「………………………………はぁ~~~~~~~~、マジか」
 春人が寝室を出て、バスルームの扉が開いて閉じた音を聞き届けて燈向は勢いよくベッドへ倒れ込む。
こだわって買ったマットレスは音も立てず燈向の体を受け止めてくれたけど、春人の温もりが残るその場所はかえって落ち着かずすぐに身を起こした。

 順を追って事を整理すると、始まりは昨夜。
 雷を伴う突然の豪雨。その最中を帰ろうとする春人を危険だからと引き留めたのがそもそもの始まりだ。

 恐らく雨か雷…… あるいはその両方に何かひどく嫌な思い出でもあったのだろう。明らかに様子のおかしい春人を放って置けず、話す内に思いがけず春人の“傷”に触れてしまった。
 (せき)を切って溢れた春人の涙を見て、気が付けばその薄い体を抱き締めていた。
 それから、何も言わずただ春人の涙が涸れるまでずっとその体を抱いて…… そうしている内に泣き疲れて眠った春人を上の自宅に運びあげたと言う訳だ。

 そこまでは別に構わない。

 問題……と言う訳ではないが、燈向にとって衝撃的だったのはここから先だ。
 春人を引き留めた時点で、彼を終電で返すことが出来ないのは覚悟の上だった。しかしそれとは別に、今の春人をひとりにさせたくないと言う気持ちがあったのもまた事実で。
 だから店ではなく自宅の方へ春人を運んだのだ。
 それから、着の身着のままでは寝苦しいだろうと着替えをさせようとしたときに、燈向は“それ”を見つけてしまった。


──『鬱金(うこん)の花を柄にあしらった鍵』を。


 ウコンと言えば香辛料や生薬(しょうやく)として有名だが、生花(せいか)としてはマイナーで花がどういった形をしているのか知る者は少ない。

 それを燈向が知っているのは、それを家紋としている家があるから。


薬師神(やくしじん)家』。


 元は江戸末期に薬の卸で財を成した一族で、現代においても製薬会社を営んでいる──燈向の母方の祖母の家だ。そしてあの鍵はその祖母の邸宅にある温室の鍵。
 それは昔、父に連れられて祖母の邸宅を訪れた時、こっそりと抜け出した先の公園で出会った【少女】に手渡したものだ。




 広い広い公園の片隅にひとりで踞っていた子を見たとき、どうして誰もあの子を見ていないんだろうと不思議に思った。
 そして、その子を見て燈向は一目で恋に落ちた。
 よく晴れた日の青空みたいな綺麗な髪に、祖母の温室でみた花のような藤色の瞳があまりにも綺麗だったから。
 その子の手を引いて日が暮れるまで公園中を遊び回って……。迎えに来た使用人に呼ばれたその時、ひどく寂しそうな顔をしたその子に燈向は再会の約束として、たまたま持っていた温室の鍵を【秘密基地のカギ】だと言って渡したのだ。

 けれど両親との関係が悪くなって、親戚付き合いも少なくなっていくのに比例して祖母に会う機会も減り……そして。
「おばあ様が急逝されて…… あの家に行くことも無くなっちゃったんだっけか……」
 あの祖母の邸宅(ていたく)に関しては、確か今は遠縁の親戚が管理をしてくれていると兄に聞いた覚えがある。(やしき)自体は無くなっていないはずだ。しかし……。
「女の子だと、思ってたんだよなぁ……」
 思い返せば、その時の春人も今のようにセミロングに近い髪型だった。
 体型など成長期を迎えていない子供では男女の見分(みわけ)は服装に頼るほかないが、少女だってズボンを履くのだからあの時の燈向が春人を【女の子】だと勘違いしても不思議ではなかったのだ。

 昔一目惚れした初恋の女の子が実は男の子で、その上春人であった事実は燈向に大きなショックを与えた。
 いや、ショックと言うのは語弊かもしれない。
 燈向は今、純粋に記憶の中の『少女』が『少年』だったことに驚いているだけで、傷付いたかと言われれば全くもってそうではないのだから。

 ただ気になることがあるとすれば、それは春人が燈向に対して何も言ってこない事だ。

 二十年以上前に見ず知らずの子供から渡されたものを、今も肌身離さず持っているというのは、相当思い入れがある証拠だろう。けれど春人は今まで燈向に“鍵”に関して何も訊ねたことはなかった。それはつまり……。
「春ちゃんも、あんまり覚えてないのかな……」
 幼い頃の記憶と言うものはよほど印象的でない限りハッキリと覚えているなんて事は稀だろう。
 春人があの“鍵”にどんな思いを込めているのかは解らないが、大切にしてくれているのは解った。ならば今はそれで良いのかもしれない。
「根掘り葉掘り聞くのがいいこととも限らないしねぇ」
 燈向はそう結論付けて、ベッドから腰を上げる。ぐずぐず悩んでいても仕方ない。
パッと頭を切り替えて、立て付けのクローゼットを開けて適当にパーカーを選んで袖を通して寝室を出た。