「さぁて、どうしよっかな」
 燈向はキッチンに立って朝食に何を作るべきか考える。
自炊はそれなりにする方なので、材料が無いと言うことはない。トーストもあるし、冷凍だが米もある。
 朝食を食べて帰れと半ば無理やり頷かせた自覚はあるので、相応のもてなしはしたいのだが、春人は見るからに食が細そうなので正直メニューに困る。
「ん~……。 あ!そうだ!」
 今ある材料の数々をリストアップしていく中で、燈向は丁度良い料理を思い出す。
 卵・牛乳・小麦粉・ヨーグルト・砂糖を準備して、まずは卵をハンドミキサーでよく泡立てる。次に砂糖を少々加えて再びよく泡立てて、ヨーグルトをひと掬い程度加えてもう一度よく混ぜる。最後に小麦粉をふるい入れ、生地の様子をみながら牛乳で固さを調節すれば完成だ。
 友人や後輩たちとの家呑み用に買っておいたホットプレートを出して電源を入れる。バターを引いて生地を二等分にして落としたら後は焼き上がりを待てばいい。


「皇さん」
 バターとパンケーキの焼けるいい香りが部屋を満たし始めたころ、髪を濡らしたままの春人がひょっこりとキッチンに顔を出した。
「あ、おかえり~」
「お風呂ありがとうございました」
「いえいえ。 あ、ドライヤー出し忘れてたね」
 ごめんね~、と言いながら燈向は春人を伴ってバスルームへ向かう。洗面所のメタルラックに置いてあるボックスの一つからドライヤーを取り出して、コンセントに繋いでから春人に手渡した。
「ちゃんと乾かしてね~…って俺が言えた義理じゃないか」
 なんやかんやで自分の髪を乾かすのをすっかり忘れていた燈向だったが、もう殆ど乾きかけている状態なので今さらドライヤーを当てる事も無いだろうと、笑ってキッチンへ戻る。
少しもしない内に聞こえてきたドライヤーの音を聞きながら、燈向は器用にパンケーキをひっくり返した。

「わ、ぁ……」
「美味しそうでしょ?」
 あれから五分ほどして、ドライヤーの音が止んだ。僅かに物音がしたので、春人はどうやら律儀にドライヤーを片付けてくれたらしい。
 乾かしたばかりのふわふわとした髪を僅かに揺らしながらキッチンに顔を出した春人が上げた感嘆の声に、燈向は得意気に笑った。
 ホットプレートの上で綺麗に焼き上がった二枚のパンケーキをそれぞれ皿に移す。
 一枚には冷蔵庫にあったブルーベリージャムとクリームチーズを添えて、もう一枚はシンプルにバターを乗せた。
「はい、春ちゃん」
 完成した皿を春人に手渡して「向こうで待ってて」とリビングのローテーブルの方を示す。キッチンには建て付けのカウンターテーブルしかないので、二人で食卓を囲むには狭いのだ。
 燈向は適当なグラスに二人分のカトラリーを入れ、飲み物用のグラスと作りおきのアイスコーヒーのボトルをトレイに乗せて春人の後を追った。
「適当に座って~」
 そう言って春人の選んだ場所の向かいに燈向も腰を下ろす。
「有り合わせだけど、どーぞ」
「い、いただきます…」
 ナイフとフォークを渡して、食事を勧めれば春人は少し緊張した面持ちながらも丁寧に手を合わせてから特製のパンケーキに手を着けた。
 あり合わせの材料で作ったパンケーキ。失敗はしようもないレシピだけれど、それが春人の口に入ると言うだけで変にドキドキしてしまう。

 春人の評価はどうだろうか。内心ドキドキしながら、彼を見つめる。
 咀嚼がのんびりとしているのは、彼の癖だろうか…… かわいいな。なんて。
「……美味しい」
 春人の白い喉がゆっくりと上下に動く。そうすると、無意識だろうか、春人は柔らかく頬を緩め呟くようにそう口にした。
 よっしゃ! と燈向はテーブルの下でそっと拳を握る。
「よかった」 なんて平常を装って笑っているけれど、正直今までで一番嬉しい。
 いそいそとパンケーキを切り分けて口に運ぶ春人をずっと眺めていたい。けれどそんな事をしては完全に怪しい人なので、燈向もナイフとフォークを手に自分の分のパンケーキに手をつけた。

 特に会話らしい会話は無い。
 散々と「意外だ」と言われ続けて来たことだが、燈向は食事中はあまり話すタイプではない。
 それはどうやら春人も同じようで、カトラリーと皿が触れ合う音が静かなリビングに僅かに響くだけだ。
 穏やかな沈黙が、朝の空気にゆるりと溶ける。春人と時折目があうと、彼は何も言わず少し照れたように微笑む。その微笑みを見て、燈向の胸は高鳴った。

 可愛い…… と自然にそう思って、そして同時にとある感情が燈向の胸の中にストン、と落ちてきた。
(ああ、成る程………)
 我ながら現金だと思うけれど、自覚して納得してしまったものはしょうがない。己に嘘はつかない。それは燈向がずっとずっと昔から決めていたことだ。


「ご馳走さまでした…」
「お粗末様でした」
 春人の行儀のよい挨拶で静かな朝食の時間が終わる。
 燈向が春人の食べ方を“のんびりしている”と評した通り、春人の食事はゆっくりとしていた。
 燈向が自分の分を食べ終わる頃にようやく春人は半分と言ったペースで、燈向の完食に気付いた春人が慌ててペースをあげようとしているのを「ゆっくりでいいよ」と抑えた程に。

(食べるのが遅い……とかじゃなくて、まるで食べることが怖いみたいな…)
 食に対して興味が薄い人間と言うのは少なからずいる。けれど春人はきっと“そう”じゃない。
 対面で食事をしていて解った。
 恐らく無意識なのだろうが、ときどき燈向を窺うように視線を向けてきたのだ。そしてそこには恐れのようなものが見え隠れしていて……。
 けれど春人は甘いものが好きで、今だって時間はかかったけれど燈向が作ったパンケーキをちゃんと完食した。燈向が『良い』と許したから。

 ……目の前にいるのは自分とそんなに歳の変わらない成人男性だと言うのに、春人の内面に触れようとすればするほど、まるで幼い子供の様なひどく脆い内側が見え隠れする。
 昨日、思いがけず春人の危うさに触れたように、彼は非常に繊細なバランスで成り立っている様に燈向は思う。
 足りないものばかりで、まるで未完成のパズルのような…。
(危ういものは美しいと言うけれど……それにしたってこれは…)
 まるで…… と、ひとつの可能性に至って燈向はそっと眉をしかめる。
 好みの味だったはずのコーヒーが、今だけはひどく苦く感じた。


 二人で並んで立つキッチン。部屋にはシンクの蛇口から出る水音と、僅かに食器がぶつかる音が響く。
 朝食のあと、自宅まで送ると言った春人に「いくらなんでもそこまで世話になれない」と拒んだ春人をあの手この手で丸め込んだ燈向だったが、ならばせめて朝食の片付けくらいはさせてほしいと懇願されて、渋々頷いた。
 ……決して『お願い』する春人が可愛かったから思わず頷いたなどではない。話を戻そう。

 燈向は食器を拭く春人へ問い掛ける。
「ところで春ちゃん、ひとつ聞いてもいい?」
「……? はい」
 さも何気無い会話として、かつ個人的には重大な項目の一つである“もの”について触れた。
「春ちゃんのその鍵って、お家の鍵とかじゃないよね? ……お守りかなにか?」
 ちょっと気になったんですよ~、他意は無いです~ みたいな空気を出して燈向は問いかける。
 すると春人も『あ』と言う顔をして、それから少しだけなにかを考える素振りを見せて、そうしてゆっくり口を開く。
「小さい頃に貰ったんです。 名前も知らない子に『約束のしるし』って…」
「約束? ……どんな?」
「子供らしく『また遊ぼうね』って言う約束です。 ……結局ずっと会えていないんですけど」
 春人は手を止めて、服の内側にしまい込んでいたあの『鍵』を取り出して、掌にのせる。
 やはり何度見てもその鍵に燈向は見覚えがあって、あの記憶が間違いでない事を裏付けられた。
「……会えたら返すために、ずっと持ってるの?」
「昔はそうだったんですけど、今はもう……。 皇さんの言うとおり『お守り』みたいなものになっちゃいました……」
 そう言って少し寂しそうに笑う春人のその言葉には「会えることはないだろう」という諦念が滲んでいる。
 その横顔を見て、嗚呼……と燈向は思わず天を仰ぎそうになって、それをなんとか堪えた。
 オレの大馬鹿野郎、『あの子』は──春人はやはり自分をずっと待っていたんじゃないか。

「今はもう、顔もはっきり覚えてないんですけど…その子が初めてだったんです。 こんなにはっきりした『約束』をくれたの…。だからかな?今でも手放せなくて……」
 女々しいですよね、なんて春人は自嘲的な笑みを浮かべる。
 そんなことは無い、そう言おうとして燈向は口をつぐんだ。
 あの時、あれこれと理由をつけて春人に会いに行かなかった自分に何が言えると言うのだ。
 広い公園の隅っこで、まるで世界から弾き出されたみたいに小さく蹲っていた幼い春人は、どんな気持ちで燈向を待っていたのだろう。
 果たされないと知った『約束』を、それでも拠り所にしなければならない程の孤独を抱えて、今まで……。
「…ドラマチックだね」
「かも、しれないですね」
 それ以上、何も言えない。
 本当は全然ドラマチックでもなんでもない。春人の孤独の証の様なそれに、けれど燈向はそう言う他なかった。
 顔も覚えていないと春人は言った。だから今ここでその鍵の持ち主が自分だと伝えたところで、それを証明する手立てが無い。
 それに。
(オレは……春ちゃんのさみしさに寄り添いたいけど、つけ込みたい訳じゃないんだ)
 さみしさにつけ込むのは簡単だ。けれどそうして出来た関係はひどく歪で苦しいものだと燈向は知っている。
 だからいつか……そう、いつかちゃんと話せる時が来たら打ち明けよう。
 燈向はそう心に決めて、なんでもない様な空気を纏って今はただ何気無い言葉を会話を紡いだ──。