5月21日(水)

 クラス一の変人男子である湯川が脚本担当に名乗りを上げた時、私を含め女子のほぼ全員が不安を覚えた。
 中間試験明けの最初のロングホームルームで、秋の文化祭で行う劇のことを話し合っている最中のことだった。私の通う高校では一年生は全クラスが劇を上演するのが決まりになっていた。それも脚本はオリジナルに限るという縛りが掛けられていた。
 湯川の立候補を受けて、私の隣に座る小百合が狼狽えた様子で話しかけてきた。
「ねえ、水沢さん、水沢さんも脚本担当に立候補してよ。湯川君一人に任せてたら、たぶんすごく変な脚本を書いてくるよ」
 小百合の言うことは分からないでもなかった。たぶん女子のほぼ全員がそう思っていることは容易に想像がついた。

 湯川という男子は、とにかく変わっていた。入学式で新入生代表挨拶をしたぐらいだから、入試成績が良かったことは間違いがなかった。遅刻常習者の上に欠席も多く、授業中はよく寝ているくせに、一学期の中間試験では、どの科目も満点に近かったことは、隣の席で、返却された湯川の答案を見た久美子の証言から明らかになっていた。男子が言うことには、湯川は運動神経も極めて良いということだった。
 入学式で挨拶をした時には、服装もきちんとしていて、なかなかのイケメン男子だったのに、翌日から湯川の外見は一気に豹変した。まず、服装がすぐにだらしなくなった。先生方に何度注意されても、すぐにネクタイを外した。ワイシャツもズボンの上にいつもはみ出していた。体育の後に汗をかいたりすると、すぐにズボンの裾をまくり、靴下も脱いでしまうのだ。もちろん上履きの踵はつぶれていた。髪はいつもボサボサの上に寝ぐせがついているのが日常的だった。髭もたまにしか剃らないらしく、いつも無精ひげを生やしていた。
 生活態度もだらしなかった。机の上も中も、いつも散らかっていた。他クラスの生徒と一緒の展開授業では、他人の席に座ることになるのだが、湯川の席に当たってしまった生徒はいつも愚痴をこぼしていた。ロッカーの中も同様だった。湯川がロッカーを開けた途端に起こる教材の雪崩は何度も目撃されていた。
 湯川は、男子とはそこそこ話はするものの、休み時間にはゲームに没頭していることが多かった。モンスターやゾンビ、敵兵を倒しまくるゲームをよくしているので、暴力的な性格なのかも知れないとも思われていた。
 そんなわけだから、湯川の周りには女子は寄りつかなかった。そんな湯川が脚本担当に立候補したのだから、女子の間に動揺が生じたのは当然と言えた。

 自分で言うのもなんだが、表面的には私は湯川の対極にいた。他人の目から見れば、私は清潔感溢れる典型的な優等生だった。中学時代から今まで、ずっと、無遅刻・無欠席・無早退の皆勤を通していた。たくさんの本を読んでいる読書家で、頭も良いお嬢様だと思われていた。男子が密かに行ったクラスの美人コンテストで、私は一位になったという噂もあった。自己主張はせず控えめなところが男子にも女子に好かれていて、クラスのまとめ役と目されていた。
 しかし、それらは、あくまでも表面上のことで、私の真の姿はお嬢様とはおよそかけ離れたものだったが、誰一人として私の演技を見破る者はいなかった。

 湯川の脚本担当に不安を覚えた小百合が再度依頼をしてきた。
「ねえ、水沢さん、読書家なんだから立候補してよ」
「頼ってくれるのは嬉しいけど、私、脚本なんて書けないわ」
 お嬢様ぶった言い方はともかく、言ったこと自体は本音だった。私は本を読むのは好きだったが、創作活動はしたいと思ったことがなく、したこともなかった。
 消極的な私に業を煮やしたのか、あるいは止むに止まれずか、小百合が不意に手を挙げた。
「先生、湯川君一人では大変だと思うので、私、水沢さんも脚本担当に推薦します」
『湯川といっしょに脚本担当!冗談やない。なんで、うちがそないな目に合わなあかんのや!』
 そう叫びたかったが言えなかった。
「私も賛成です」
「私も水沢さんを脚本担当に推薦します」
 女子の間から次々と同意する声が上がった。さらに困ったことには、先生まで余計なことを言ってしまった。
「ああ、そうだな。水沢は『高校生活の抱負』の作文も上手く書けていたから適任かもしれないな。じゃあ、水沢、湯川と一緒に脚本を書いてもらえるかな?」
 先生にまでそう言われると、おしとやかな優等生を演じていた私は引き受けざるを得なくなった。
「分かりました。私で良ければやらせて頂きます」
 心にもない台詞を吐いた後、湯川の方を見ると、湯川は不機嫌そうな顔をしていた。

 放課後、誰もいなくなった教室で、私は自分の席に腰を降ろしていた。なぜかと言うと、ロングホームルームの後、湯川に「放課後打ち合わせをしたい」と言われたからだった。
 しばらくすると、湯川は教室に戻ってきて自分の席に腰を降ろした。
「じゃあ、水沢、脚本の打ち合わせを始めようぜ」
 湯川に声を掛けられたものの、私は自分の席から立とうとはしなかった。
「そこじゃあ、話が遠いから近くに来いよ」
 湯川の命令口調にカチンときたが我慢した。私は自分の席を離れ、久美子の席に腰を降ろした。
「あのさあ、水沢、『人と話をする時は、相手の目を見て話せって』って教わらなかった」
 自分の席を私の方に向けながら放った湯川の言葉には棘があったが、言われてみればその通りだった。私は、少し反省して自分も机を湯川の方に向けた。
「ごめんなさい」
 一応詫びを入れた。
「いや、分かればいいよ」
 どこか上から目線のものの言い様に聞こえた。しかし、ここは耐えるしかないと思った。そう思っていたら、更に気に食わないことを言われた。
「なあ水沢、本当は、俺一人で全てやりたかったんだけど、決まったことだから仕方がない」
 半ば無理やり脚本担当にされたのに『お前など不要だ』と言われたようで頭にきたが何とか堪えた。そんな私の気持ちなどまるで分かっていないような調子で湯川は本題に入った。
「なあ、お前、どう思う?俺はドラクエみたいな中世ファンタジーをやりたいと思うんだけど」
 その瞬間、私の中で封印が切れた。
「何言うてんねん。うちはあんたにお前呼ばわりされとうないわ」
「俺も君にあんた呼ばわりされたくないけどね」
 湯川は厭らしく言った後に更にムカつく言葉を吐いた。
「しかし、驚いたな。君は、頭も良いし、本もよく読んでいるから東京生まれのおしとやかなお嬢様だと思ってたんだけど、騙されてたぜ」
 素直に認めたくなかった私は、湯川の脚本の案にケチをつけることにした。
「そんならうちも言わしてもらうわ。中世ファンタジー、アホか、そないな芝居、学校の演劇でできる訳ないやろ」
「反対するなら、ちゃんと根拠を示せよ」
 怒った様子も見せず妙に冷静な切り返しをしてくる湯川に腹が立ち、私は我を見失ってまくし立てた。
「ええか、そないな芝居しよう思ったら、大道具も衣装も作るのが大変やろ。それにゲームや映画の真似したかて、ちゃちに見えるだけや。客がドン引きして笑われるのは目に見えてるわ。舞台の上で晒し者になるような役を引き受けるアホもおらへんで」
「確かに君の言うことは確かに理にかなってるな」
 湯川が妙に冷静に認めたのには驚いた。そして、その直後、平静を取り戻した私はどうしようもなく恥ずかしくなった。
「湯川君、ごめんなさい。私が方言を使ったこと、皆に黙っていてくれないかな。お願いだから」
「別に隠すことじゃねえ思うけど、君がそう言うなら黙ってやるよ。俺、結構口は堅いから安心しろ」
「ありがとう」
 結構良い奴なのかも知れないと思った直後、湯川は、またムッとするようなことを言ってきた。
「さて、俺の案にケチをつけたんだから、ちゃんと対案を出せよ」
「ええ、でも、私、創作活動なんてしたことないし」
「へえ、そうか。読書家だから、そういう方面にも興味があると思ったんだけどな。クラスの女子も、そう思ってたんじゃねえのか」
「まあ、そうでしょうね」
「興味がないなら、どうして脚本担当なんて引き受けたんだ?」
「それは・・・」
 私が言いよどむと、湯川には言われたくなかった言葉を口にされた。
「文学少女の優等生を演じたって訳か」
「そうや、その通りや。笑いたければ笑えばええわ」
 私は、また我を失った。更に傷口に塩を塗るような言葉を浴びせられるような気がしたが違った。
「でもまあ、そんなに悲観することもねえだろう。結果オーライだよ。本をよく読んでるだけあって。物語のことは良く分かってるじゃねえか。相棒として悪くないと思ったぜ、さっき試してみてな」
「何を試したって言うのよ」
「俺はな、ドラクエみたいな芝居ができないことは最初から分かってたんだ。でも俺がドラクエみたいな物語を書きたいって言ったら、君は反対したじゃないか。名目だけの脚本担当を演じるイエスマンにならなかった。それに学校演劇としては上手くいかないところをきちんと理由をつけて説明して見せたじゃないか。『こいつは使える』って思ったぜ」
 最後の一言が少しムカついたが、湯川の顔はなぜか優しく見えた。私が何も言わないでいると、湯川はさっさと話を脚本の方に戻した。
「まあいいや、じゃあ、本題に戻ろうぜ。どんな物語なら上手くやれると思う?」
「そうね・・・」
 湯川に言われて少し考えたら一つ案が浮かんだ。
「ねえ、学園ものが良いんじゃないかしら。衣装も大道具も作る必要がないし、役者は全員素人なんだから、日常の延長でできるのは大きな利点だと思うけどな」
「なるほど。まあ、確かにその通りだな」
 また妙に素直に認めたのが少し不思議に思えた。学園ものと言い出したものの具体的な案はなかったので私は湯川に話を振った。
「湯川君、学園もので好きな話とかないの?」
「そうだな。『タイムトリップガール』とか好きだけどな」
「へえ、本当?意外だわ」
「以外で悪かったな」
「ああ、ごめんなさい。私も、あの小説大好きなんだ。あんなお話ができたらいいね」
 今日初めて、私は少しだけ嬉しくなった。「タイムトリップガール」は未来から来た少女が、その素性を隠して現代の中学校で過ごし、クラスメートと友情を育むのだけれど、最後は未来に帰ってゆくというお話だった。
「ああ、確かにああいう感じの物語にするのは良いかもしれねえな」
 湯川も少し乗り気なようだった。
「初めて意見があったね」
「まあ、そうだな。とは言うものの、脚本はオリジナルじゃなきゃいけないから、ああいうテイストの話にするにしても、話自体は一から考えないとな。じゃあ、今日の打ち合わせはここまでにしようか。考えがまとまったら、声を掛けるから、また打ち合わせをしようぜ」
「うん、わかった」
「ああ、じゃあな」
 もう、用は済んだとばかりに立ち上がると、湯川はさっさと教室を出て行ってしまった。

5月23日(金)

 二日後、前回同様に放課後の教室で、私たちは二度目の打ち合わせをした。ノートに書かれた企画書プラスあらすじのようなものを見せられて私は驚いた。湯川の文字が普段の様子からはおよそ想像がつかない程美しかったからだ。
 しかし、裏腹に内容については少し失望した。未来人の女の子が、宇宙人の女の子に変わっている以外には、さしたる変化が見られなかったのだ。
「どうだ?」
 湯川に尋ねられた私は素直に意見を言うことにした。
「まずは、ご苦労様でした。自分では書いてないのに文句をつけるようで申し訳ないけど、宇宙人と言うのはどうかな。UFOに乗って帰るっていう設定も、学校のステージでやるにはどうかと思うの」
「なるほど、じゃあ、別のパラレルワールドから来た女の子というのはどうだ?」
「うん、宇宙人よりは良いと思うけど、パラレルワールドの説明が面倒になると思うの。あと、宇宙人や異次元人みたいなSF的な設定だと女の子にはちょっと馴染みにくいじゃないかしら」
「なるほど、じゃあ、どうしたらいいと思う」
 湯川に問いかけにはすぐには答えられなかった。しかし、しばらく考えていたら、不意に名案が浮かんだ。我ながら良い思いつきだと少し興奮したせいで、つい方言が出てしまった。
「座敷童なんてどないやろうか?」
「座敷童?あの東北の旧家に住んでいるという妖怪か?」
「うん、そう。でもね、座敷童の話って結構色々あるのよ。例えば四十人のクラスのはずが、いつの間にか四十一人になっているんだけど、誰が四十一人目から分からないまま時が過ぎてゆくの。そして、いつの間にかクラスは四十人に戻っているんだけど、誰が居なくなったのか分からない。そんな話が結構あるのよ」
「なるほど、悪くないな。でも、そうすると、中学校のクラスに紛れ込んだ女の子は、クラスメートに忘れられちゃう訳だ」
「そうやな」
「よし、じゃあ、その設定で行こう。今度は場面設定もして実際の台詞も書いてみる。出来上がったらまた打ち合わせだ」
「分かった。気張りや」
 そう言った後、湯川は、また、さっさと教室を出て行った。そんな湯川の背中を見ていたら、最初は嫌で仕方がなかった共同作業もそれほど悪いものではないような気がしてきた。

5月26日(月)

 週明けの月曜日の放課後、湯川の書きかけの脚本を読んだ。パソコンで書かれたもので、手書きでなかったのが少し残念だったが、考えてみれば当たり前の話だった。
 脚本は最初と最後の内容は無く、座敷童の女の子がクラスメートと過ごす様子のみが語られていた。つまり起承転結で言えば承の部分に限られていた。台詞はとても生き生きとしていて、プロが書いたものと比べても遜色がないように感じられた。私たちの学校に実在する先生たちをモデルにしたコミカルな場面で笑いを取る工夫もされていて湯川の才能を感じさせた。私は素直な気持ちを伝えることにした。
「すごくいいね。良く書けていてびっくりしちゃった」
「そうか。初めて素直に認めたな。う~ん、でも怪しいな。本当は何かケチをつけたいんじゃないか?」
「ううん、ケチ何てつけるつもりはないよ。でも、私の希望を言ってもいいかな?」
「そらきた」
 湯川は、私が何を言い出すのかと身構えたように見えた。ここは勇気を出して言わなければと意気込んだせいで地が出てしまった。
「あのな、今更なんやけど、主人公は普通の女の子の方じゃなくて、座敷童の方にしてみたらどうやろうと思ったんや。遠からず友達とお別れしなければならない座敷童の視点から描いた方が切なさが出てくるんやないかと思おてな。それに、そうすれば『タイムトリップガール』とは違った作品だって胸を張って言えるんやないか?」
 あるいは湯川は怒り出すかもしれないと思ったが違った。
「ああ、それは名案だな。そうしよう、今の段階なら設定の変更も大したことじゃないからな」
 湯川が素直に私の意見に同調したのは驚きだった。
「ありがとう。言ってみて良かったわ」
 私も、素直に礼を言った。
「じゃあ、作業が進んだら、また声を掛けるから」
 嬉々として答えた湯川に、私は聞いてみたくなった。敬遠していた湯川に少し興味を持ってしまったのが恥ずかしくなって、また方言が顔を出してしまった。
「なあ、湯川君はこんなに文才があるんやから、将来は作家と目指してはるの?卒業後の進路もそういう方向なんやろか?」
「そうだな。大学は早大の文学部って決めてるよ。まあ、浪人も覚悟の上だ。そこで二年からは文芸専修っていうコースに入って創作の勉強をするつもりだ。君はどうするつもり?」
「私は指定校推薦で行ける大学の法学部か経済学部に進学かな」
「へえ、そうなんだ。本が好きだから、てっきり文学部にでも行くのかと思ってた」
 湯川の声にはどことなく失望が滲んでいた。『つまらない選択だな』と言い出しそうな気がしたが、そうは言わなかった。代わりに湯川は席から立ち上がった。
「じゃあ、またな」
 それだけ言うと、湯川は、またさっさと教室から出て行ってしまった。

5月29日(木)

 木曜日、次の打ち合わせが行われた。湯川の脚本には座敷童の女の子がやって来る冒頭の部分や、学校での日常のエピソードが追加されていた。視点が座敷童のものに変わったことによる修正もきちんとできていて、座敷童がクラスメートに対して抱く様々な感情が描かれていた。自分の正体を明かすことができない辛さ、別れなければならない悲しさ、そして忘れられる切なさなどだ。がさつな人間にしか見えない湯川のどこにこんな繊細さが隠れているのだろうかと思った。私は湯川の才能に改めて驚かされた。
 しかし、湯川の脚本があまりに良くできているので、私は更に欲張りな注文をしたくなってしまった。さすがに今度は怒るかもしれないが、それでも私は覚悟して言ってみようと思った。どう切り出したものかと慌てていたら、また方言で話し始めてしまった。
「ねえ、湯川君。うちはこの脚本、前よりもずっと良くなっとると思うんや。そやけど、もうちょっと設定を変えたら、もっと良うなるんやないかな」
「どうしろって言うんだ」
 湯川の声には少々怒気が籠っているような気がした。それでも私は自分の考えをしっかりと伝えようと思った。
「あのな、この話、友情ものやなくて、恋愛ものにしてみたらどうかと思うんや。その方が、もっと座敷童の切なさが増すように思わへんか?」
「大幅に書き直しが必要なのを承知で言っているんだな」
 湯川が一度言葉を切ったので、後に続くのは怒りの爆発だと私は覚悟した。
「君がそこまで分かったうえで言うのなら、その方が良いんだろうな。面倒だけどそうしてやるよ」
「おおきに」
 ホッとしたのと嬉しかったのが一緒になって、もっと伝えたかった感謝は言葉にならなかった。
「ただなあ」
 珍しく湯川が自信なさげなものの言い様をした。
「俺は、女の子と付き合ったことがねえから、その辺のことには疎いんだ。君には今もボーイフレンドがいそうだし、奇麗だから恋愛経験も豊富なんだろう。だから、色々とアドバイスを頼むぜ」
 「奇麗」と言われて少し乙女心が動いた。だが、湯川の想像はおよそ的外れだった。本当のことは黙っていたかったが、脚本制作にも関わることなので言わなければならなかった。
「うちにはボーイフレンドなどおらへんよ」
「へえ、意外だな」
 私の言葉にひどく驚いた様子で湯川はその後を続けた。
「君に振られた奴を何人か知ってるから、てっきり中学の頃から付き合っている奴がいるもんだと思ってたぜ。でも、いたことはあるんだろう。どんな風なつきあいだったのか、どんなことを考えてたのか聞かせてくれよ。脚本を書くための参考にしたいからさ」
 ボーイフレンドがいたことがあるだろうと言う湯川の推測は間違いではなかった。確かに一人だけいた。しかし、彼との関係は脚本の参考になどならない悲惨なものだった。当然、湯川には話したくない内容だったが、自分もろくな恋愛経験がないことを湯川に分かってもらうためには言わざるを得なかった。
「あのな、うち、小学校卒業と同時に東京に引っ越してきたんや。それで中学に入るのを機会に、これからは標準語で話そうって、おしとやかな優等生になろうって決めたんや。結構うまくいってたんやで。それで、中学二年生の五月にクラスメートの男子に告白されて付き合い始めたんや。そうしたら、その彼、付き合い始めて一月もしないうちにうちにキスしようとしたんや。うち、驚いて、反射的に彼に平手打ちをくらわしてしもうたんや。『アホウ、そないなことするのは、まだ早すぎるやろう』って言うてな。そうしたら彼にドン引きされて、あっさりお別れになったんや」
「なるほど、随分とやらかしたもんだな」
 言いたくないことを言ってしまってほっとしたせいか、話の続きには標準語が戻ってきた。
「そうね。その後、彼がそのことを言いふらしたもんだから、私の正体がバレちゃったの。幸い、中学三年になると同時に都内で引っ越しをしたもんだから、私は仕切り直しができて、今に至ってるって訳。まあ、湯川君にはバレちゃったけどね」
「そうか、しかし、君の元カレは随分とひどい奴だな」
「そうだね。でも、私の正体に幻滅した上に平手打ちもくらってるから、そうしたくなるのも分からないでもないけどね」
「それって幻滅することなのか?俺には、標準語で話しておしとやかな優等生を演じている君よりも、方言で自分の思いをきちんと伝えてくる君の方が魅力的に見えるけどな」
 想像だにしなかった言葉が湯川の口から飛び出したので、私は激しく動揺した。そして、それはそのまま次の言葉に顔を見せた。
「そう、そやから、うちは恋愛には疎いんや。そやから、うちは恋愛に関しては、ようアドバイスせえへんのや」
「そうか、分かった。したくない話をさせて悪かったな」
 そんな優しい言葉が湯川の口から出てきたものだから、その驚きは私の動揺に拍車を掛けた。
「湯川君、役に立てなくて御免な」
「どうして君が謝るんだよ。謝る必要なんてないじゃねか」
 悪い意味ではなく、一体どの口が言っているのだろうかと思った。湯川のどこにそんな優しさが潜んでいたんだろうか、見当もつかなかった。
「じゃあ、今日はここまでにしようか」
 湯川は立ち上がると、またさっさと出て行ってしまった。

6月2日(月)

 週が明けて、私たちは、また打ち合わせをした。友情ものから恋愛ものに変わった湯川の脚本は驚くほど良くなっていた。
 脚本は、人間よりも遥かに長く生きてきた座敷童の女の子が、初めて人間の男の子に恋をするという設定になっていた。
 しかし、座敷童は、自分の正体を隠し彼の前でも人間として振舞わなければならない。ずっと彼一緒にいることもできないから自分の気持ちも伝えられない。更に遠からず別れの日がやって来て、座敷童は彼に忘れられてしまう。そんな切なさが丁寧に表現されていて、私は脚本担当という立場を忘れて思わず物語に引き込まれた。恋愛に疎い男子の湯川に、どうして、こんなにも切ない女の子の気持ちが表現できるのだろうと、ただただ感心してしまった。そんな思いはそのまま読後の感想としてこぼれた。
「湯川君、凄いわ。本当は女の子とちゃうんか?」
「そうか、良かった」
 湯川は嬉しそうに笑った。私は、まだ書かれていない作中の二人の結末が気になって尋ねた。
「それで、この二人はどないして別れるんや?」
「結末は君が最初に言っていたじゃないか。座敷童はいつの間にかいなくなってて、クラスメートは皆、座敷童のことは忘れてしまって、元からいなかったということになるんだろう」
 私は、それでは物足りないようながした。
「なあ、お別れはもっと切なくてロマンチックにできないやろか。それと、もっと差し迫った緊迫感があった方がええんとちゃうか?そやな、巨大ヒーローの胸のタイマーが点滅して危機に陥ってるみたいな、そないな緊張感が出せんやろか」
「なんか君、めちゃくちゃことを言うな」
 さすがの湯川もすぐには快諾せず頭を?いた。それでも私は引き下がらなかった。
「そやけどな、せっかく座敷童の切ない思いを上手く描いてきたんやさかい、結末が『知らないうちにいなくなってた』じゃ盛り上がらんと思わへんか?」
 湯川は更に頭を掻いてから不機嫌そうに口を開いた。
「しょうがねえな。君がそう言うなら考えてみるよ」
 湯川の言葉がやけに嬉しかった。同時に湯川に対して申し訳ないという思いが湧いてきた。私はそれを素直に伝えた。
「ごめんな。湯川君にお願いばかりして。脚本担当言うても、うちは一文字も書いてへんのにな」
「いいんじゃないか、それでも」
 湯川が今までで一番優しい顔をした。
「実際に書くだけが脚本担当の仕事でもないだろう。君は、編集というか、プロデュース、あるいは原案という仕事をきちんとこなしていると思うよ。ほら、漫画の場合だって、ストーリーを描く人と絵を描く人の二人一組で一人の漫画家っていうケースもあるじゃないか。俺たちは結構良いコンビだと思うけどな」
 コンビという言葉を聞いて顔が火照った。気づかれまいと顔を背けた。
「ごめん、うち、今日は用があるんや。悪いけどお先に失礼するわ」
 そう言って席を立つと、私はあたふたと教室を出た。逃げるしかなかった。

 6月4日(水)

 湯川が欠席した。湯川の欠席は珍しいことではなかったが、脚本担当に立候補してからは毎日学校に来ていたので少し気になった。

6月5日(木)

 朝、登校すると湯川は学校には来ていなかった。遅刻や欠席は珍しいことではなかったのに妙に心が騒いだ。
 昼休みに、私のスマホに湯川からのメールが届いた。「放課後に打ち合わせをしよう」という内容に私は一安心した。メールにはほぼ完成した脚本のファイルが添付されていた。脚本に目を通した私は泣きそうになった。それほどに素晴らしい内容になっていた。
 別れには緊迫感が欲しいという私の要望に応えるために、座敷童には細かい設定が加えられていた。新たな設定では座敷童は、短期間で各地を転々として、長い間孤独な旅を続けてきたことになっていた。座敷童は新しい土地に移る度に、その土地の神に滞在の許可をもらわなければならないが、許される滞在期間は二年か三年。その土地を出た瞬間に座敷童は共に過ごした人々に忘れられ、その土地には元からいなかったことになる。更には、神に許された滞在期間内に新しい土地に移らなければ消滅してしまうという運命まで背負わされていた。
 少し複雑になった座敷童の設定を観客に分かり易く伝えながら話を進めるために、役者に加えてナレーターの役が新たに作られていた。語り部が昔話を語るようなナレーションは、座敷童の物語をより味わい深いものにしていた。前回の打ち合わせの後に書かれた終盤の展開は秀逸だった。
 
 座敷童は陽が沈むまでに町外れの橋を渡り、別の土地に行かなければ消えてしまうというのに日没が迫った教室に留まっている。片思いの男の子に最後に一目会いたかったからだ。もちろん、自分の気持ちを伝えるつもりなどない。
 座敷童は昇降口で男の子を待ち伏せする。校門の所まで一緒に歩き、いつも通りを装って別れを言おとする。ところが想定外のことが起こる。座敷童は男の子に思いを告白されるのだ。しかし、ようやく実った恋の余命は十五分しかない。
 座敷童は、男の子に『何も言わずに自分の言うことを聞いて欲しい』と伝えた上で自分の正体を明かす。さらに座敷童は『町外れの橋まで自分を見送って欲しい』と男の子に頼む。橋にたどり着くまで、一方的に男の子に語り掛ける座敷童の台詞がただただ切ない。
 
 橋にたどり着いたところで脚本は終わっていて、ラストはまだ描かれてはいなかった。私は、脚本を読んだ感動を早く湯川に伝えたくて仕方がなかった。しかし、湯川は結局、六時間目の授業にも顔を出さなかった。本当に湯川は打ち合わせに来るつもりなのだろうかと少し不安になった。
 放課後、教室に誰もいなくなったのを見計らったように湯川は現れた。私たちはいつものように向き合って座ったが、湯川は少し顔色が悪いような気がした。
 心配になって尋ねる前に湯川に話し掛けられた。
「君の方でもバックアップを取っておいて欲しくてファイルを送ったんだけど、届いたかな?」
「ああ、届いたで。えらいええ話になっとったやない。うち、泣きそうになったわ」
「良かった。どうやら責任が果たせそうだな」
「責任って何?」
「脚本執筆に立候補した責任だよ」
 責任などという言葉が湯川の口から出たのが何だかおかしかった。そう思いながら私は湯川に言葉を返した。
「でも、まだ脚本は完成してないやん。全部書き終わらんと責任を果たしたって言えないんとちゃうか?」
「いや、俺は、もうちょっと疲れたから最後は君が書いてくれないかな?」
「何言うてんねん。せっかく湯川君がここまで良い話を書いたんやから、最後までしっかり書かなあかんやろう。うち、湯川君がこの話をどないにまとめるか、とても興味があるんや。もう、うちは何も言わずに湯川君が書いた結末を一読者あるいは一観客として見届けたいんや。そやから、最後までしっかり書いていな」
「そうか、君がそこまで言うなら、もうちょっと頑張ってみることにするよ」
 湯川が辛そうにそう答えたのが気になったが、そのことは口に出してはいけないような気がした。代わりに私は明るい方に話題を振ろうと思った。
「なあ、湯川君、うち、やっぱり大学は文学部に行こうと思うねん」
「おや、どういう風の吹きまわしだ?」
 理由を口にするのは恥ずかしかったが言うことにした。
「うちなあ、湯川君と一緒に脚本作ってたら、ああ、こういうのって、えらいおもろいなと思うたんや。できたら今度はアイデアを出すだけでなく、実際に自分でも文章を書いてみたいと思うてな」
「ようやく、優等生を演じるのを止めて、自分らしく生きたいと思えるようになったわけだな」
「なんや、その上から目線。腹立つわ」
「済まない、言い方が悪かった。上手くいくといいな。君の書く物語を俺も読んでみたかったぜ」
 言ってくれたことは嬉しかったが、湯川のものの言い様が少し気にかかった。
「当然読んでもらうわ。今度は湯川君に色々と意見を言うてもらわな」
 告白をしたみたいで少し照れ臭くなった。
「そうだな。次は今回とは逆の形で、君と二人で物語を作ってみたかったな」
 かっと胸が熱くなったが、それは急速に冷めていった。未来に対して妙に悲観的な湯川の言葉が気になって仕方がなかったからだ。
「なあ、湯川君、なして・・・」
 言いかけた私の言葉を遮るように湯川は立ち上がった。
「ごめん、俺、今日はもう行かなくちゃならないんだ。じゃあな」
 言うなり湯川は教室から走り去ってしまった。

 6月6日(金)

 午前中、湯川は姿を現さなかった。
 そして昼休みに入ると、私は放送で職員室に呼び出された。職員室に入ると、私は隅にある談話コーナーに連れて行かれた。私が腰を降ろすと先生はすぐに本題に入った。
「水沢さん、劇の脚本の進み具合はどうなっているかな?」
「はい。まだ結末の部分が書きあがっていませんが、ほとんど完成しています。文書データも湯川君からもらっています」
「それは良かった」
 言葉と裏腹に先生の反応は冴えなかった。
「水沢、悪いけど残りは君が完成させてくれないかな?そろそろ脚本を印刷してクラスで配りたいんだ」
「でも、先生、結末は湯川君が考えてくれることになってるんです。約束してくれましたから」
 それを聞いて、先生は苦虫を?みつぶしたような顔で話し始めた。
「湯川はその約束を守れないかもしれないんだ。だから君が結末を考えて脚本を完成させてくれないかな?」
 どうも歯切れの悪い先生の言葉に私は不快感を覚えた。そうしなければならない理由を聞かせてもらわなければ納得できなかった。いや、聞いたところで結末を描くのは湯川でなければならないという気持ちが変わることはないと思った。
 優等生ぶっていた私は、それまで先生の言うことに逆らうような真似をしたことがなかった。しかし、今度ばかりはそうはいかないと思った。だから、言った。
「先生、納得がいきません。結末は湯川君が決めるべきです」
 きっぱりと言い切った私を見て、先生はとても困った顔をした。
「仕方がないな。水沢には脚本を仕上げてもらわなければならないから、事情を話すことにしよう。ただし、このことは他の生徒には知らせないでくれ。それが、湯川の親御さんの希望なんでね。実は湯川は交通事故にあって入院中なんだ。体の方には大したけがはなかったんだが、頭を強く打って意識不明の状態なんだ」
「嘘、・・・」
 言いかけた言葉を私は飲み込んだ。『だって、私、昨日の放課後、湯川君に会いました』とは言えなかった。
 
 5・6時間目の授業はまるで手につかなかった。疑問が頭の中でいつまでも渦を巻いていた。
 先生が嘘を言うはずはないので、湯川が意識不明で入院中ということは間違いがなかった。しかし、私は、昨日、湯川に会って話もしていた。しかし、思い返してみれば、湯川の言葉にはおかしな点がいくつかあった。
 やがて私は一つの結論にたどり着いた。それは、昨日の放課後に私が会ったのは、湯川の生霊だったということだった。脚本担当に名乗りを上げた湯川は自分の責任を果たすべく文書ファイルを送り、脚本の結末を託すために、私に会いにきたのではないかと思った。湯川が将来についてやけに悲観的だったのは、自分の命はもう長くないと思っていた、あるいは知っていたからかもしれなかった。

 放課後、私は一人教室に残り湯川を待った。しかし、湯川は姿を現さなかった。

 6月9日(月)

 週が明けても、湯川は学校に来なかった。
 それでも私は放課後の教室に残った。いつものように久美子と湯川の席を向かい合わせにして湯川が来るのを待った。
 しばらくすると、メールの着信音がした。メールは湯川からのものだった。『読んでおいてくれ』という内容で、脚本のデータが添付されていた。脚本には物語の結末が書き足されていた。

 座敷童と男の子が、町外れの橋にたどり着くと、太陽はもう沈みかけている。太陽が沈む前に橋を渡り、別の土地に行かなければ座敷童は消滅する。橋を渡れば座敷童は男の子の記憶からも消え、元からいなかったことになる。
 座敷童は最後の思い出にと、男の子に「キスをして」と頼む。男の子に抱きしめられ、キスをされた座敷童は心変わりを起こす。孤独な旅を続けることを止め、幸せに包まれたまま消滅する道を選ぶ。
 陽が沈み、座敷童が消えてしまうと、男の子は座敷童のことを忘れてしまい、心の中には誰か大切な人を失くしたような切なさだけが残る。
 
 読み終えた途端に、涙が溢れてきた。切なくて仕方がなかった。スマホから顔を上げると、目の前に湯川が座っていた。
 私が目の前で泣いているというのに、湯川はえらくぶっきら棒な言葉を投げかけてきた。
「最後まできちんと書いたぞ。これで文句はないだろう」
 湯川の言い分は到底受け入れることができず、私は涙ながらに訴えた。
「あるわ。うちはこんな結末は嫌や」
「何言ってるんだよ。泣けるくらい上手く書けていたんだろう」
「そうや。だから嫌なんや。せっかく二人の気持ちが通いおうたのに、直後に死に別れなんて悲し過ぎるやろう」
「だったら、どうしろって言うんだよ」
「書き直してや。二人を幸せにしてや。ハッピーエンドにしてや」
「馬鹿じゃねえか。この話を今さらハッピーエンドにできる訳がないだろう」
 湯川は心底あきれ返った。それでも私は訴えずにはいられなかった。
「嫌や。嫌や。こんな結末は嫌や」
 私は駄々っ子のように泣き叫んだ。それは、私が演じてきたおしとやかな優等生という役柄とはおよそかけ離れたありさまだった。
 そんな私に呆れながら湯川は言い放った。
「いい加減にしろよ。俺はもう疲れたから帰らしてもらうぜ。責任はきちんと果たしたからな」
 その冷ややかなものの言い様に打ちのめされて、私は机に突っ伏した。そして、言ってしまった。
「嘘や。あんたは無責任や。うちをこないにした責任ちゃんととつてや」
 言ってしまったことをなかったことにすることはできず、私はすぐに顔を上げることができなかった。ようやく顔を上げた時、湯川はもうそこにはいなかった。

 6月12日(木)

 湯川の欠席は続いていた。
 あんなに強く書き直しを拒否されたというのに、私は未練がましく放課後の教室で湯川を待ち続けていた。
 諦めて帰ろうかと思った時、メールが届いた音がした。添付された脚本は座敷童が男の子の腕の中で消滅する道を選んだところから書き変えられていた。

 男の子は自分に抱き着いている座敷童を引きはがすと、手を取って駆け出す。そして、陽が沈む直前に二人で橋を渡りきる。すでに座敷童の記憶もなく、姿も見えないはずなのに、男の子は座敷童に語り掛ける。「黙って言うことを聞いて欲しい」と言われたので言えなかったと前置きをして男の子は驚くべき告白をする。実は男の子も座敷童だったということ、座敷童同士は相手が人間にしか見えないということが判明する。そして、二人は手を取り合って、新たに足を踏み入れた土地の神様の所へと共に歩き始める。座敷童の女の子は、これからも旅が続くとしても、自分はもう孤独ではないのだと知る。

 涙は出なかったが、私は感動していた。それまでの切ない展開を損なうことなく、どんでん返しでハッピーエンドに持ち込んだラストは余りにも見事だった。劇中の二人が幸せになったのがひどく嬉しかった。スマホから顔を上げたら、目の前に湯川がいた。
「もう何を言われても絶対に書き変えないからな」
 数日前とは打って変わって湯川の話し方は優しかった。
「二人を幸せにしてくれたんやね。うち、ほんまに嬉しいわ」
 物語の二人は幸せになった。しかし、自分たちは・・・そう思ったら悲しくなった。しかし、そのことは口にしてはいけないと思った。代わりに私はもう一つ別の感想をつたえることにした。
「うち、色々な物語を読んできたけれど、こないに登場人物に感情移入したのは初めてやわ」
「まあ、不思議はないな。君は意識してなかったんだろうと思うけど、たぶん君は自分の思いを投影する形で物語の構想を俺に語っていたのさ。そして、俺は君をイメージして座敷童の人物設定をして物語を書いた。だから座敷童が自分の分身みたいに見えたんじゃないか」
 湯川にそう言われて、私は共同で脚本を書くことになってからのことを振り返った。共に脚本を作り上げる過程で、私はいつの間にか、湯川と話す時は何も気にせずに方言を使うようになっていた。湯川には遠慮せずに自分の言いたいことを言えていた。そうだ、湯川の前では、私は素の自分自身になれたのだ。自分の正体を隠して生きてきた座敷童が、ようやく自分自身のままで接することができる相手に出会ったように、私も湯川に出会ったのだ。
 しかし、私たち自身の物語は、書き変え前のラストの方に進もうとしているような気がした。
「さて、俺は疲れたから帰るぜ」
 そう言った湯川の口調には本当に疲労が滲んでいた。私は何も言えないでいると、湯川が妙にしおらしい口ぶりで話し始めた。
「なあ、水沢、俺、君のお願いを随分たくさん聞いてやったよな」
「そうやね。感謝しとるわ」
「だから、最後に俺のお願いも聞いてくれないかな?」
 『最後に』に言った湯川の言葉が棘になって胸に刺さった。湯川は自分の死期が近いことを悟っているのではないかと私は思った。あるいは、湯川は脚本を書き終えて責任を果たしたと感じて、すでに魂が肉体を離れてしまったのではないかと不安になった。しかし、私はどうにか平静を保ち湯川の問いかけに答えた。
「ええよ。うちにできることやったら」
「そうか。じゃあ座敷童みたいに『キスして』つて言ってくれないかな?」
 その言葉を聞いて私の心に生じた感情は、もはやどんな言葉を使っても表現できなかった。そして、その混乱はすぐに支離滅裂な言動となって具現化した。
「アホウ、うちにキスして欲しかったら目ぇ覚ましいや」
 言いながら私は、湯川に平手打ちをくらわしていた。教室にその音が響いた途端、湯川は消えてしまった。最悪の別れ方だった。悔やんでみても、どうしようもなく、誰もいない教室で私はいつまでも泣きづづけた。

 6月13日(金)
 
 学校へ行く気になれず無断欠席をした。二つの中学をまたいで続いていた皆勤が途絶えた。
 昼過ぎ、学校の授業で使っているタブレットPCに先生からメッセージが届いていた。先生が私のことを心配してくれたのだ。私は「月曜日には登校する」という趣旨の返信に、完成した脚本のデータを添付して送った。

6月16日(月)

 朝、登校すると、湯川の席の辺りに人だかりができていた。
 まさかと思って近づいてみると、湯川がそこにいた。一瞬、激しい衝動に駆られたがなんとか抑えた。私は、他のクラスメートに自分が湯川と親しくなっていたことを知られたくなかったし、激情に駆られて方言を口にして自分の正体を晒したくはなかった。
 なぜか湯川はきちんとした服装をしていた。床屋にも行ったばかりのようで、清潔感が溢れていた。入学式以来、久しぶりに見たイケメン男子の湯川の姿に女らしく心が揺れた。
 湯川は私に気づくと明るく声を掛けてきた。
「おお、水沢、俺、交通事故にあって意識不明になってたんだけど、先週の金曜日に意識が戻ってさ。土曜日に退院したんだ。さっき親と一緒に先生の所に挨拶に行って聞いたんだけど、君、書きかけだった脚本を完成させてくれたんだってな。先生が凄い作品に仕上がってるって絶賛してたぜ。君がどんな結末を書いたのか読むのが楽しみだな」
 湯川には生霊の時の記憶は無いようだった。とぼけて知らない振りをしているようには見えなかった。それと湯川がきちんとしたなりをしていた訳が分かった。
「ああ、俺、君にもう一つお礼を言わなきゃ。俺さ、夢の中で君に平手打ちをくらって目を覚ましたんだよ」
 それを聞いて、私は一瞬めまいがしそうになった。すると、湯川と仲の良い田村がちゃちゃを入れた。
「何だよ、それ。優等生の水沢さんが平手打ちなんて、夢にしてもギャップがあり過ぎだろう」
 すると湯川は、田村を無視して能天気な顔で私に尋ねた。
「ねえ、俺の夢の中で、君は平手打ちをくらわしながら俺に何か言ってたけど、俺、覚えていないんだ。君、何を言ってたんだよ?」
 次の瞬間、私の手と口は同時に動いていた。
「アホウ、うちがそないなこと知る訳ないやろう」
 辺りに響いた平手打ちの音は、私の仮面が完全に剥がれて落ちた音でもあった。

                             終

あとがき

 最後までお付き合い頂きありがとうございます。劇中劇のように使われていた物語は「座敷わらしの初恋-余命1分の幸せ―」という拙作の短編小説を元にしています。そちらにも目を通して頂けると幸いです。