「先輩……」

 先輩の手を握っていた自身の手に、自然と力が入った。
 強く強く、力の限り強く握りしめていた。

「俺……俺、ただ好きだって言いたいだけなのに……好きだから、好きになったから、一緒の喜びを分け合いたかっただけなのに……なんであんなこと……なんで、なんで…!」

 強く噛んだ唇が切れた。
 口の中に、血の味が広がった。

「約束したのに……先輩の為に結果が残せなかったことが、ただそれが悔しかっただけなのに…!」

 ——違う。

「違う……違うんだ……俺、バスケから離れなきゃいけなくなったことが、悔しくて悔しくて……」

 本音だろうが一時の感情的なものだろうが、一度口にした言葉は、引っ込めることも、改めることも出来ない。
 その代わりに、これからの態度で示していかないといけないのに。

「麻衣さん……」

 その為の時間も、機会も、もうこのまま来ないのかもしれない。
 何も出来ないまま、気持ちも伝えられないまま――自分の愚かさを憎んで、長い人生を歩んでいかないといけないのかもしれない。
 ……いや、その方がいいのかもしれない。
 その方が、愚か者への戒めにはなる。

「麻衣さん…………俺――」

 今更何を言ったところできっと遅い。
 でも遅いのであればこそ、本当の、ずっとずっと隠して来た本音を打ち明けるべきだ。
 そう思い立った時だった。
 テーブルの上に、一冊のノートを見つけた。

 交換日記だ。

「なんで……」

 看護師さんは、目を覚ましたなどということは言っていなかった。
 もしそうであるなら、佳代さんだって来ている筈だ。

「これ、佳代さんが……でもなんで……」

 見せて貰ったことがある、とは言っていた。
 この本の存在は、あの人も知っているのだ。
 おそらくは、佳代さんが置いておいたもの。
 必要なくなったあの日の後、最期のページには、先輩の殴り書いたアレがある筈だ。
 ……佳代さんも、読んだことだろうな。

「ほんと、ばかやろうだ……」

 愚かしいにも程がある自分に嫌気がさしながらも、俺はページを捲る。



 ――お友達になってくれませんか――

 その一文が、全ての始まりだった。
 今見返しても、本当に不思議な書き出しだと思う。



 ――誰でも良かったとは思っていましたが、今は、あなたと仲良くなりたいと思っています。初めて、返事をくださったので――



 ――色々とやりたいことはありましたが、交換日記が出来ているだけで、何だか満足できています。こうして誰かと話すこと、今まで殆どなかったので――



 そうだ。
 はじめはそうだったな。
 文字だけでのやり取りから始まって……。

 ああ、そうだ。俺の方から帰りを誘ったんだった。
 一緒に帰り始めて、期末試験を挟んで、初めて一緒に本屋に出掛けて……。
 それで夏祭りに誘われて――笑って笑って、目一杯楽しんで――そこで初めて、先輩の隠していたことを知って……。

 そうだ。それからだ。

 文字より言葉を尽くす方がはやくて――違う。話したくて、声が聞きたくて、交換日記の必要がなくなっていったんだ。
 書かなくなってからも暫くは置かれていたけれど、ある日から置かれなくなって、いつからかそれも忘れて、顔を合わせて話す日々が楽しくて――

 そんなことがあって――この日だ。



 ――真琴くんの気持ち理解したい
 やりたいことリストの一つ――



 それまでずっと、綺麗で素敵な字だったのに。
 殴り書きのようなその字に、また胸が痛くなった。
 手に力が入って、ノートがくしゃっと歪んだ。
 しまった、と慌てて力を抜くと、手から零れて床に落ちてしまった。
 まるで、自分がやったことの再現でもするかのように。
 深い溜め息と共に、落ちたノートを拾い直す。
 そうしてまた膝の上に広げると、

「な、なんだ、これ……」

 一番最後のページに、見たことのない、長文が綴られていた。
 思わず前後を確認する。
 殴り書きのページの次には何もなく、これは最後のページから反対に向かって進んでいるらしかった。



『ノート、必要なくなっちゃったのは寂しいけど、それ以上に毎日が楽しくなった。
 真琴くんは、私が欲しい以上の言葉をくれる。
 何年も何年も、碌に誰とも話せなかった日々を、たった一人で全部埋めようとするくらい、沢山話してくれる。
 言葉で、態度で、行動で、ノート以外のこと全部で私と接してくれる。
 だから今日から、これは私の日記。
 最後のページからなら、真琴くんにも見られないもんね』



『夏休みが終わる。
 長くてあと二ヶ月。
 だけど、なんだろう、全然悲しくない。
 悲しくないって言うと嘘になるけど、悲しくない。
 そう思えるくらい、真琴くんは色んなことを教えてくれた。
 また一緒に行った本屋さんでは、お揃いで面白そうな本を買った。
 水族館は初めて行ったけど、真琴くんがあれこれ教えてくれて、案内してくれて、とても楽しめた。
 海の生き物が好きなのかな。
 それとも、私と出掛けるから、見栄を張って色々調べたのかな。
 どっちにしても、凄く楽しかった。また来たい。
 クラスの子が言ってた喫茶店は本当に美味しかった。もう一度来たいって行ったら、本当に連れて行ってくれた。
 私の為に時間を使ってくれることが、少し申し訳なく思える。
 でも、その申し訳なさを忘れるくらい、沢山話して、沢山笑顔にしてくれた。
 夏祭りから二週間。
 こんなに楽しいことはないって思えるくらい、大大大大大満足』



『真琴くん、バスケはブランクだらけだって言ってたけど、凄く上手い。
 ちょっと覗いてみただけだけど、ブランクなんて感じさせない身のこなし。
 素人の私でも分かるくらいなんだから、とても凄いことだと思う。
 でもルールのことはあまり分からなかったから、ちょっと調べてみた。
 どうやら、ガード? っていうポジションらしい。主に味方からのパスをシュートして得点を重ねる、大事な役割。司令塔はさとしさんで、他の子たちはその補助をしてることが多いみたい。
 ただ、ちょっとだけ悔しいことがあった。
 せっかく調べたルールも意味がなくなるくらい、私は真琴くんのことばかり見てる。
 とても楽しそうに、とても嬉しそうに、とても活き活きとプレイしている。
 ううん、遊んでる。
 それくらい、バスケのことが好きなんだと思う。
 そんな様子を見ていると、申し訳ないな、窮屈な思いをさせてたかな、なんてちょっと思ったことも忘れるくらい、私もほっこりあたたかな気持ちになった。
 だから、私もそのうち話さないといけないな。
 私の、本当の気持ち』



『今日は、いよいよ球技大会当日。
 体操着よし。水筒よし。保冷剤とか氷とか手当て用品諸々よし。
 お弁当、よし。
 全部よしだ。喜んでくれるといいな。
 夏休みの間に作ったのは、ちょっと出来合い品が多かったもん。
 せっかく、全部手作りしたんだ。美味しいって言ってくれたらいいな。
 頑張れ、真琴くん。
 あんなに練習と体力作りをして来たんだもん。
 優勝、出来たらいいね。
 もし出来なくても、悲しまないでね。
 努力は絶対、無駄にはならないから。
 ……っていうのは、やっぱり建て前でね。
 優勝するっていうことの気持ちよさ、一緒に味わわせてね。
 少しでもその気持ちが分かるように、練習、結局毎日覗きに行っちゃったんだから』



「先、輩……うっ……」

 気が付くと、ノートがびしょびしょに濡れてしまっていた。

 そんなことを思っていたなんて。
 そんなことを書き残していたなんて。

 俺は――先輩に、先輩が思う程のことを、してあげられていただろうか。
 先輩が思う程、心に残るような日々を過ごせていただろうか。

 全部全部、あの一言で壊してしまったのに。
 今度目を覚ました時、同じように言ってくれるだろうか。

「楽しかったなぁ……弁当、冷めてたけど、美味しかったなぁ……」

 夏休みの日々を思い出す。
 球技大会当日、家に帰ってから、夕飯として先輩の弁当を食べたことを思い出す。

 あれ、全部手作りだったんだ。
 あれまでは、全部出来合いのものが入ってたんだ。

 そんなことも知らずに、込められた思いも知らずに、俺は……。

「俺、は……」

 くしゃくしゃに握っていたノートに、思わず顔を埋めていた。
 懐かしさすら覚える紙と鉛筆の匂いは、これまでの日々を鮮明に思い起こさせた。
 涙が、溢れて止まらなくなった。

「――あ、あはは……それ、読まれちゃった、かぁ……」

 ふと聞こえた力のない声に、俺は弾かれたように顔を上げた。
 薄く目を開け、こちらを見やっている先輩と目が合った。

「せん、ぱ……――」

 声にならない声が出た。
 それにまた笑って、先輩は淡く微笑んだ。

「もう、恥ずかしいなぁ……お母さんでしょ、それ置いてたの」

「先輩……お、起きた……だ、大丈夫――」

 声を掛けようとした口を、俺がグッと噛み締めた。
 そうして席を立ち、勢い余って柵におでこをぶつけるくらい深く、頭を下げた。

「ご、ごめん、先輩…! 俺……俺、言いたいことが山ほどあって……でも、まずはごめんなさい…! あんなこと言うつもりじゃなかったのに、俺、感情任せに先輩に当たって…! ごめんなさい…! ごめんなさい…!」

 繰り返し繰り返し、謝り続ける。
 何を言ったか、何を言おうとしていたか、そんなことも忘れて、ただただごめんとばかり繰り返す。
 そんな俺のことを、先輩は優しく撫でてくれた。
 力のない震える手で、俺の頭を優しくさする。

「私、ね……真琴くんがそう思う理由、分かるよ」

「で、でも俺、先輩には分からないなんて……」

「うん。きっと、本当なら、真琴くんの言うことが正しい。その人じゃない他人には、その人のことを本当に理解することは出来ないもん。でも、でもね――」

 息を整えた後で、

「私……私だけは、君がそう思う理由が、ちゃんと分かるよ」

 努めて真面目な声音で、先輩は繰り返し。
 窓の方に視線を投げて、小さく呟く。



「……ちょっとだけ、昔話をしよっか」