「おはようございます、先輩」

 病室の扉を開け、先輩に声を掛ける。
 今日は、佳代さんは来ていないらしい。
 畳んであったパイプ椅子を広げて、腰を下ろす。
 スクールバッグは傍らに置いて。

 ピ、ピ、ピ、ピ――

 モニターの音だけが耳を打つ。
 先輩の呼吸は浅く静かで、吐息も聞こえない。

「それなりに涼しくなってきましたけど、まだまだ動くと暑いですね」

 九月も、あと数日で終わるという頃。
 あれ以来毎日、俺は先輩のお見舞いに来ていた。
 未だ、先輩の顔は見られない。

「そうだ。姉ちゃんから、差し入れを預かって来たんです。テーブルに置いておくので、佳代さんにでも剥いて貰ってください。ナイフ、持ってきてないので」

 漫画やドラマでよく見る、バスケットいっぱいのフルーツの盛り合わせ。
 ベッドサイドに備え付けられている、テレビ付きのテーブルに置いておいた。

「佳代さん、今日も夜勤なんですかね。あれから顔を合わせられてなくて……お忙しそうですね」

 背もたれに身体を預けて脱力。
 すぐに身体を起こし直して、布団からはみ出ていた手を、中へと入れてあげた。

(温かい……)

 言葉も息遣いも聞こえない今、モニターの音と体温だけが、先輩が未だ生きているのだと思わせてくれるものになっていた。

「っ……」

 また、胸が苦しくなってきた。
 ズキズキと痛んで、呼吸も速くなる。

 それでも、

「……明日、土曜日ですね」

 俺は声を掛け続けた。

「紅葉にはまだ早いですし――秋といえば、他に何があるでしょうかね」

 話し掛けるのを止めるのが、怖かった。

「起きたら、看護師さんに外出の許可を貰いましょう。中庭、なかなか広くて綺麗でした」

 テーブルや椅子、ベンチ、花壇――面会に来ている家族さんらしい人と患者さんが、楽し気に話している様子が見て取れた。

「そういえば、先輩って何の飲み物がお好きなんですか?」

 語り掛けるだけでなく、問いかけてしまったから――

「…………うん」

 返って来ない答えに、先輩が目を覚ましていない現実を突きつけられた。

「……今度、お互いに好きなものの情報交換もしましょうか。今更ですけど、俺、あんまり知らないんですよね……」

 先輩のやりたいことリストには、全力で取り組んだ。
 けれど、そんな当たり前の会話は、思えばあまりして来なかった。
 友達だなんだと言いながら、俺は麻衣先輩という人間の好き嫌いについては、あまり尋ねたことがなかった。

 あとどれだけの時間があれば、先輩のことを知れるだろうか。
 どれだけの言葉を交わせば、当たり前に『友達』と言えるような相手になれるだろうか。

 先輩は――俺のことを、まだ友達だと言ってくれるだろうか。

「麻衣先輩……」

 もう、手遅れなのだろうか。
 このまま目を覚まさず、時間だけが経過していって――その先で、最期の時を迎えてしまうのだろうか。
 やりたいことリスト、まだチェックの入っていないものは沢山あった。
 俺が先輩とやりたいと思ったことも、まだまだ沢山ある。

「ぁ、あぁ……」

 でも今は、それ以上に、ただ謝りたい。
 謝って、本当の気持ちを伝えたい。
 こんなことなら、もっと早くに言っておけば良かった。
 衝動的にでも何でも、口に出しておけば良かった。

「おれ……お、れ……」

 情けなさに、喉がギュッと締まった。
 苦しくて悔しくて、どこかに頭を打ち付けたくなるような衝動に駆られる。

「ぁあ……ぁ、ぁああッ…!」

 ズボンを握り締める手に力を入れ過ぎたせいで、爪が割れて血が滲んだ。
 強く噛み合わせる歯が、ギリギリと鈍い音を響かせた。

 そんな程度の痛みでは足りないくらい、どこかでのたうち回って、全身そこかしこをぶつけてやりたい気になる。
 それを、今すぐにでも行動に移してやろうかと思った矢先、響くノックの音が意識を引き戻した。

「榎さん。面会可能時間が間もなく終了致しますので――」

 顔を覗かせた看護師さんが言った。

「…………はい」

 力なく返事をして、俺はバッグを担ぎ直す。

「あの、大丈夫ですか?」

 看護師さんが尋ねて来た。
 そこでようやく、扉を閉めるのを忘れていたことに気が付いた。
 聞こえてしまっていたのだろうか。

「……すみません。大丈夫です」

 足元に目を落としたまま、言葉だけで答える。

「そう、ですか――お、表にいますね」

 そう言って看護師さんは、外に出てから一度扉を閉めた。
 幾らか時間が経った後で、俺は椅子から立ち上がった。

「明日も……明日も、来ますね」

 先輩の、お腹辺りに目をやりながら。

「……明日も、来ていいのかな……」

 迷う言葉も零れるけれど。

「…………また、明日」

 当たり前になっていた言葉を思い出して、口にしてみたら、意外にも少しだけ気力は戻った。
 自分で失わせた分の、ほんの一欠片だけ。
 また明日。そう交わし合ったおかげで、明日が楽しみになっていたことを思い出したからだった。

「――失礼しました」

 控えめに頭を下げてから、俺は病室を出る。
 表で待っていた看護師さんに短く挨拶だけして、俺は病棟を後にした。



 翌日からも、俺は病室に通い詰めた。
 看護師さんが時間を報せてくれるギリギリまで、毎日先輩に話し掛けた。

 くだらないこと。そこそこ楽しそうなこと。ちょっと頭に来たこと。
 色んな内容を話せば、どれかには興味を持って、何か反応してくれるかと思った。

 目を開けなくても、話せなくても、眉を動かすとか手を動かすとか、何かのリアクションをしてくれればよかった。

 ……嘘だ。

 一刻も早く目を覚まして欲しい。
 一刻も早く声を聞かせて欲しい。

 十月に入ってしまったことで、焦りは強くなった。終わりの日が、刻々と近付いているのだ。
 一度強い負荷のかかってしまった心臓が、十月末までもつかも分からない。
 ひと月もない。今目を覚ましても、あと何十日も一緒にいられない。
 言葉を尽くすには、あまりに時間が足りない。

「先輩……麻衣、先輩…………」

 それでも、先輩が目を覚ますことはなかった。