ドォォンッ──!! 再び雷鳴が轟く。
「そう言えば、夜は降るって言ってたっけ……。 春ちゃん、傘ある?」
 店の中にまで響く雷鳴の轟に、燈向は希に無い悪天候に呆気に取られた様に僅かに口を開いた。

「………………………」
「……春ちゃん?」
 身を強張らせたまま問い掛けても返事をしない春人の様子を訝しんだ燈向が、その肩に手を伸ばす。しかし。

──パンッ!

 と乾いた音を立ててその手が肩に触れる前に、それを拒むかの如く春人の手が燈向のそれを叩き払った。
「?!」
「………」
 しかしそれに驚いたのは燈向ではなくむしろ春人の方で。
「あっ、ご、ごめんなさい……」
「いや、大丈夫だけど……」
 ずいぶんと乾いた音がしたが、その実あまり痛みはない。
 それよりも燈向が驚いたのは、灯りを絞った店内でも解るほどに春人の顔色が青ざめている事にだった。
「本当にごめんなさい……あの、今日はもう、帰ります…」
 春人はそう言って鞄から財布を取り出して、千円札を二枚カウンターの上に置くと、慌てて椅子を降りた。
 多すぎる代金の釣りを受け取る様子もない春人の態度に、燈向は何か嫌な予感がして彼を追いかけるようにカウンターを出る。

 春人が勢いに任せて扉を開くものだから、ガランガラン! とドアベルが鈍い音を立てた。
 しかし開いた扉の向こうは、街灯の光に照らされた夜道が白く煙るほどの大雨。傘無しでは一歩外に踏み出した瞬間にびしょ濡れになるのは目に見えている。
 いや、仮に傘があっても役に立たないかもしれない。それほどまでに雨足は酷いものだった。
「春ちゃん!!」
 それでもお構い無しに店の外へ飛び出そうとする春人を見て、燈向は慌てて手を伸ばした。燈向の手が春人の細い手首を掴んだその瞬間、雷光がフラッシュのように街を照らし、間髪入れず雷鳴が轟く。
 恐らくはどこかのビルの避雷針に落ちたのだろう。雷が地上に落ちる確率は天文学的な低さではあるが、さすがにこんなに近くては春人を帰す訳にはいかない。
「近…… 春ちゃん、危ないからせめて雷が止むまで……春ちゃん?」
「──……っ!」
 もう暫く様子を見るようにと伝える燈向の言葉はしかし、春人には届いていない。ひゅ……ひゅっ…… と明らかに異常な呼吸が雨音の合間にかすかに聞こえてくる。
 それに、掴んだ手首だけではない。全身を震わせながら、春人はまるで死人のような青い顔で必死に燈向から顔を背けている。
 いや、顔を背けているのは燈向にではないのだろう。ただならぬ様子を感じて覗き込んだ春人の眼は、燈向を映してはいなかったのだから。
「春ちゃん…? ……春人!!」
「…っ!?」
 明らかに只事ではない様子に、燈向は春人の両肩を掴んで己に向き直らせた。春人、と燈向が名を呼ぶのと同時にカッ─!と夜空が光って再び大きな雷鳴が轟く。
一瞬の閃光に照らされた春人の表情は、恐怖と──絶望に彩られていた。
「…………今は危ないから、ここに居て」
 春人は明らかに雷を恐れている。いっそ憐れな程に全身を震わせていると言うのに、春人は何にもすがろうとしない。
 それが何故かひどく歯痒く感じて、燈向はドアを閉める仕草に紛れて片腕で春人を抱き寄せた。
 自分より少し背の低い春人の体は驚くほど細い。燈向はそのまま、両腕で春人の体を抱き込んだ。
 自分でも良く解らないけれど、そうしたくなったのだ。それは庇護欲とも言えるかもしれないが、そう言い切るには妙に胸の奥がモヤモヤとした。


「ここ、座って待ってて」
 そう言って手を引いて連れてきたのは、店内に唯一あるソファー席。
燈向が春人の細い──いや、“薄い”体を抱いている内に本人も落ち着いたのだろうか…震えは治まっていたが、相変わらず顔色は悪いままで。

 外は店のドアを閉めていても解るほどに未だ強く雨が降っている。
 春人はもう何も言わなくなっていた。ただ青い顔をしたまま、黙って燈向の言う通りにしている。
 燈向は春人をソファに座らせると、そのままその足でもう一度店のドアへ向かう。ドアから半身だけ出して、ドアに掛けている【open】を裏返して【close】に変えた。
 そうしてなるべく大きな音をたてないようにドアを閉めて、念のために鍵をかけ、春人の傍へ戻る。

 春人の隣に静に腰を下ろしたとき、その体が強張ったことが解った。これは思ったより根が深そうだ、と覚悟をして燈向は上体だけを春人へ向ける。
「春ちゃん……触れるね?」
 出来るだけ優しくそっと声を掛けて、燈向は春人の手に触れる。膝の上で固く握られた拳を両手で包み、握り締めているのに氷のように冷たいその手をゆっくりと解くように開いてゆく。
「手は商売道具なんだから、大事にしないと」
 ね? と優しく諭すように開いた手を包む。氷のように冷たい手が、春人の抱えているものを表しているかのようだった。

 迂闊に触れてはきっと厄介な事になる。この店を始める前、ホストとして働いていた時の勘が大いに警鐘を鳴らしている。

 しかし何故だろうか。
 厄介事だと解っていながらも、ここで手を離しては……見てみぬふりをしてはならないと本能が告げている気がするのだ。
「雷は嫌い?」
「…………………」
 燈向の言葉に春人は答えない。しかし燈向も答えて貰おうとは思っていないので、特に気にはしていなかった。ただ、黙ったままでは嫌でも外の音が耳につくだろう。店内のBGMの音量を上げてもよかったのだが、こう言うときは『他人の存在』と言うものの方が落ち着くものだ。
「オレもね、小さい頃すっっごく苦手でさ。 夜は兄さんの部屋にこっそり忍び込んで、一緒に寝てもらってた」
 燈向は春人の冷たい手を暖めながら、幼い日の思い出をそっと紐解くように口にした。
 大抵の子供は、雷が怖いものだ。実際に燈向もそうだった。気が付けば平気になっていたけど、多分、十歳くらいまではダメだったように思う。

 だからそんな時はいつも夜中にこっそり兄の部屋へ逃げ込んだ。
 枕を抱えて開いた扉の向こうの兄はいつも勉強机に向かっていて。けれど燈向がどんなにそっと扉を開いても、兄はいつも気が付いてくれて、そうして燈向に『おいで』と両手を広げてくれたのを覚えている。

「……お兄、さん?」
「そ。 オレ、六つ上のお兄ちゃんがいるの。春ちゃんは?兄弟とか居る?」
 燈向の問い掛けに春人は少しだけ間を開けてゆっくりと頭を振る。それから小さな声で「いない」 と言う。
 なるほど一人っ子。自分のように駆け込める避難場所を持ち得なかったが故の今だろうか。いや……しかし、それでもまだ引っ掛かるものはある。
 そんなことを考えながら、燈向は気付かれぬように春人の顔を伺い見た。
 春人は燈向の方を見ずに、虚ろに視線をさ迷わせている。燈向が握っていない手は胸の中央あたりを握っていて、きっとあの“なにか”を握り締めているのだろう。

 いつだっただろうか。
 遠い昔に、今の春人と同じような目をした子供を見た事がある気がする。けれど、それがいつだったかよく思い出せない。
 ただ、まるでこの世に居場所などないような、孤独に染まった悲しい目が印象的で。今の春人はそんな昔の“誰か”に重なって、何だか燈向は胸の奥が疼くのだ。

「春ちゃん……」
 燈向は左手をそっと春人の頬に伸ばす。俯いているせいで表情を隠してしまっている前髪をそっとかき分けるように額に触れた。

 白い額はまるで雪のように冷たい。燈向のカクテルがもたらした熱はとうに過ぎ去ってしまっていた。

 ふと額の右上、生え際に程近いその場所に指が触れたとき、きめ細やかな肌とは違う感触を覚える。
 燈向はそっと、春人の前髪をかき上げる様に髪を払い額を露にした。
 幅にして約五センチ。露にしたそこには古い傷があった。傷を負ったとき適切な治療が為されなかったのだろうか……その部分だけ僅かに肉が下がり、肌は変色し引きつっている。なまじ古傷以外が綺麗なだけに余計に痛々しく見えた。
「春ちゃん……これ…」
 自ら暴いておいて何だが、古傷とは言えあまりの痛々しさに燈向は思わず口を開き問い掛けてしまう。
 すると春人の肩が僅かに揺れ、胸元を握り締めていた手がそっと、緩やかな拒絶を示すように燈向の手を払った。

「昔の、傷…だから……平気…です」
 春人の言葉通り、古傷なのだから痛むことは無いだろう。しかし…。
「痛かったね……」
 これ程はっきりと傷痕として残るほどの怪我なのだ、傷を負ったその時はさぞ痛かっただろう。
 燈向は一度拒まれた手を躊躇うことなくその古い傷痕へ伸ばし、慰めるようにそっとその傷を撫でた。
「……いたく、ないよ」
「うん…。 でも、痛かったでしょ?」
「………っ」
 燈向の言葉に、春人が息を飲む。それと同時に燈向も理解した。
 この傷が、春人にとってはまだ癒えていないものなのだと。傷は塞がっていてもきっと今も思い出しては痛む傷なのだ。

「痛かったら、泣いていいんだよ」
 燈向のその言葉がまるで呼び水だったかのように、春人の瞳にはたちまち涙の膜があらわれ、弾けた。
 “はらはらと落ちる”と言う表現はきっとこう言うことを指すのだろう。そんなことを思わされるほどに、春人は静に泣いた。
 いや、もしかしたら声の上げかたを知らないのかもしれない。そう思えてしまうほど、春人の涙は痛ましかった。
「春ちゃん……」
 燈向はそっと、春人の薄い肩を抱き寄せた。どうしてだか無性にそうしたくなったのだ。




──雷鳴は遠くても、雨音はまだ響く。この雨が止むまでは、この薄い体を抱いていたいと……どうしてだか強く思った。





カシスソーダ:「あなたは魅力的」 おもわず、触れたくなって仕方ないんだ。