「…………………春人さぁ」
「夏くん、ストップ」
他から見れば『お前は春人の父親か何かか?』とツッコミが入りそうなほど難しい顔をした夏樹が口を開きかけた時、間髪入れずにみどりがそれを遮った。
「話を聞く限りじゃ、問題ないわ。 第一、その気があるならもうとっくに連絡先くらい渡してる。それがまだ連絡先すら知らないって言うんだから、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「……………けどなぁ…ハルだぞ…?」
「まぁそこはねぇ……私たちが気を付けていれば大丈夫じゃないかしら」
夏樹もみどりも、春人が理解し得ぬ何かを理解している様子で会話を進めている。
おかしいな。僕は夏樹とは一つ下だけど、みどりちゃんよりは歳上なのに完全に子供扱いされている気がする…… そんな確信に近い疑念を抱きながら、春人は自分のグラスに口をつけた。
「ところで、その人のお店ってどこにあるの?」
完全に夏樹を説き伏せたみどりが、興味津々といった顔で春人に尋ねてくる。春人は燈向の店の場所を口頭で説明しつつも、その時初めて自分が燈向の店の名前を知らない事に気がついた。
その事をポツリとこぼすとまたしても何か難しい顔で夏樹が口を開くが、何か言うより早くみどりによってカプレーゼを口の中に突っ込まれたのは言うまでもないだろう。
「……と、言うことがあって」
あれから十日ほど経った日のこと。別の打ち合わせでちょうど近くまで来ていた春人は、いつものように燈向の店を訪れていた。
ショッピングモールで燈向に助けられ、そのあと一緒に買い物をして別れた後の話をすると、最初は穏やかに話を聞いていた燈向だったが終いには腹を抱えて笑いだした。
「やっぱり、ちょっとおかしいですか?」
週の中日の所為か店には春人以外の客がいない。それを良いことに燈向はとうとうカウンターの内側にしゃがみ込んでしまった。
いつも愛想の良い表情をしている燈向がこんなにも大笑いするとは思わず、けれどもその少年のような笑い顔にほんの少し親近感を覚えながら、春人は少しだけ身を乗り出してカウンターの内側を覗き込んだ。
「あ~…ははっ、ゴメン笑いすぎたね」
「それは別に…構わないんですけど……」
「ナツキくん?だっけ。 よっぽど春ちゃんの事が大切なんだね」
愛されてるね と言う燈向の言葉に、何だかくすぐったい気持ちになって、春人は浮かせた腰を落ち着かせた。
それと同時に燈向もやっと笑いが収まったのか、目尻を指の背で拭いながらゆっくりと立ち上がる。
「大事にしてもらってる自覚はあり、ます…けど。 でも……」
春人自身、夏樹の好意に日頃から甘えている自覚はある。けれどもあの日のあの夏樹の反応は少し過保護が過ぎるのではないかと思うのだ。友を心配すると言うよりは、世間知らずな子供を心配する親の様な夏樹の態度は、少なからず春人の成人男性としての矜持を疼かせた。
「多分大人か子供か、男か女かじゃなくて、そう言うのを抜きにして心配だったんだよ」
「……でも夏樹はもう自分の家庭を持つんだから、僕の事なんて気にしなくてもいいのに…」
「あ~~~…春ちゃん、それはダメ。 ナツキくんが聞いたら泣いちゃう」
「……?」
なんの事ですか? と言わんばかりに小首を傾げる春人の反応に、燈向はこっそりと苦笑いをする。
他人との接触が不得手で、自己評価が低い事はなんとなく察してはいたが、思ったよりも深刻そうなそれに、友人のナツキとやらもさぞ手を焼いているのだろうと察するに余りある。
「結婚して家庭を持っても、奥さんは奥さんで、親友は親友。 ま、そう言うものってこと」
「…そう、だったら……いいな」
戸惑いがちにそう口にする春人の右手が、そっと胸に──否、その内側にある“なにか”に触れる。
襟の広く開いたカットソーから覗く白い首に、いつも古びた革紐が掛かっている事は知っていた。アクセサリーの類いならば服の内側ではなく外に見せるだろうし、そうしないのならばよほど大事な“なにか”なのだ。
それに触れると言う行為はもはや本人すら自覚していないだろう。
タイミングとしては恐らく、不安や恐怖といった本人にとって良くない感情を感じた時に触れている。
だとしたら、友人であるナツキの結婚を祝福する気持ちに偽りはないけれど、そこから先、自分たちの関係性が変わっていく事に不安を感じていると言ったところだろうか。
不器用な子だと思う。
その上、庇護欲を掻き立てる様な儚げな外見をしていて、隙も多い。いや、隙と言うよりはもしかしたら春人には“一般的な感覚”と言うものが十分に備わっていないのかもしれない……。そう燈向は考えた。
それはかつて、燈向自身が『ホスト』と言う所謂【夜職】をしていた時の名残のようなものだった。
『夜の街』には往々にして歪な人間が多い。もちろん外見的な意味ではない。富や名声に固執する者や何かに執着する者、そして最たるは情に飢えている者。
彼らはそれらを埋めるように金を使う。例えそうして得られるものがひとときの夢であったとしても、その瞬間は確かに“満たされる”事を知っているからだ。燈向はずっと、そんな人たちと関わってきた。“満たす側”として。
けれど、目の前の彼はどうだろう。
そもそも“満たされる”と言うこと自体知らない様な気さえする。
だから自分が飢えていることすら自覚がない。けれども心の奥底では“誰か”を求める想いがあって。それが知らず滲み出た結果、外見も相まって他人を魅了している。
燈向はこれまで多くの人と関わってきた。男も女も、数えきれない程に。
その中でも、この『青葉 春人』と言う存在は何よりも“歪”で、誰よりも──美しい。
それは気安い気持ちで手を出すにはあまりにも危険であると、長年かけて培った経験が告げているのだが、それを無視して触れてしまいたいと言う衝動が、時折暴れだして止まらなくなるのだ。
いかにも繊細そうな春人の内側を、無理に暴いて傷付けたい訳ではない。けれど、永久凍土を溶かすような、あるいは花の蕾を綻ばせるかのように彼の内側に触れることができたとしたら……。
燈向はそんな詮ない妄想をしながら、器用に手を動かしていた。
ドライ・シェリーとベルモット、オレンジ・ビターとマラスキーノをステアしたカクテルの名は“コロネーション”。甘過ぎず、かといって辛口でもない、スッキリとした口当たりのカクテルだ。
「春ちゃんは、甘いのとしょっぱいのどっちが好き?」
「甘いほう」
燈向の質問に迷わず答える春人に、燈向はにこりと笑みを浮かべて冷蔵庫から小さな箱を取り出す。
そこにはカラフルなマカロン並んでいて、燈向は小皿に紙レースを敷いてその上に黄色とピンクのマカロンを置いた。
「今日のカクテルは“コロネーション”。 さっぱりしてるから、甘いものもよく合うよ」
そう言って差し出したグラスの横に置いた小皿を見て、春人がわずかに目を輝かせたことを燈向は見逃さない。
「黄色はレモン、ピンクはストロベリーね」
そう言ってそれぞれを指差して説明をしてから、フォークを差し出す。渡すときに僅かに触れた手が冷たくて、春人は体温が低いのだと知った。
