼が家に帰って自分と遊んだことを親に話せば、次はきっとないのだから。いつもと同じように。
だから。
「遊んでくれて、ありがとう……」
ほんとうは、もっと一緒にいてほしい。もっと沢山遊んでいたい。
だけど、彼には帰るべき家があって、待ってくれている家族がいるのだから。
仕方のない事だと解っていても、突き付けられる現実に涙が出そうになる。それを精一杯こらえて、春人は彼にありがとうと告げた。
「………手、出して?」
「……?」
そんな春人に思うところがあったのか、それともただ単に泣きそうな春人に同情したのか解らないけれど、彼は突然そんなことを言い出して。
訳も解らぬまま言われた通りに右手を出すと、彼はズボンの左のポケットから“何か”を取り出して春人の右手に握らせた。
「……これ、なぁに?」
掌の中の硬い感触に、春人はそっと握った手をひらく。
まだ体の小さな春人の掌にぎりぎり収まる程度の鍵がそこにはあった。
「秘密基地のカギ。 こんど連れていってあげるから、目印にもってて。
秘密基地のことは、だれにもナイショね?」
そう言って彼はイタズラっぽく笑って春人の頭をくしゃりと撫で、繰り返し彼を呼ぶ声の方へ駆け出して行った。
「ぁ…まっ……」
「またね!」
待って、と告げるより早く開く距離に、まるで突風みたいな子だと思った。
ちゃんと名前を聞けないまま別れてしまったが、今度があるならその時に聞いてみよう。
寂しいばかりだった夕暮れが、その日だけはあたたかく思えたのは、きっと彼のおかげだ。
