「私はあの日、先生に呼び出されていたの。ちょっとしたお話しをしてただけなんだけどね」
その日を懐かしむように、先輩は続ける。
「その偶然職員室に行っていたタイミングで、真琴くんが旧理科室に入っていた。
背の高そうな男の人だったし、何より知らない人だったけど、凄くぐっすり眠っていたから、疲れてるのかなって思って、そのままにしておいた。
でも――その時に、見ちゃったんだ。
榎真琴って書かれた、上履きを」
「お、俺の、名前……?」
先輩は、小さく頷いた。
「真琴くん、気付いてるかな。あの日、君が入ったタイミングでは、日記は置いてなかったの」
「――はい、やっぱそうだったんですね」
あの日感じた違和感は、間違いなんかじゃなかったんだ。
「うん。あれ、君だって分かったから置いておいたんだよ。誰でも良かった訳じゃないの」
「……なんで?」
尋ねる俺に、先輩は少し苦しそうに笑う。
笑って、俺の目を見た。
「君が――私の、命の恩人だからだよ」
命の恩人。
誰が?
俺が?
いつ……いつだ?
何のことを言っているのだろう。
分からないけれど――
本当に何かの恩を感じることがあるというのなら、どうしてそんなに苦しそうな顔で笑うんだろう。
「真琴くん。怪我の調子はどう? 私の為に、随分と無茶してたでしょ?」
「そんなの、別に何とも……」
「それ、いつの怪我?」
「いつって――」
「二年半前の、君が中学二年の暮れ。違う?」
「……っ! な、なんで…!」
堪らず食って掛かる俺に、先輩はまた、苦しそうに笑った。
「あの日、君は人助けをした。人助けをした代わりに、足が悪くなっちゃったの」
「なん、で……」
「大きな事故だったよね。事故を起こしたトラック、酔っ払いでフラフラ運転してたんだって。それがスピードも緩めずに突っ込んでいった先に、君も身を投げ出して人を助けたの」
「それ――」
「助けられた人は、今――ちゃんと生きて、高校三年生になってるよ。生きて生きて、生きた先で……そろそろ、終わりを迎えようとしてる女の子なんだよ」
そこまで言われなくても、気が付いていた。
そう、俺はあの日――。
部活の帰り道だった。
悟志や他の仲間と、何でもない話をしながら歩いていた時、フラフラと危ない運転をしているトラックが目についた。
何だアレと眺めていたその時、その走行先に、一人の女の子が蹲っていることに気が付いた。
まずい――そう思う間もなく、俺は飛び出していた。
背中に、仲間が静止する声がぶつけられるけれど、そんなことは無視して飛び込んだ。
その身体を弾き飛ばしてほっとした刹那、宙を舞う俺の足を、そのトラックが轢いて行った。
複雑骨折、なんてものじゃない怪我だった。
足は見たこともない方向に曲がっていて、思うように動かすことも出来ない有様。
喧しい警報音が鳴り響く中、バスケはもう出来ないんだろうな、そう直感した。
けれどもそれ以上に、見知らぬその人の命があって良かったと思った。
意識を手放す間際、塀にぶつけた身体を押さえているのが見えた。
「あなたは――麻衣先輩は、あの時の……」
小さく、ゆっくりと頷いた。
「で、でも、何で俺だって……」
「色んな人に聞いて回って、なんとか背丈と名前だけ分かったの。どうしてもお礼を言いたくて」
「お、お礼なんて……」
「だから、君の名前に気が付いた時、思わず声をかけそうになって――でも、君からすれば私は知らない人だし、急に声をかけるのもちょっと変かなって思って……ほら、私、口下手でしょ? 多分、ちゃんと上手く伝えられないからさ。だから、ちゃんと仲良くなって、ちゃんと自分の言葉で、しっかりとお礼を言いたかった。残りの時間で出来ることを考えた時、遠回りをするのは怖かったけど、日記しかないって思ったの」
それは、内に秘めていた、紛れもない本心というものなのだと分かった。
言いたかった、けれども言えなかった、言わなきゃいけないこと。
「――ううん。それ以上に、謝りたかった。私なんかの為に、酷い怪我を負ったって話だったから。まだまだ若いその子には、きっと素敵な未来が待ってるのに、それを奪うことになっちゃったなって――」
「そ、それは違います…!」
俺は堪らず口を挟んだ。
先輩の視線が、俺に注がれる。
「違います、それは……俺、あの時のことは、何一つも後悔なんてしていません、本当です…! 顔も名前も知らない人だったけど、その人の命があって良かったって思った。先生から運動は控えろ、バスケは無理だって言われた時だって、ちょっと悲しくなったけど、その子が助かったってことの方が嬉しかった……良かったって思ったんです…!」
目が覚めた時、真っ先に確認したのはニュース番組だった。
あの交差点でのことは当然報道されていて、そこで負傷者情報しか出ていないことに、心底ほっとした。
あの子は助かったんだ。そう思って、俺は安堵から笑ってさえいた。
「真琴くん……」
「助けた人と、今こうして仲良くなれた……こんな奇跡はない。それに、謝るって言うなら俺の方で……俺の、方……」
「――ふふ。真琴くんって、結構泣き虫さんだよね」
「そんなの、だって……」
「真琴くんの言ったこと、間違ってないよ。何も知らないやつにあれこれ言われたって、本当の悔しさは分からないよ。当然のこと」
先輩は、清々しいくらいに笑って言うのだ。
「正直、ビビビッと来た。ビビビッと来たから、私はやり残したことにチャレンジしようって思ったんだ」
「でも、先輩……」
「うん。完走は出来なかった。けど、とっても満足してる。クラスの子たちには申し訳ないくらい遅かったとは思うけど、それでも、風を切って走るあの感じ、初めて味わったから。お母さんにも先生にも、あとで怒られちゃうかもしれないけどね」
「……その時は、俺も一緒に怒られます」
「うん。お願い」
先輩は、穏やかに笑って頷いた。
「……先輩」
「なあに?」
「好きです」
「――うん。私も」
「大好きです」
「うん。私も」
「本当です。ずっとずっと、本当は夏祭りの時から言いたかった」
「私も。あの頃から、君のことが好きになってた。でも、その為には、嘘は吐けなくて――」
「好きです……大好きです…………俺と、付き合ってください」
「うん。でも、私でいいの?」
「麻衣先輩が……麻衣さんがいいんです。あなたが好きなんです」
「――そっか」
「はい」
「私も、君しかいないよ。真琴くんと、お付き合いしたい」
「……はい」
「大好きだよ」
「…………はい」
なんで。
嬉しい筈なのに。
幸せな筈なのに。
なんで、こんなに――
「あ、はは。真琴くん、ほんとに泣き虫さんだね」
「だって…! なんで……なんで、もう時間が無いんだよ……俺が馬鹿なことしなきゃ、幸せな時間だけで過ごせたのに…! せっかく、せっかく気持ちを伝えられたのに…! なんで…! なんでッ…!」
壁や床に当たりたいけど、そうはいかない。
行き場のないやるせなさは、強く歯軋りするだけに留められた。
「なんで、時間が……もっともっと、やりたいこと、山ほどあるのに…!」
「うん、そうだね」
「一緒に年食って、子どもがいるかは分からないけど、じいちゃんばあちゃんになるまで一緒にいて……一緒に、いたいのに……」
「うん。私も同じ」
「なのに、なんで……なんで……」
喧嘩をしていようがいまいが、それは変わらないこと。
先輩には、間近に迫った終わりが待っている。
それはきっと変えられないことで、変えようとするのも難しいことで。
気持ちだけじゃどうにもならない、現実だ。
「――ねえ、真琴くん」
声が出ない。
代わりに、顔を上げて視線を向けた。
「今日まで、楽しかった?」
「……はい」
「幸せだった?」
「…………勿論です」
「私と友達になって、良かった?」
「…………はい……はい…!」
「――そっか」
先輩は、優しく笑う。
「そっか……そっかぁ……よかった……よかった、なぁ……」
目元に溜まっていた雫が、一滴、零れ落ちた。
「好きだなぁ……私も、もっと一緒にいたいなぁ……もっと、一緒に……いたかったなぁ……」
「俺もです……俺も、もっと一緒に……!」
震える手を強く握る。
キュッと握り返してくれた手の力は、弱くて、細くて――
それでも、可能な限りの全力だと分かる力で握ってくれる様子を見ていると、どうにも胸が苦しくなった。
終わりが近付いているのだと、そう言われているようだった。
「ねえ、真琴くん」
「……はい」
「私が退院出来たら、どこに連れてってくれる?」
それでも先輩は、未来のことを考え、話そうとする。
俺は少し時間を使って、ちゃんと考えた。
だらしない涙を拭いて、向けられる視線に応える。
「……まずは、退院祝いをしないと。姉ちゃんも心配しています。佳代さんとも関わりあるみたいなんで、一緒に呼んでパーッとしましょう」
「佳代さん……そっか。お母さんとも話したんだ」
「――はい」
「なんて言ってた? 馬鹿娘って、怒られちゃったかな」
「…………何もしてあげられなかった、って」
怒られるだろうか。
佳代さんが先輩とそういう話をしているのかどうかも知らないのに、勝手に喋ったりして。
「もう、お母さんもお母さんだなぁ……お仕事ばっかりで楽しいこともなかったの、私のせいなのに……私ばっかり、友達と遊んでさ」
「――でも同時に、友達が出来たって麻衣さんが話してたことを、とても嬉しそうに喋っておられました。良かった、安心した、って」
「……もう、お母さんってば」
恥ずかしそうにはにかんで、先輩は窓の方に顔を向けてしまった。
「……ねえ。退院祝い、どこでするの?」
「えっ、えと……うち、とか? 物も少なくて、リビングだけは広いですし」
「……いいね。友達の家で遊ぶの、やりたいことリストの一つだ」
「あはは、書いてありましたね」
「お泊り会とかも書いてたっけ」
「ありましたありました。空き部屋は無いけど、姉ちゃんと一緒の部屋なら叶えてあげられますよ」
いつだったか、それを読んでいて、男女の友達だと厳しいだろうなって、二人して苦笑した。
「楽しそうだけど――榎先生、寝かせてくれるかな?」
「麻衣さんの理解者ですし、積もる話はあるでしょうけど――どうでしょう」
「夜通しお喋りするの楽しそうだけどね。その点、真琴くんなら寝かせてくれそう。君と一緒に寝ちゃダメかな?」
「……先に断っておきますね」
「手を出す宣言?」
「出さない宣言」
悪戯っぽく笑いながら言う先輩に、俺は思わず声を荒げてしまう。
一瞬の沈黙。すぐに、どちらともなく笑い出した。
「まったく。麻衣さんって、そういう冗談を言う人だったんですね」
「読書家って、いらない知識ばっかり増えてく生き物だからね」
そう言いつつ、先輩は苦笑する。
「でも、一回くらい、一緒に寝たいな。誰よりも安心して眠れそうだし」
「それ、佳代さんに言ってあげてくださいよ。俺なんかより遥かに長い時間、長い期間、貴女のことばかり考えていたはずなんですから」
「――うん。分かってる」
一度目を伏せ、先輩は噛み締めるように頷いた。
「たまには、一緒にお風呂とか誘ってみようかな」
「良いですね。なら、退院祝いは温泉で」
「ん、いいかも」
自分の祝いと共に、最愛の母への労い。
うん、いいかもしれない。
「真琴くんは、私と何かしたいことある?」
「俺のしたいことは、麻衣さんのしたいことです。一緒にいられれば、何だって楽しいです」
「もう、恥ずかしいこと言わないの」
「本心です。ずっとずっと、前からそう思ってました」
「……もう、ばか」
恥ずかしそうに笑って、先輩はまた窓の方に視線を投げる。
ばか――そう、ばかだ。
ばかになってしまうくらい、どうしようもなく先輩のことが好きになってしまった。
あなたと話したい。
あなたの笑顔が見たい。
あなたの隣にいたい。
あなたと未来が見たい。
——そんなこと、恥ずかし過ぎて、よく口には出来ないけれど。
そう思えるくらい、好きになってしまったんだ。
「ありがと、真琴くん。あの日、私の言葉に気付いてくれて……私の思いに、こたえてくれて」
「俺の方こそ。俺と友達になってくれて、ありがとうございます」
「……友達以上になってもいいけど?」
「それは――ええ。無事に退院なさったら、その時、改めて」
「確約って意味だからね、それ。私、明日にでも退院してやるんだからって思うくらい、今とっても前向き」
「――はい」
「言ったね。約束。男に二言はないからね」
ニヤリと笑いながら、先輩は小指を突き出して来た。
俺はそこに自分の小指を絡めながら、幸せな未来を想像して胸が熱く、同時に少し痛くもなった。
……そうだ。幸せな未来を、想像するんだ。笑うんだ。
そうすれば、余命なんて、余命の方から忘れてくれる。
自分で言ったことが嘘にならないように、もう二度と、彼女には悲しい顔はさせない。
最後の最後の、最期の時まで、笑って過ごしてもらうんだ。
「ちょっとだけ、話し疲れちゃった」
「ゆっくり休んでください。麻衣さんが眠れるまで、ここにいますから」
「ふふ。うん、ありがと。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
絡めた指を解いて、代わりにその手を握った。
キュッと握り返してくれた手の力が緩み、穏やかな寝息が聞こえるまで。
その日を懐かしむように、先輩は続ける。
「その偶然職員室に行っていたタイミングで、真琴くんが旧理科室に入っていた。
背の高そうな男の人だったし、何より知らない人だったけど、凄くぐっすり眠っていたから、疲れてるのかなって思って、そのままにしておいた。
でも――その時に、見ちゃったんだ。
榎真琴って書かれた、上履きを」
「お、俺の、名前……?」
先輩は、小さく頷いた。
「真琴くん、気付いてるかな。あの日、君が入ったタイミングでは、日記は置いてなかったの」
「――はい、やっぱそうだったんですね」
あの日感じた違和感は、間違いなんかじゃなかったんだ。
「うん。あれ、君だって分かったから置いておいたんだよ。誰でも良かった訳じゃないの」
「……なんで?」
尋ねる俺に、先輩は少し苦しそうに笑う。
笑って、俺の目を見た。
「君が――私の、命の恩人だからだよ」
命の恩人。
誰が?
俺が?
いつ……いつだ?
何のことを言っているのだろう。
分からないけれど――
本当に何かの恩を感じることがあるというのなら、どうしてそんなに苦しそうな顔で笑うんだろう。
「真琴くん。怪我の調子はどう? 私の為に、随分と無茶してたでしょ?」
「そんなの、別に何とも……」
「それ、いつの怪我?」
「いつって――」
「二年半前の、君が中学二年の暮れ。違う?」
「……っ! な、なんで…!」
堪らず食って掛かる俺に、先輩はまた、苦しそうに笑った。
「あの日、君は人助けをした。人助けをした代わりに、足が悪くなっちゃったの」
「なん、で……」
「大きな事故だったよね。事故を起こしたトラック、酔っ払いでフラフラ運転してたんだって。それがスピードも緩めずに突っ込んでいった先に、君も身を投げ出して人を助けたの」
「それ――」
「助けられた人は、今――ちゃんと生きて、高校三年生になってるよ。生きて生きて、生きた先で……そろそろ、終わりを迎えようとしてる女の子なんだよ」
そこまで言われなくても、気が付いていた。
そう、俺はあの日――。
部活の帰り道だった。
悟志や他の仲間と、何でもない話をしながら歩いていた時、フラフラと危ない運転をしているトラックが目についた。
何だアレと眺めていたその時、その走行先に、一人の女の子が蹲っていることに気が付いた。
まずい――そう思う間もなく、俺は飛び出していた。
背中に、仲間が静止する声がぶつけられるけれど、そんなことは無視して飛び込んだ。
その身体を弾き飛ばしてほっとした刹那、宙を舞う俺の足を、そのトラックが轢いて行った。
複雑骨折、なんてものじゃない怪我だった。
足は見たこともない方向に曲がっていて、思うように動かすことも出来ない有様。
喧しい警報音が鳴り響く中、バスケはもう出来ないんだろうな、そう直感した。
けれどもそれ以上に、見知らぬその人の命があって良かったと思った。
意識を手放す間際、塀にぶつけた身体を押さえているのが見えた。
「あなたは――麻衣先輩は、あの時の……」
小さく、ゆっくりと頷いた。
「で、でも、何で俺だって……」
「色んな人に聞いて回って、なんとか背丈と名前だけ分かったの。どうしてもお礼を言いたくて」
「お、お礼なんて……」
「だから、君の名前に気が付いた時、思わず声をかけそうになって――でも、君からすれば私は知らない人だし、急に声をかけるのもちょっと変かなって思って……ほら、私、口下手でしょ? 多分、ちゃんと上手く伝えられないからさ。だから、ちゃんと仲良くなって、ちゃんと自分の言葉で、しっかりとお礼を言いたかった。残りの時間で出来ることを考えた時、遠回りをするのは怖かったけど、日記しかないって思ったの」
それは、内に秘めていた、紛れもない本心というものなのだと分かった。
言いたかった、けれども言えなかった、言わなきゃいけないこと。
「――ううん。それ以上に、謝りたかった。私なんかの為に、酷い怪我を負ったって話だったから。まだまだ若いその子には、きっと素敵な未来が待ってるのに、それを奪うことになっちゃったなって――」
「そ、それは違います…!」
俺は堪らず口を挟んだ。
先輩の視線が、俺に注がれる。
「違います、それは……俺、あの時のことは、何一つも後悔なんてしていません、本当です…! 顔も名前も知らない人だったけど、その人の命があって良かったって思った。先生から運動は控えろ、バスケは無理だって言われた時だって、ちょっと悲しくなったけど、その子が助かったってことの方が嬉しかった……良かったって思ったんです…!」
目が覚めた時、真っ先に確認したのはニュース番組だった。
あの交差点でのことは当然報道されていて、そこで負傷者情報しか出ていないことに、心底ほっとした。
あの子は助かったんだ。そう思って、俺は安堵から笑ってさえいた。
「真琴くん……」
「助けた人と、今こうして仲良くなれた……こんな奇跡はない。それに、謝るって言うなら俺の方で……俺の、方……」
「――ふふ。真琴くんって、結構泣き虫さんだよね」
「そんなの、だって……」
「真琴くんの言ったこと、間違ってないよ。何も知らないやつにあれこれ言われたって、本当の悔しさは分からないよ。当然のこと」
先輩は、清々しいくらいに笑って言うのだ。
「正直、ビビビッと来た。ビビビッと来たから、私はやり残したことにチャレンジしようって思ったんだ」
「でも、先輩……」
「うん。完走は出来なかった。けど、とっても満足してる。クラスの子たちには申し訳ないくらい遅かったとは思うけど、それでも、風を切って走るあの感じ、初めて味わったから。お母さんにも先生にも、あとで怒られちゃうかもしれないけどね」
「……その時は、俺も一緒に怒られます」
「うん。お願い」
先輩は、穏やかに笑って頷いた。
「……先輩」
「なあに?」
「好きです」
「――うん。私も」
「大好きです」
「うん。私も」
「本当です。ずっとずっと、本当は夏祭りの時から言いたかった」
「私も。あの頃から、君のことが好きになってた。でも、その為には、嘘は吐けなくて――」
「好きです……大好きです…………俺と、付き合ってください」
「うん。でも、私でいいの?」
「麻衣先輩が……麻衣さんがいいんです。あなたが好きなんです」
「――そっか」
「はい」
「私も、君しかいないよ。真琴くんと、お付き合いしたい」
「……はい」
「大好きだよ」
「…………はい」
なんで。
嬉しい筈なのに。
幸せな筈なのに。
なんで、こんなに――
「あ、はは。真琴くん、ほんとに泣き虫さんだね」
「だって…! なんで……なんで、もう時間が無いんだよ……俺が馬鹿なことしなきゃ、幸せな時間だけで過ごせたのに…! せっかく、せっかく気持ちを伝えられたのに…! なんで…! なんでッ…!」
壁や床に当たりたいけど、そうはいかない。
行き場のないやるせなさは、強く歯軋りするだけに留められた。
「なんで、時間が……もっともっと、やりたいこと、山ほどあるのに…!」
「うん、そうだね」
「一緒に年食って、子どもがいるかは分からないけど、じいちゃんばあちゃんになるまで一緒にいて……一緒に、いたいのに……」
「うん。私も同じ」
「なのに、なんで……なんで……」
喧嘩をしていようがいまいが、それは変わらないこと。
先輩には、間近に迫った終わりが待っている。
それはきっと変えられないことで、変えようとするのも難しいことで。
気持ちだけじゃどうにもならない、現実だ。
「――ねえ、真琴くん」
声が出ない。
代わりに、顔を上げて視線を向けた。
「今日まで、楽しかった?」
「……はい」
「幸せだった?」
「…………勿論です」
「私と友達になって、良かった?」
「…………はい……はい…!」
「――そっか」
先輩は、優しく笑う。
「そっか……そっかぁ……よかった……よかった、なぁ……」
目元に溜まっていた雫が、一滴、零れ落ちた。
「好きだなぁ……私も、もっと一緒にいたいなぁ……もっと、一緒に……いたかったなぁ……」
「俺もです……俺も、もっと一緒に……!」
震える手を強く握る。
キュッと握り返してくれた手の力は、弱くて、細くて――
それでも、可能な限りの全力だと分かる力で握ってくれる様子を見ていると、どうにも胸が苦しくなった。
終わりが近付いているのだと、そう言われているようだった。
「ねえ、真琴くん」
「……はい」
「私が退院出来たら、どこに連れてってくれる?」
それでも先輩は、未来のことを考え、話そうとする。
俺は少し時間を使って、ちゃんと考えた。
だらしない涙を拭いて、向けられる視線に応える。
「……まずは、退院祝いをしないと。姉ちゃんも心配しています。佳代さんとも関わりあるみたいなんで、一緒に呼んでパーッとしましょう」
「佳代さん……そっか。お母さんとも話したんだ」
「――はい」
「なんて言ってた? 馬鹿娘って、怒られちゃったかな」
「…………何もしてあげられなかった、って」
怒られるだろうか。
佳代さんが先輩とそういう話をしているのかどうかも知らないのに、勝手に喋ったりして。
「もう、お母さんもお母さんだなぁ……お仕事ばっかりで楽しいこともなかったの、私のせいなのに……私ばっかり、友達と遊んでさ」
「――でも同時に、友達が出来たって麻衣さんが話してたことを、とても嬉しそうに喋っておられました。良かった、安心した、って」
「……もう、お母さんってば」
恥ずかしそうにはにかんで、先輩は窓の方に顔を向けてしまった。
「……ねえ。退院祝い、どこでするの?」
「えっ、えと……うち、とか? 物も少なくて、リビングだけは広いですし」
「……いいね。友達の家で遊ぶの、やりたいことリストの一つだ」
「あはは、書いてありましたね」
「お泊り会とかも書いてたっけ」
「ありましたありました。空き部屋は無いけど、姉ちゃんと一緒の部屋なら叶えてあげられますよ」
いつだったか、それを読んでいて、男女の友達だと厳しいだろうなって、二人して苦笑した。
「楽しそうだけど――榎先生、寝かせてくれるかな?」
「麻衣さんの理解者ですし、積もる話はあるでしょうけど――どうでしょう」
「夜通しお喋りするの楽しそうだけどね。その点、真琴くんなら寝かせてくれそう。君と一緒に寝ちゃダメかな?」
「……先に断っておきますね」
「手を出す宣言?」
「出さない宣言」
悪戯っぽく笑いながら言う先輩に、俺は思わず声を荒げてしまう。
一瞬の沈黙。すぐに、どちらともなく笑い出した。
「まったく。麻衣さんって、そういう冗談を言う人だったんですね」
「読書家って、いらない知識ばっかり増えてく生き物だからね」
そう言いつつ、先輩は苦笑する。
「でも、一回くらい、一緒に寝たいな。誰よりも安心して眠れそうだし」
「それ、佳代さんに言ってあげてくださいよ。俺なんかより遥かに長い時間、長い期間、貴女のことばかり考えていたはずなんですから」
「――うん。分かってる」
一度目を伏せ、先輩は噛み締めるように頷いた。
「たまには、一緒にお風呂とか誘ってみようかな」
「良いですね。なら、退院祝いは温泉で」
「ん、いいかも」
自分の祝いと共に、最愛の母への労い。
うん、いいかもしれない。
「真琴くんは、私と何かしたいことある?」
「俺のしたいことは、麻衣さんのしたいことです。一緒にいられれば、何だって楽しいです」
「もう、恥ずかしいこと言わないの」
「本心です。ずっとずっと、前からそう思ってました」
「……もう、ばか」
恥ずかしそうに笑って、先輩はまた窓の方に視線を投げる。
ばか――そう、ばかだ。
ばかになってしまうくらい、どうしようもなく先輩のことが好きになってしまった。
あなたと話したい。
あなたの笑顔が見たい。
あなたの隣にいたい。
あなたと未来が見たい。
——そんなこと、恥ずかし過ぎて、よく口には出来ないけれど。
そう思えるくらい、好きになってしまったんだ。
「ありがと、真琴くん。あの日、私の言葉に気付いてくれて……私の思いに、こたえてくれて」
「俺の方こそ。俺と友達になってくれて、ありがとうございます」
「……友達以上になってもいいけど?」
「それは――ええ。無事に退院なさったら、その時、改めて」
「確約って意味だからね、それ。私、明日にでも退院してやるんだからって思うくらい、今とっても前向き」
「――はい」
「言ったね。約束。男に二言はないからね」
ニヤリと笑いながら、先輩は小指を突き出して来た。
俺はそこに自分の小指を絡めながら、幸せな未来を想像して胸が熱く、同時に少し痛くもなった。
……そうだ。幸せな未来を、想像するんだ。笑うんだ。
そうすれば、余命なんて、余命の方から忘れてくれる。
自分で言ったことが嘘にならないように、もう二度と、彼女には悲しい顔はさせない。
最後の最後の、最期の時まで、笑って過ごしてもらうんだ。
「ちょっとだけ、話し疲れちゃった」
「ゆっくり休んでください。麻衣さんが眠れるまで、ここにいますから」
「ふふ。うん、ありがと。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
絡めた指を解いて、代わりにその手を握った。
キュッと握り返してくれた手の力が緩み、穏やかな寝息が聞こえるまで。



