キーンコーンカーンコーン――

 放課後。文芸部部室。
 チャイムの音が、いつもより大きく聞こえた。
 そわそわと落ち着かない頭と体が、それを敏感に受け取ってしまったらしい。

 スマホの時計を見て、机上に置いて、壁掛け時計に目をやって、またどこかに視線を送って――。
 そんなことをしながら待っていても、待っていればこそ、その時は一向にやって来なくて。

 とにかくも落ち着かない心地をどうにかしたくて、俺は一度お手洗いにでも行こうかと教室を出ようと立ち上がる。
 そうして扉を開いた、正にその時だった。

「あっ……」

 ぶつかりそうになる程の目先に、先輩の姿を見つけた。

 見慣れた制服。
 見慣れた眼鏡。
 聞きなれた声。

 安心感さえ覚えるそれらの中に一つ、大きく異なる箇所があった。

「お、お疲れ様です、麻衣さん――いや、じゃなくて、その髪……」

 思わず、失礼にも指をさす頭の方――髪が、とても短く切り揃えられていた。

「ちょっと、イメチェンしてみた。どう、かな?」

 先輩は、恥ずかしそうに、上目で尋ねる。

 心臓が強く鳴った。けれど、俺の方も、もうそれで言葉を失うばかりじゃいられない。
 ずっと待ち望んでいたこと。待ち望んでいた時だ。
 多少恥ずかしくても、柄じゃなくても。

「すごく可愛いです。とっても、似合ってます」

 思わず逸らしそうになる視線を、先輩の揺れる瞳に何とか固定する。

「……えへ、えへへ。ありがと、嬉しい」

 すると先輩は、見たこともないくらい柔らかく、ふにゃりと笑った。

「昨日切って来たんだ。本当はね、お母さんに連れてってもらう予定だったんだけど、臨時でお仕事が入っちゃって……でも、せっかく退院してから初めての登校と再会だから、頑張って一人で行って来たの」

「そんなの、佳代さんに携帯でも借りて、俺を誘ってくれたら――」

「もう、にぶちん。ちゃんと整った後で、君に見て欲しかったんだよ」

 トン、と胸を叩かれた。
 そこから、じんと熱い何かが広がった。

(イメチェン……イメチェン、なんだもんな)

 初登校、再会――。
 先輩なりのサプライズ、だったのかな。

「というか、美容室に一人で……緊張しませんでした?」

「したよ。いつもと違う、ちょっと高めのところに行ったもん。初対面だし空気感も違うしで、ずっとガチガチだった」

「あはは。ですよね」

「でもね、私についてくれた美容師のお姉さんがとっても優しくてね――」

 話し始めた先輩は、止まらなくなった。
 親切にしてもらったこと、初めてのお客さんだからと割引にしてもらったこと、その前の日のこと、退院した日のこと、リハビリに勤しんだ日々のこと。
 明るく楽しそうに、時にムッとした表情になったりしながら、これまでのことを一から十まで――

「――麻衣さん」

 先輩の話は聞きたい。どんな話でも楽しいから。
 けれども今は――今だけは。

「――はい」

 すぐに俺の意図を察したのか、先輩は背筋を伸ばして俺に向かい合った。
 ともすれば、先輩の方も緊張していたのかもしれない。
 それこそ、退院後初めての登校で、あれ以来の再会だったから。
 いつもより表情豊かで饒舌だったのは、それを紛らわす為だったのかな。

 そうであるなら――俺だって、もう心の準備は出来ている。
 そわそわと落ち着きはしなかったけれど、言いたいことはずっと胸の内にあった。

「あなたのことが好きです、麻衣さん。あなたと、ずっと一緒にいたいです」

 整理なんかつかなくたっていい。
 言いたいことを、ただ伝えるだけ。
 伝えられれば、伝われば、それで良い。

「――うん。私も、君のことが好き。君と、ずっと一緒にいたい」

 そう言った後で、先輩の目元から、雫が溢れた。
 けれどもそれは、これまで見て来た悲観的なものではなくて。
 切なくも温かい、一滴の気持ちだった。

「ね――お付き合いついでにさ、わがままと報告を一つしてもいい?」

「は、はい? 報告……?」

 首を傾げていると、先輩は両手で俺の手を取った。
 久しぶりに感じる、温かくて艶やかな感触に、胸が熱くなった。

「あのね。真琴くんの言ったことがね、ホントになったんだ」

「俺が言ったこと?」

「うん。ほら、元気に明るく過ごしていれば、余命の方から忘れてくれるって」

「忘れて……えっ、そ、それ――!」

 先輩は、深く頷いた。
 それはつまり――そういうことなのだ。

「ずっとずっと、何年もって訳じゃないんだけどね。でも、少なくとも十月末の命じゃないって、主治医の先生がはっきりと言ってくれた」

「ほ、ほんとですか……ほんとに……?」

「うん。だって私、たくさん考えたもん。真琴くんとあんなことがしたい、あそこに行きたい、とか、お母さんと何かしたい、榎先生とも、って。楽しいことばかり考えて、それを口にしながらリハビリも頑張った。そうしたら、余命の方が日にちを間違えてくれたみたい」

「そんな……そんな、こと……」

「あ、また泣き虫さん?」

「な、泣きません…! そんないっつも泣くわけ――!」

 言いかけた矢先。
 先輩が、俺のことを優しく抱き寄せてくれた。
 ふわりといい香りが漂って、すぐ耳元に、先輩の息遣いを感じた。

「大好きだよ、真琴くん。大好き。ありがとう、私を好きになってくれて。私を助けてくれて。私と――友達になってくれて」

 もう、我慢なんて出来なかった。
 俺は力の限り、先輩のことを抱き締めた。
 わ、と小さく驚きの声を上げたけれど、すぐに先輩の方も、回した腕に力を籠めてくれた。

「良かった……ほんとに良かったです…!」

「……うん。私も。まだしばらくは、一緒にいられるよ」

「はい! はい…!」

 溢れ出した涙は止まらず、先輩の肩を濡らしてゆく。
 それでも離れようとしない、離そうとしない俺の頭を、先輩は優しく撫でてくれた。

「ふふっ。おっきな弟みたい」

「泣くのは今日で最後にします」

「ほんとに? 君、私より泣いてるような気がするんだけど」

「最後ったら最後です」

「ふふっ。じゃあ代わりに、これからは目一杯笑わせてね」

「はい。約束します」

 最後にポンと頭を優しく叩いてから、先輩は俺の身体から離れて行った。
 それでも互いに惜しくて、どちらともなく握り直した手元に視線を落としていた。

「……それで、ね。わがままっていうのはね」

 一呼吸置いた後で、先輩は俺を見上げた。

「名前だけで呼んで欲しいな、って。それと、ため口で話して欲しい」

「な、名前だけ、って――」

「さん、いらない。これからは、麻衣って呼んで」

「麻衣、さん……ま、麻衣……?」

「うん。もう一回」

「……麻衣」

「もう一回」

「麻衣」

「うんうん、それでよし」

 先輩は――麻衣は、恥ずかし気もなく頷いた。
 ……いや、嘘だ。俺なんかより、よっぽど恥ずかしそうだ。
 握った手は震え、余計な力が入った。
 声の調子も、いつもより少しだけ高くなった。

「は、恥ずかしいんですけど……」

「です?」

「うぅ……いや流石に、急にため口ってのは難しいんですけど」

「日記、最初はため口だったのに?」

「あ、あれは…! まさか、年上だなんて思ってなかったから……」

「たまーに砕けた話し方になるのに?」

「たまーにです、言葉の綾です、癖です…!」

 悪戯っぽく笑う麻衣。
 子どもみたいな言い訳で食い下がる俺。
 数秒、無言で睨みあった後、

「ぷっ――あはは!」

「ははっ!」

 どちらともなく、盛大に笑い出した。

「あはは、もう、おかしいの」

「麻衣だって、揚げ足の取り方が子どもっぽい」

「真琴くんが子どもっぽいからでしょ?」

「そういう先輩は猫でも被ってたのかってくらい、今別人ですよ」

「そりゃあ好きな人と話してるんだもん」

「俺だって、好きだから――」

 なんて言い合いが、自然に出来るなんて。
 あぁ。本当に、泣き虫になってしまったな。

「真琴く――」

 何か言いかけた麻衣の身体を、今度は俺の方から抱き寄せる。
 肩に、僅かな震えを感じた。

「ありがとね、真琴くん。大好きだよ」

 ほんの少しだけ、声が震えていた。
 麻衣の方も――きっと、そういうことなんだろうな。

「はい。俺も、大好きです」

 回した腕に、少しだけ力を籠める。
 その言葉と気持ちが嘘でないことを、証明するように。