◇
翌日昼休み。
「八百さん」
その一言でクラス中が一瞬ザワっとどよめいて、それからみんなの視線がこちらに注がれた。
自分の席でお弁当を取り出した私に、真山くんが声をかけてきたから。
「真山くん。どうかした?」
できるだけ平静を装って笑顔で尋ねたけれど、心臓はギクリと音を立ててからバクバクと小刻みにリズムを刻んでいる。〝きた〟と〝ヤバい〟を繰り返す私の心の声を乗せて。
真山くんは、「話がある」と言って私を昨日の場所……つまり屋上に連れ出した。
うちの学校の屋上は、立ち入り禁止だと思われているらしく全然人が来なくて、一年生の頃から私が一人で過ごす憩いの場所だった。
なのに昨日は真山くんがいた。そして——。
「これって、八百さんのだよね」
彼の手には、ハガキくらいのサイズの小さなピンクのノート。
「…………」
彼の質問に答えをためらって、ツバをゴクリと飲み込んだ。
「中……見たの?」
真山くんは無言でこちらを見ている。
「見たんだ」
彼はいつもの無表情でコクリと頷いた。
〝終わった〟
そう思った瞬間に、この先の約一年半の高校生活を想像して泣きたくなって、目に涙が滲みはじめる。
いや、でも待って。
相手はあの〝アイスマン〟真山くんだ。
もしかしたら彼はノートの意味がわかっていないのかもしれない。
きっとあんな内容に興味を持つタイプではない。
淡い希望が芽生える。
「あー……そうね、うん。落としちゃったの、そのメモ。だから返——」
「まさか八百さんが赤井コーヒー先生だったなんて」
ああ、人生って甘くない。
【赤井コーヒー】
日本のギャグ漫画家。性別・年齢非公表。
小学生男子を主ターゲットとした漫画雑誌、ゴロゴロコミックで活動中。
現在は『まぁべらす!コーヒーくん』というギャグ漫画を連載中で、連載は二年目に突入したところだ。
その作風は……
——『うちなんて弟がくだらないマンガばっかり読んでて、なんとかコーヒーくんとかいうやつ、超下品で嫌んなる』
小学生が好むギャグなどが満載で、お世辞にも〝上品〟などとは言えないものである。
(参照:『日本の漫画家データベース』)
「ち、ちがう! そのノートは、お、弟ので!」
「八百さんがお嬢様で一人っ子だって、俺でも知ってる」
日頃から噂されていることがこんな時に邪魔をするなんて。
「だ、だいたいそんなノートだけで——」
「これ」
真山くんはおもむろに取り出したスマホの画面を私に差し出す。
そこに映し出されていたのは、今日発売のゴロゴロコミック電子版……の、『まぁべらす!コーヒーくん』の電子限定特典マンガのページ。
「ほらここ、このノートと同じ絵と同じセリフ」
ノートに描かれたラクガキのような状態のコーヒーくんとスマホ画面を交互に見せられる。
ノートにもスマホ画面にも、『鼻血』だとか『おなら』だとか他にも……まあとにかく、小学生男子が聞いたら爆笑するであろう下品なワードが次々に出てくる。
「これ、今日発売ってことは昨日は世に出てなかったってことだよね。それがこのノートに書かれてるってことは」
彼はジッとこちらを見つめる……というより監視するような鋭い目で見ている。
全身が心臓になってしまったようなバクバクという鼓動に包まれながら、私はごまかす方法をぐるぐると思案する……けど、ダメ! 半分パニックで何も浮かばない!
だって彼の言う通り、正真正銘、私が、小学生に大人気!のお下品ギャグ漫画家こと……赤井コーヒーだし、目の前のノートは私のネタ帳だ。
私の頭の中はいつだって、小学生男子以上に小学生男子みたいな言葉で埋め尽くされている。
こんな時だって〝コーヒーくんだったら『ヤバすぎて鼻血ブー! コーヒーブー!』って感じかな〟なんて、マンガに使おうとしているんだから職業病だ。
どう考えてもそんな呑気な場面じゃないのに。
「八百さんがコーヒー先生だって、秘密?」
当たり前でしょ。ハッキリ言って命懸けで守りたいくらいの秘密。
「……だったら何だっていうの?」
学校中に言いふらすつもり?
「このノート、返す代わりに頼みを聞いて欲しいんだ」
脅すってこと?
「サイテー……」
思わず心の声が漏れたけれど、真山くんの行動は私の予想に反していた。
彼は突然上半身を九十度に曲げるように深々と頭を下げた。
「へ……?」
つい、呆気に取られる。
「コーヒー先生。俺の師匠になってください」
ポカンとして三拍分くらい言葉を発せずにいると、アニメみたいにカラスが「カー」って鳴く声が聞こえた。
「……はぁ⁉︎」
思いっきり訝しんだ声を出してしまった。
「師匠?」
「はい」
彼は顔を上げたけど、言動と合わないいつも通りの冷たい表情のままだ。
「何の?」
「ギャグの、いや、お笑い芸人としての」
「お、お笑い芸人?」
真山くんは一体どうしてしまったんだろう。彼が何を言っているのかさっぱりわからない。
「俺、あ自分、お笑い芸人になるのが夢なんだ……じゃなかった、夢なんです」
いやいや、敬語とかどうでもいいから。
「真山くんがお笑い芸人?」
彼は温度のない顔のまま、深く頷いた。
表情と言動や行動がこんなにも合っていないことがあるのかと、妙なところに感心する。
「だけど、自分——」
「あの、お願いだから普通にしゃべってもらえるかな」
屋上に来てから何もかもが現実味がなさすぎてついていけない。
「俺、絶望的に笑いのセンスがないみたいで」
「ぶっ」
真顔で言われて、思わず吹き出してしまった。
「あ、ごめん。ちょっと真山くんの表情からの言動が意外すぎて。どうぞ続けて」
今更上品ぶって両手で口元を押さえる。
「だから、コーヒー先生にギャグの稽古をつけて欲しいんだ」
「ギャグの〝稽古〟……?」
「これに出たくて」
そう言って、彼は胸ポケットからきれいに折り畳まれたプリントを取り出した。
【文化祭ステージ! 出演者募集】
開いた紙には大きな文字でそう書かれている。
「十一月の文化祭。そのステージでお笑いライブをやりたいんだ」
「こんなの学生のイベントなんだから、別にクオリティは求めなくていいんじゃない?」
私の言葉に、彼は首を横に振った。
「やるからには、全員笑わせたい」
彼の目は真剣だ。
けれど私はため息をつく。
「そんなの私には関係ないし。ノート、返して」
彼の手に握られたノートに手を伸ばした瞬間、腕を振り上げて避けられてしまった。
「ちょっと!」
「頼む」
「無理。だいたい私、お笑い芸人じゃないし」
「いや、コーヒー先生のギャグはテレビで見る芸人のギャグやコントに負けないくらいおもしろい」
だからその真顔で言わないでよ。
と、思いながらまたさりげなくノートに手を伸ばして、避けられてしまう。
「他当たってよ」
「ふーん、じゃあ——」
「え……」
「このノートの中身と、コーヒー先生が八百さんだってこと、学校中にばら撒く」
真山くんが、凍りつくような冷たい表情で言ったから恐怖で背筋がゾクッとした。
「怖……っ」
こういう時は〝不敵な笑みを浮かべる〟がマンガなんかの定番だと思うんだけど。
「え、いやそんな、怖がらせたかったわけじゃなくて」
私がドン引きした声を出したら真山くんの声が焦り出して、今日一番驚いたかもしれない。
「なんていうか、とにかく協力して欲しいだけで……」
その声を聞いていたら、その懇願するような真剣さになんだか少し興味がわいた。
「なんでそんなに文化祭に出たいわけ?」
翌日昼休み。
「八百さん」
その一言でクラス中が一瞬ザワっとどよめいて、それからみんなの視線がこちらに注がれた。
自分の席でお弁当を取り出した私に、真山くんが声をかけてきたから。
「真山くん。どうかした?」
できるだけ平静を装って笑顔で尋ねたけれど、心臓はギクリと音を立ててからバクバクと小刻みにリズムを刻んでいる。〝きた〟と〝ヤバい〟を繰り返す私の心の声を乗せて。
真山くんは、「話がある」と言って私を昨日の場所……つまり屋上に連れ出した。
うちの学校の屋上は、立ち入り禁止だと思われているらしく全然人が来なくて、一年生の頃から私が一人で過ごす憩いの場所だった。
なのに昨日は真山くんがいた。そして——。
「これって、八百さんのだよね」
彼の手には、ハガキくらいのサイズの小さなピンクのノート。
「…………」
彼の質問に答えをためらって、ツバをゴクリと飲み込んだ。
「中……見たの?」
真山くんは無言でこちらを見ている。
「見たんだ」
彼はいつもの無表情でコクリと頷いた。
〝終わった〟
そう思った瞬間に、この先の約一年半の高校生活を想像して泣きたくなって、目に涙が滲みはじめる。
いや、でも待って。
相手はあの〝アイスマン〟真山くんだ。
もしかしたら彼はノートの意味がわかっていないのかもしれない。
きっとあんな内容に興味を持つタイプではない。
淡い希望が芽生える。
「あー……そうね、うん。落としちゃったの、そのメモ。だから返——」
「まさか八百さんが赤井コーヒー先生だったなんて」
ああ、人生って甘くない。
【赤井コーヒー】
日本のギャグ漫画家。性別・年齢非公表。
小学生男子を主ターゲットとした漫画雑誌、ゴロゴロコミックで活動中。
現在は『まぁべらす!コーヒーくん』というギャグ漫画を連載中で、連載は二年目に突入したところだ。
その作風は……
——『うちなんて弟がくだらないマンガばっかり読んでて、なんとかコーヒーくんとかいうやつ、超下品で嫌んなる』
小学生が好むギャグなどが満載で、お世辞にも〝上品〟などとは言えないものである。
(参照:『日本の漫画家データベース』)
「ち、ちがう! そのノートは、お、弟ので!」
「八百さんがお嬢様で一人っ子だって、俺でも知ってる」
日頃から噂されていることがこんな時に邪魔をするなんて。
「だ、だいたいそんなノートだけで——」
「これ」
真山くんはおもむろに取り出したスマホの画面を私に差し出す。
そこに映し出されていたのは、今日発売のゴロゴロコミック電子版……の、『まぁべらす!コーヒーくん』の電子限定特典マンガのページ。
「ほらここ、このノートと同じ絵と同じセリフ」
ノートに描かれたラクガキのような状態のコーヒーくんとスマホ画面を交互に見せられる。
ノートにもスマホ画面にも、『鼻血』だとか『おなら』だとか他にも……まあとにかく、小学生男子が聞いたら爆笑するであろう下品なワードが次々に出てくる。
「これ、今日発売ってことは昨日は世に出てなかったってことだよね。それがこのノートに書かれてるってことは」
彼はジッとこちらを見つめる……というより監視するような鋭い目で見ている。
全身が心臓になってしまったようなバクバクという鼓動に包まれながら、私はごまかす方法をぐるぐると思案する……けど、ダメ! 半分パニックで何も浮かばない!
だって彼の言う通り、正真正銘、私が、小学生に大人気!のお下品ギャグ漫画家こと……赤井コーヒーだし、目の前のノートは私のネタ帳だ。
私の頭の中はいつだって、小学生男子以上に小学生男子みたいな言葉で埋め尽くされている。
こんな時だって〝コーヒーくんだったら『ヤバすぎて鼻血ブー! コーヒーブー!』って感じかな〟なんて、マンガに使おうとしているんだから職業病だ。
どう考えてもそんな呑気な場面じゃないのに。
「八百さんがコーヒー先生だって、秘密?」
当たり前でしょ。ハッキリ言って命懸けで守りたいくらいの秘密。
「……だったら何だっていうの?」
学校中に言いふらすつもり?
「このノート、返す代わりに頼みを聞いて欲しいんだ」
脅すってこと?
「サイテー……」
思わず心の声が漏れたけれど、真山くんの行動は私の予想に反していた。
彼は突然上半身を九十度に曲げるように深々と頭を下げた。
「へ……?」
つい、呆気に取られる。
「コーヒー先生。俺の師匠になってください」
ポカンとして三拍分くらい言葉を発せずにいると、アニメみたいにカラスが「カー」って鳴く声が聞こえた。
「……はぁ⁉︎」
思いっきり訝しんだ声を出してしまった。
「師匠?」
「はい」
彼は顔を上げたけど、言動と合わないいつも通りの冷たい表情のままだ。
「何の?」
「ギャグの、いや、お笑い芸人としての」
「お、お笑い芸人?」
真山くんは一体どうしてしまったんだろう。彼が何を言っているのかさっぱりわからない。
「俺、あ自分、お笑い芸人になるのが夢なんだ……じゃなかった、夢なんです」
いやいや、敬語とかどうでもいいから。
「真山くんがお笑い芸人?」
彼は温度のない顔のまま、深く頷いた。
表情と言動や行動がこんなにも合っていないことがあるのかと、妙なところに感心する。
「だけど、自分——」
「あの、お願いだから普通にしゃべってもらえるかな」
屋上に来てから何もかもが現実味がなさすぎてついていけない。
「俺、絶望的に笑いのセンスがないみたいで」
「ぶっ」
真顔で言われて、思わず吹き出してしまった。
「あ、ごめん。ちょっと真山くんの表情からの言動が意外すぎて。どうぞ続けて」
今更上品ぶって両手で口元を押さえる。
「だから、コーヒー先生にギャグの稽古をつけて欲しいんだ」
「ギャグの〝稽古〟……?」
「これに出たくて」
そう言って、彼は胸ポケットからきれいに折り畳まれたプリントを取り出した。
【文化祭ステージ! 出演者募集】
開いた紙には大きな文字でそう書かれている。
「十一月の文化祭。そのステージでお笑いライブをやりたいんだ」
「こんなの学生のイベントなんだから、別にクオリティは求めなくていいんじゃない?」
私の言葉に、彼は首を横に振った。
「やるからには、全員笑わせたい」
彼の目は真剣だ。
けれど私はため息をつく。
「そんなの私には関係ないし。ノート、返して」
彼の手に握られたノートに手を伸ばした瞬間、腕を振り上げて避けられてしまった。
「ちょっと!」
「頼む」
「無理。だいたい私、お笑い芸人じゃないし」
「いや、コーヒー先生のギャグはテレビで見る芸人のギャグやコントに負けないくらいおもしろい」
だからその真顔で言わないでよ。
と、思いながらまたさりげなくノートに手を伸ばして、避けられてしまう。
「他当たってよ」
「ふーん、じゃあ——」
「え……」
「このノートの中身と、コーヒー先生が八百さんだってこと、学校中にばら撒く」
真山くんが、凍りつくような冷たい表情で言ったから恐怖で背筋がゾクッとした。
「怖……っ」
こういう時は〝不敵な笑みを浮かべる〟がマンガなんかの定番だと思うんだけど。
「え、いやそんな、怖がらせたかったわけじゃなくて」
私がドン引きした声を出したら真山くんの声が焦り出して、今日一番驚いたかもしれない。
「なんていうか、とにかく協力して欲しいだけで……」
その声を聞いていたら、その懇願するような真剣さになんだか少し興味がわいた。
「なんでそんなに文化祭に出たいわけ?」



