「ごめんね、お待たせ。行こっか」私がカフェの化粧室から戻ったら、彼は頬杖をつきながら微笑ましそうに少し離れたテラス席に座る男女を眺めていた。
「どうしたの? 何か面白いことでもあった?」あまりに穏やかな表情をしているのでそう問うと、薄く微笑みながら「マッチングアプリで出会って今日初めて会うみたい。さっき通りかかった時にちょっと聞こえちゃった」とまるでいたずらが見つかった子供みたいに笑みをこぼす。
「そうなんだ。懐かしくなったり?」
「何が?」彼には恐らく私が言いたいことを分かっているはずなのにわざと聞き返してくる節がある。
「はいはい。懐かしくなったんだね、私達が初めて会った日を思い出して」私だって彼が何を考えているのか大体は分かるのでそう返答すると嬉しそうに、にこりと効果音がつきそうに笑う。私が好きになった彼はよく笑う人だ。ただへらへらする訳ではなく幸せそうに、そしてこの世が小さな幸福で溢れていることを再認識し、または相手に気付かせてその事実を確認させるような笑顔だと思う。
 彼とマッチングアプリで出会えて結婚まで出来たことは私の人生で最大の幸運で奇跡だ。彼がそうしているであるように、私も彼との出会いについて自然と思い返していた。


 * * *


「結婚する?」大学を卒業後、社会人になって数年経っても定期的に会っている友人の菜絵と休日ランチをしている最中、菜絵は恥ずかしそうにそう切り出した。
「うん彼氏からプロポーズ、された。婚約指輪は一緒に選びに行こうって言ってくれててまだ手元にないんだけど」頬をほんのりと紅潮させて、事の顛末を教えてくれる友人はお世辞抜きにキラキラ輝いて見えて綺麗だ。
「おめでとう」するっとお祝いの言葉が出てきてほっとした。友人相手に嫉妬するのは良くないことだと自然と自分を律して判断出来たのを我ながらに褒めたい。
「ありがとう。結婚式に泉も呼びたいから、また招待状送らせて」
「もちろんだよ。楽しみにしてる。菜絵はふわっとしたウェディングドレス、似合いそうだね」その私の言葉に菜絵は自分のドレス姿を想像したのか、更に顔を赤くしている。
 羨ましい。咄嗟に浮かんだその言葉を否定出来る程、私には余裕がなかった。昔から結婚願望は強かったように思える。綺麗なドレスを着てステンドグラスのある教会で結婚式を挙げ、平凡でも幸せな家庭を作る。子供は二人は欲しい。それが現実的にどんなに難しいことか、二十八歳にもなればちゃんと理解出来ている。伊達に第二次結婚ラッシュを経験していないのだ。
 受験も就職活動も、自分が努力をすればするだけ目に見える結果として返ってきた。勉強を頑張れば志望した高校や大学に合格出来たし、自己分析や業界研究に励めば希望した先へ就職することが出来た。一人で頑張ることが私は割と得意なのかもしれない。だけど、恋愛は一人では出来ない。ましてや結婚なんて夢のまた夢だ。相手がいて成立するものなのだから。私は過去に一人としか恋愛をしたことがなくて、それがコンプレックスだった。しかもそれは高校生の頃で短期間の話だから余計に。共学の高校と大学で出会いはあったはずだったし、見た目や体型にも気を遣っているつもりだ。だけど、何故か女子どうしではうまく会話が弾むのに男子、男性相手だと途端に何を話したら良いのか分からなくなってしまう傾向にあった。恋愛経験が豊富な菜絵を始め、友人達には「私達に話すように喋り始めたら良いんだよ」とけしかけられたりしたが、一向に改善されない。今だって同期の男の子相手にだって会話の糸口を見つけられずにいる。そうこうしているうちにどんどんと彼氏いない歴を更新し続けているという負のループから抜け出せないのだ。


 * * *


 菜絵から幸せな報告を受けた夜、家に帰ってから私は「恋愛 難しい」とか「恋愛 始めるには」といった単語を検索エンジンにかけていた。そしてヒットしたサイトを片っ端から眺めているのだが、最近ではマッチングアプリで出会って結婚するカップルが多い、という情報が沢山見受けられた。アプリ婚なんて言葉もあるらしい。
「マッチングアプリかぁ」ベッドにごろんと横になって考えてみるけれど、少し怖じ気づく気持ちが強い。
「うーん」枕に顔を押し付けてうなりながら、私は自分の好きな男性のタイプを掘り起こしてみることにした。見た目は清潔感のある人で、性格は穏やかな人。あまりに気性が荒かったりする人は苦手。浮気や派手なギャンブルとかももちろん嫌だ。意外と自分が思っているより私の理想は高いんじゃなかってことに気付いて落ち込んでいると、ふと気付いた。
 俗に言われている草食系男子が良いんだよなぁ。
 けど、草食系は出会いを求めてマッチングアプリ始めたりしないか、と一人で押し問答を続けながら「草食系 出会い」や「大人しい人 マッチングアプリ」といった単語を検索していく。
 すると、面白いサイトを見つけて思わずタップしてしまう。
 
 
 「人見知りの方限定マッチングアプリ」

 
 何それ?
 情報をよく読み込んでいくと、そのアプリはSNSとマッチングアプリを混ぜ合わせたようなもので、さっき見かけた独身証明書が必要だったり細かな嗜好や希望を入力して登録するものとは違うみたいだ。「これなら始められるかな?」自然とそう思えた。緩く始めてみて合わなかったら簡単に退会出来るみたいだし。登録ボタンを押す時、何故だか不思議と体全体に力が入ったけれど、えいっと勇気を出して私は人見知り限定マッチングアプリに登録してみた。ハンドルネームは何となく本名のまま「泉」。女性で登録したので女の子がアイコンになっている。SNSのようで色んな人が投稿していて、それに反応したり、気になった投稿をした人のアイコンをタップすればその人と個別でやり取りが出来る仕組みになっているようだ。思っていたより簡単に交流が出来そうな雰囲気にほっと胸をなで下ろし、投稿を眺めていく。人見知りを自称する人が集まるだけあって、アプリ全体的に和やかな会話が行われているようだ。スクロールを続けていくと、モーセの十戒として有名な海を割り陸を作る画像を貼り付けてその下に「水割り」と書いて投稿している男の子のアイコン、つまり男性を見つけた。水割り? 遅れてくすくすと笑いが込み上げてきて、この意味不明なくだらなさが何だかツボでどんな人が投稿したのか気になった。投稿主は「人参」。え、人参? なんで? 当然ハンドルネームだろうけど、人参が特別大好きなのかな。色々な疑問と興味が人参さんに湧いてきて、「この人と話してみたら楽しいかもしれない」と思い、私は導かれるように人参さんにメッセージを送っていた。
 『こんにちは、水割り面白いですね』素っ気ないメッセージだったかな? と送信してから少し後悔したけれど、一分も待たないうちにスマホが震えた。人参さんからの返信だった。
 『こんにちは。ありがとうございます! そう言って頂けて嬉しいです。初めて面白いって言ってもらえました』疑問文で返ってこなかったことで返事をどうしようか少し迷ったけれど、人参さんも人見知りだから仕方ないと思えた。疑問文で返ってこない時は私が質問を送る形にしようと自分なりに決めた。


 * * *

 
 決めたことを実践していたら、意外と会話が続いて人参さんのことを色々知ることが出来た。年齢は私の二歳上で三十歳。エンジニアのお仕事をしている。中高と男子校に通い、大学も理系の学部で女の子と接する機会はほとんどなかったそうだ。そして人参は、食べるのはそこまでだけれど育てることが好きらしい。人参を育てている、と最初に聞いた時は農業でもされているのかと思ったけれど、違った。家庭菜園で楽しんでいるようだ。人参さんが少し変わっているのは間違いないだろうけれどそこがまたツボだし、私も人参さんも割とマメな性格だからかお互い苦痛にならない程度でだけれど結構な頻度でメッセージをやり取りするようになっていた。朝起きておはよう、今日も仕事頑張ろう。お昼休みに、午後からもう一踏ん張りだね。仕事が終わって家に帰ったらお疲れ様。毎日似たようなやり取りだけど、何気ない日常を共有出来る穏やかさが人参さんの文面からはにじみ出ていた。
 『こんばんは、泉さんがオススメして下さった本僕も買ってみました。読むの楽しみです』
 『お! ネタバレしましょうか?』
 『絶対やめて下さい! 楽しみだって言ってるでしょう?』
 こういった軽口や冗談もやり取りの中だと出来るようになっていた。文字だけで人を好きになれるものかなって疑問はあるけれど、私が人参さんに好感を持っているのは間違いないと思う。


 * * *

 『泉さん、僕と直接会うのが嫌じゃなかったら、お互い好きな本を持ち寄ってピクニックしませんか?』
 そんな控えめな文面が人参さんから届いたのはゴールデンウィーク目前の四月末のことだった。ピクニック? とは思ったけれど、人参さんも私もあまりお酒が得意ではないことを今までのやり取りでお互い知っていたし、かしこまったディナーも初対面だと緊張するだろう。それらを踏まえて、ひねり出してのピクニックという提案が人参さんらしい、面白くて可愛くてちょっと変わっている。けど、素直に嬉しいと思った。人参さんにやっと会えることも、色々考えて私を誘ってくれたことも。
 『もちろん嫌じゃないですよ。楽しみです』そう返事した私は緊張しながらも気分がとても高揚していた。
 そして人参さんと初めて会う日。私は簡単なお弁当が入ったトートバッグを持って大きな公園のある駅に着いて待っていた。レジャーシートは人参さんが持って来てくれるらしい。地べたに座ってもいいようにジーンズに春らしい明るい色のトップスを合わせ、メイクはナチュラルだけれど普段より丁寧にしたし、軽く髪も巻いてみた。けど、どうだろう。気合い入れすぎたかな。もう一回だけ手鏡でチェックしようかな、そわそわ緊張しながら手荷物をごそごそとしていると、「泉さんですか?」という低い男性の声がした。
「はいっ」そう言って顔を上げた私が見たのは――。

 
 


「え、お隣、の……?」
 すらっと背が高くてちょっと猫背。メタルフレームの丸眼鏡。そして天パなのか髪は割ともしゃもしゃしている。どこにでも溢れていそうな見た目で、個性的な特徴はないけれど、私は目の前の人に見覚えがある。それは朝家を出た瞬間だったり、帰りのエレベーターの中だったり、あるいはゴミの日のゴミ捨て場だったり。何より一人暮らしを始めた時にお隣さんに挨拶に行ったからこの人を私は知っている。確か名前は――。
「すみません。こんにちは、とかこんばんはじゃなくてちゃんと会話するのはお引っ越しされてきた時に挨拶して下さって以来ですね。隣人の山田です」人参さん、もとい山田さんは気まずそうに頬を掻いている。
「え? なんで? え?」完全に私はパニック状態に陥っていた。
「順を追ってちゃんと説明するので公園に向かいましょうか。あ、荷物持ちますね」そう言って私が持つトートバッグを横からさらうようにして持ってくれる。結構な重量になってしまったのでずっと持っていると手が痛かったのだが、途端に軽くなって驚いた。
 山田さんと肩を並べて歩いているこの状況が不思議で、だけど人参さんが山田さんなのだとしたら嫌な気持ちは全然ないからこれまた不思議だ。頭の中を疑問符だらけにした私と平然としていそうに見える山田さんは目的地まで一言も口を開くことなくもくもくと歩いた。
 公園でレジャーシートを広げ、ふかふかの芝生の感触を確かめながら座ると、水筒に入れてきたお茶を私へと渡してくれたのを疑うことなく口にしようとすると、山田さんは「泉さん、無武備過ぎませんか」と困ったように眉を下げた。
「へ?」
「得体の知れない男から渡された飲み物を素直に飲もうとするなんて危険ですよ」
「人参さんは得体の知れない男性なんかじゃありません!」
「今、人参呼びはちょっと照れます」
「ご自分でつけたんじゃないですか」
「それはそうなんですけど」難しい顔をしたかと思ったら、恥ずかしくなったのか照れたように両手で顔を覆って下を向き始めた。やっぱり山田さんが人参さんなんだ。
「いつからですか?」私は疑問を口にした。「いつから私がマッチングアプリの『泉』だって気付いてたんですか?」つい責めるような口調になってしまった。
 それにやっぱり怒られていると勘違いした山田さんはまたしゅんと下を向いてしまった。
「あ、ごめんなさい。怒っている訳じゃないんです。ただ、本当にびっくりしてて。こんな偶然あるのかな? って」
「僕もひっくり返るかと思うくらい驚きました。気付いたのは先月の終わりの不燃ゴミの日です。あの日、泉さんスマホ持ったままゴミ捨て場に来ましたよね。夜で暗かったのでスマホ画面が反射して見えてしまったんです。その、僕の水割りの投稿。で、泉って名前でぴんときて、もしかしてこれはって思いました。で、直接確かめるしかないと思って今日のお誘いをしました」
 確かに私は前回の不燃ゴミの日スマホ片手にゴミ出しをしたし、その時マッチングアプリを開いて過去の人参さんの投稿が面白くて見返していた。それに、その時山田さんとすれ違って挨拶をした。偶然と偶然が重なり合うととんでもない真実になることもある。
「そう、だったんですね」驚き過ぎて尻すぼみな返事になってしまう。
「あの、僕が嫌とか気持ち悪いとか思われたなら、僕あのアプリ退会するし、引っ越しはすぐには出来ないけどなるべく泉さんと接触しないように気を付けるんで」何を思ったのか山田さんは突飛なことを言い出した。
「なんでそうなるんですか」
「え、僕のこと引いてるんじゃないんですか?」
「引いてません。むしろ惹かれてるんです! 私は人参さんに好感を持っているんです!」勢いに任せて告白まがいのことをしてしまった。きっと私の顔は真っ赤だ。だけど、私の言葉を聞いてみるみるうちに茹で蛸のようになった山田さんよりはマシだろう。
「あの、お弁当食べませんか? 私早起きして頑張ったんです」
「ありがとうございます。いただきます。それと、僕も好感しかないですよ」
 暖かな春風が私達を包むように吹いた。何かが始まる予感がした。
 

 * * * 


 お腹を蹴る動きで意識が戻ってきた。「あ、今お腹蹴った」そう口に出すと、「え? 僕も触っていい?」と顔をぱあっと輝かせて夫になった人参さん、もとい、山田さん、もとい朔は問うてくる。
「うん」そう笑顔で返せばそっと手のひらを子供を宿した私のお腹へと当ててくる。
「元気で産まれてくるんだよ」もうすぐ父になる朔は既に子煩悩なのか優しい笑みを絶やさない。出会ってからずっと穏やかだ。
「子供の名前、朔に考えてもらうの不安になってきた」
「なんで?」心底疑問だ、という顔と声で聞き返してくるので「だって朔、ハンドルネームに『人参』なんてつける宇宙人だし」と言えば、「泉だってまんま『泉』だったよね。僕のこと言えないよ」
「それもそうか」
 そう言って顔を見合わせて二人で幸せを噛みしめていた。


(了)