燈向の車を見送って、春人はエントランスをくぐる。
 時刻は午前十一時をすこし過ぎたくらい。ここは単身者向きのアパートなので、今の時間では住民は皆仕事に出ているので廊下を含め建物内はとても静かだ。

 三階建てなのでエレベーターはない。春人が階段を上る靴音がゆっくりと響く。
 燈向には何から何まで迷惑を掛けてしまったけれど、彼は笑って「大丈夫」だと許してくれた。
 春人が生きてきた中で、そんなことを言ってくれたのは夏樹以外では初めてで、正直戸惑ってばかりだ。
断りきれなくて好意を受けているのではなく、その差し伸べられる手を許されているのなら取りたいと……有り体に言うなれば『甘えたい』と思ってしまう。
(どうしてそんな事思っちゃうんだろう……)
 燈向を前にした時だけ、そんな衝動が胸の奥で疼く。その理由は解らないけれど。

 そんなことを考えながら春人は鞄から自宅の鍵を取り出し、鍵穴に差し込もうとしたところで、内側からドタドタと足音が聞こえたと思った瞬間に、玄関ドアが勢いよく開いた。
「!?」
 何事かと理解が追い付く前に手を引かれたと思ったらそのまま勢いよく中へ引き込まれる。
「こんの不良娘!!!」
「なんで!?」
 突然の事だったけれどすっかり見慣れた赤茶の髪に、それが誰だかすぐに解った。
背中の方で玄関ドアの閉まる音がするけれど、鍵を掛けることはできない。なぜなら春人はいま、夏樹の腕の中にいるから。
「お前……どこに居たんだよ…」
「……ごめん」
 ぎゅっと、息が苦しいくらい強く抱きしめられる。
 昨夜から携帯が何度も何度も着信を告げていたのは気付いていた。相手がきっと夏樹だと言うことも。
 夏樹は優しいから、きっと昨夜春人が『迎えにきてほしい』と助けを求めれば、あの雷雨の中でだって春人を迎えに来てくれただろう。
 けれど春人は、それじゃダメだと思ったのだ。
 夏樹はもう結婚して自分の家庭を持つのだから、いつまでも甘えていてはいけないと…… だからひとりでも大丈夫だと、何とも無いと言えるようにならなくてはいけないと思って知らないふりをした。

──そんな春人の強がりも結局はダメだったけれど。

 けれど今、耳の隣で聞こえてくる声は震えていて、夏樹がどれだけ自分を心配していてくれたのかがよく解った。
『結婚しても親友は親友……そう言うものだよ』
 そう言って優しく笑っている燈向の声が、頭の中で甦る。
(信じて…いいの……?) 
 春人は半ば自問自答のようにその声に問い掛けながら、そっと夏樹の背に腕をまわす。
 自分より少し背は低いけれど、体つきはしっかりしている夏樹の背は、彼の腕の中は確かにあたたかい。
 この場所はもう自分の場所じゃないけれど、時々はこうして甘えても許されるだろうか。
(嗚呼、そっか……)
「寂しかった……」
 寂しい、と口にした春人に夏樹はバッと顔をあげた。
「だったら何で返事しなかったんだよ……!」
「ちがう、昨日じゃなくて。 ……夏樹がみどりちゃんと結婚するの、本当に嬉しいと思ってる。けど、本当は寂しかったんだなって」
「ハル………」
 ぎゅっと眉間を寄せているのは怒りではないのだろう。真っ直ぐに見つめる夏樹の顔は、ただただ春人を心から心配している。
(嗚呼、夏樹とはもう十年も一緒にいるのに……ようやく気付くだなんて)
春人は自分に対して呆れると言うより、いっそ鈍感過ぎて可笑しいとさえ思った。
「夏樹は……迷惑かもしれないけど……その、家族みたいな…存在だった、から…」
 春人は恐る恐る言葉を紡ぐ。正直、怖い。夏樹がどんな反応をするのか解らないから。
 けれどちゃんと伝えたいと思った。こんな自分と十年も一緒にいてくれた大切な友人だから。
 春人の突然の告白に夏樹は目を丸くした。けれど次の瞬間にはまた力いっぱい春人を抱き締めて、
「俺はっ……ずっとずっと前からお前のこと親友で家族だって思ってたよ……!!」
 と、叫んだ。目の奥が熱い。一度切れてしまった涙の(せき)は簡単には治らないと言うのは、今知った。
「夏樹…結婚おめでとう。 でも、寂しいから時々は僕も構って……?」
「お前危なっかしいからずっとでも構ってやるよ、バーカ……」
 改めて口にする祝福は、心からの言葉。嬉しい、だけど、寂しい。でも前のような不安は無い。左の肩が冷たいのは、きっと夏樹も同じだ。


「………ただいま」
「おかえり………」
 うまれて初めて、あたたかい場所へ戻ってきたような……そんな気持ちに、春人はそっと心を委ねた。