──静かだ。遠く、かすかに雨音がするような……そんな静けさだ。

 ふ、と意識が浮上する。
 いつもより部屋が薄暗い気がするのは、雨音がするせいだろうか。
「…………?」
 普段の何倍も重たい目蓋を押し上げながら、同時にうつ伏せていた体を起こす。肩からするりと毛布が滑り落ちてはたと気付いた。
(………どこ?)
 見知らぬ部屋と、身に付けているのは見知らぬシャツ。いやに重たい頭で見回した室内はホワイトとブラウンでモダンに統一されていて、自宅ではないことは理解したが……ならばここは一体どこなのだろうか?
 とりあえず、ここでぼんやりしていても何も解らない。そう思って広いベッドから抜け出そうとベッドサイドに足を出して驚く。
「?!」
 ベッドの外に放り出した自分の足が素足で思わずもう一度ベッドへ引っ込めた。頭の中で大量の疑問符が乱舞している。下着は身に付けているようだが、春人はもうなにが何だかよく解らない。

 見知らぬ部屋のベッドの上で春人がひとり大混乱をおこしていると、不意にコンコン、とノックの音がして。
「!?」
「おはよ、春ちゃん。 ……大丈夫?」
 音につられてそちらへ目を向けると、ノックした扉に手をあてたままの燈向が少し困ったような笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
 あまりにも頭が回っていなさすぎて、扉が開いていることにも気が付かなかった春人は、突如として現れた燈向を見て完全にフリーズしてしまう。

 その原因としてはまず第一に昨夜の出来事を思い出したことが一つ。
 二つ目は今の燈向の姿。
 彼は今、上裸で肩にタオルを掛けたまま、下はルームウェアらしきボトムだけと言う状態で。
 特徴的な赤茶髪がその色を濃くして、ペタリと下りているところを見るにシャワーを浴びていたのだろう。
 しかし夏樹以外の他人との接触をあまり持たない春人にとってはいささか刺激が強かった。

「……………………」
「春ちゃん?」
「!? す、めらぎさっ」
 春人が完全にフリーズしている間にベッドサイドへ来た燈向がその顔を覗きこむ。
 燈向の赤に近い茶色の瞳と視線が交わって、春人の思考は再び働き出す。が、正常かと言われればそれは否だろう。
「昨日の事覚えて……るっぽいね。よかった。 ここはオレの家の寝室ね。下がお店になっててさ、店舗兼自宅ってやつ」
「あ、の……」
「下貸してあげらんなくてごめんね~。 春ちゃん、腰細いからボトムがばがばで……」
「す、皇さんっ…! ち、近い…っ」
「あ~……やっぱり腫れちゃったね。 後で冷すもの貸してあげる」
 腫れているというのは、恐らくこの重い目蓋のことだろう。泣き疲れて眠るなど、子供のような事をした上に後の処置もしなければそうなるのは当然だ。
 しかし春人が後ろへ引けば引いただけ、燈向も遠慮なく間を詰めてくる。どことなく楽しそうなのはきっと見間違えではないはずだ。

 ジリジリと後退りしている間に、広いベッドの反対側まで来ていたらしい。春人の片手がマットレスを掴み損ねて体が一気に後方に傾く。
 あっ と思うより前に、背中に燈向の腕が回って力一杯引き寄せられる。
 ミントと僅かに香るシトラスは、シャンプーの香りだろうか。しっとりと濡れた髪から飛んだ滴がやけに冷たい。
「あっ…ぶね。 ごめん、ちょっとからかいすぎたね」
「…………………」
 自分の心臓がまるで耳元にあるみたいに鼓動がうるさいのは、不意に姿勢を崩したからなのか、それとも。
 ほんのわずかな沈黙の後、燈向がそっと腕を解く。
 キシ……とわずかに軋んだはずのスプリングの音がやけに大きく聞こえた。

 混乱しっぱなしの頭を落ち着かせるように、無意識に胸に手をやる。が、そこにいつもある筈の感触は無く、するりと指先がシャツを撫でた。
 自身で触れて初めて、大事な“鍵”がそこにない事に気付くと、心臓のあたりから一気にヒヤリと冷たいものが全身を駆ける。

「……鍵なら、ここだよ」
「!」
 一気に青ざめる春人の様子を見て察したのか燈向はベッドの上から一度下りると、側にあったサイドボードへ手を伸ばした。
 ここ、と言いながら手にとって差し出したのは紛れもない、春人の大事な“鍵”。
「寝てるときに絡まったら危ないと思って…… 勝手に外しちゃってごめんね」
「い、いえっ……そんな…こっちこそ…」
 そう言って差し出された鍵を受け取ろうと、春人は手を伸ばす。燈向の掌にある鍵に春人の指先が触れるかと言う瞬間、燈向は鍵ごと春人の手を握り込んだ。
「……皇さん?」
「……………。 春ちゃん、朝ごはん食べてくよね?」
「えっ?! いやっ、流石にそこまでご迷惑をかけるわけには……」
 手を握られたその時、燈向は一瞬何か言いかけて止めた。僅かに心地の悪い空気が一瞬だけ漂ったが、次の瞬間には燈向の笑顔と共に霧散してしまう。
「……食べてくよね?」
「……………………はい」
 朝食を食べて帰れと言う燈向の言葉に、流石の春人もこれ以上世話になるわけにはいかないと首を横に振るが、笑顔の圧にあっけなく折れた。
「準備するから、シャワー浴びておいで」
 ね? と笑う燈向に、白旗を揚げた春人はもう何も言い返すまいと素直に頷く。
 そんな春人を見て「いい子」と笑った燈向は、握った手を解いたその手ずから“鍵”を春人の首に掛けてやる。
「バスルームはここ出て左ね。 タオルとかはラックにあるの何でも使って大丈夫だから」
 行っておいで、とドアの向こうを指差す燈向に大人しく従うように春人はベッドから下り、寝室を出た。