一旦の治療を終えた先輩は、入院用の病棟へと移されているらしく、そこに案内された俺は、病室外の名前札を頼りにその姿を探した。
 一つ、二つ――病室を通り過ぎてゆく度、鼓動が速くなってゆく。
 そうして辿り着いた、一番端の個室外に、相良麻衣と書かれた札を見つけた。

 恐る恐る中を覗く。

 ピ、ピ、ピ、ピ――規則正しい機械の音が聞こえる。
 ベッドの上には、横たわる先輩の姿。
 その傍らに一人、見知らぬ大人の女性が座っていた。

「っ……!」

 俺は咄嗟に身を引いて、外の壁に身体を預けた。
 ふわりと、香水らしい花の香りが鼻を突いた。

 馴染みのある横顔――先輩の母親だろうと直感したからだった。
 親御さんに連絡がついたと姉は言っていた。来ているのは当然だ。
 どうしようか。少し時間を置いてからまた来ようか。
 迷っている俺に、

「いいわよ、入っても」

 中から、そんな言葉が掛けられた。
 もう一度、ゆっくりと中を覗く。

「どうぞ。椅子、座って」

 淡々とした口調。
 影のない真っすぐとした視線。
 先輩に感じるものとは正反対とも思える第一印象に、少し気圧されながらも、俺は迷うことなく、座ってしまうより先に頭を下げた。

「ご――す、すみませんでした…! 先輩がこんなことになったの、た、多分、いや俺のせいなんです……! 俺が、馬鹿みたいなこと言わなければ――!」

「先輩、ね」

 横たわる先輩の方に視線を落としたまま、その人は呟いた。

「なら君が、榎真琴くんね?」

「あっ――は、はい…!」

「――そう」

 未だ感情の見えない声で言い、頷く。

「頭、上げなさい。色々と話したいことはあるけれど――とりあえず、座ってからにしましょう。人に頭を下げられるの、苦手なの」

「……失礼、します」

 迷いはしたけれど、隣に広げられたパイプ椅子に、俺は腰を下ろす。
 そうした目線の先には、麻衣先輩の姿があって――思わず俯き、足元に目を落とした。

「麻衣のこと、見られない?」

「……はい」

 不甲斐なさ、頼りなさの自覚からくる罪悪感に、俺は顔を上げることが出来ない。

「――そう」

 また、小さく呟くように言った。
 会話が途切れると、規則的ななモニターの音の間に、先輩の息遣いが聞き取れた。
 急いでいる訳でも、極端に少ない訳でもない、少し落ち着いた呼吸。
 ホッと胸を撫で下ろす感覚と共に、胸がひどく傷んだ。

「ありがとうね、榎くん」

 そんな言葉に、俺は思わずそちらを見上げた。
 その人は、相変わらず先輩に目を向けたままだった。

「な、なんで――」

 ありがとう――そんな言葉の響きは、胸の奥で渦巻いていたぐちゃぐちゃしたものを、一気に爆発させた。

「か、感謝なんて――! お、俺、先輩に酷いことを言ったんです…! 運動をして来なかった人には俺の気持ちなんて分からないって…! 怪我して離れた大好きなバスケで何も証明出来なかったことが悔しくて、それだけのことで先輩に当たってしまったんです…! 先輩の身体のこと、これまでのこと、全部全部、全部知ってた筈なのに…! なのに――!」

「そう。なら、やっぱりありがとう」

「っ……!」

 言葉に詰まった。詰まらせた。
 淡々と、しかし二度もそう言う横顔に、息が出来なくなった。

「今日、球技大会だったのよね」

「は、はい……」

「バスケが出来ない身体だって、この子から聞いたわ」

「……はい」

「でもこの子の為に今日だけはって、そう言っていたわ」

「…………はい」

「やりきれないの、この子の為でしょ?」

「………………は、はぃ」

 そんな言葉の数々はこれまでのことを思い起こさせ、視界は歪み、滲んでいった。
 鼻まですすり始めていることに気が付く頃には、喉の奥が痛くなって、みっともなく床を濡らしてしまっていた。

「あの子ね――今日、凄く楽しみに出て行ったのよ。朝早く起きるのなんて苦手な筈なのに、早番の私よりも早く起きて、にたにた笑いながらお弁当の準備をしてね」

 朝、先輩が手渡してくれたあれだ。
 そう言えば、まだ食べてなかった。
 傍らに置いたこの鞄の中に、まだ眠っている。

「何してるのって聞いたら、真琴くんの為に作ってるのって堂々と言ったわ。ちょっと前までは、誰かと何かあったらしいことを問い詰めても、何でもない、何もないって誤魔化してたのに」

 夏祭りの時くらいのことだろうか。
 浴衣を母に強請ったと話していた時、確かに、男の子と出掛けるとは言えなかった、と話していた。

「いつからだったかしら……一学期の中間試験が終わった頃からかしら。この子、別人みたいに色んな表情を見せてくれるようになったのよ」

 もう、声なんて聞こえていないようなものだった。
 視界は更に歪み、止まることのない吃逆のように喉が鳴る。
 夏祭りの日、先輩が真実を打ち明けてくれたあの日だって、泣かずに、それを受け止め前を向くことが出来ていたのに。
 この人の為にと思ってやって来た他でもない自分のせいでこうなってしまったことが、とにかくも悔しくて愚かで――悲しさより、後悔や情けなさばかりが募る。
 それを、コロコロと表情を変えて、実の母にまで話していて……そんなことを聞いて益々、自分が情けなくなる。

「君は――何を泣くの?」

 言葉は淡々と。
 しかし、どこか震えているようにも聞こえる声音で尋ねられる。

「……俺、最初は、ただの気まぐれから出会ったんです……社会人の姉と喧嘩して、家に帰るのが嫌になって、校内をうろついてた時にたまたま、先輩のいる部室に辿り着いて……」

「ええ、聞いたわ」

「そこに、一冊のノートが置いてあって……お母様は――」

「佳代、でいいわ」

「……佳代さんは、そのノートのこと、ご存知ですか?」

「多少は、ね。内容までは知らないけれど」

「そのノートに、俺が何となく書き込んだことから、麻衣さんと話し始めて……ただの子どもの駄々と、ただの偶然から出会っただけだったんです……でも……」

 喉が痛い。
 言葉を出すのも辛い。
 溢れる涙は止まらない。

 それでも――きっと、あの時の先輩より、今の先輩よりかは、辛くなんてない。
 それくらいのことをしてしまった自覚が、俺にはある。

「楽しかったんです、凄く……何か色々隠してることは分かってて、それを聞いて――いや聞く前から、もっと関わりたい、もっと知りたいって気になって……」

「――ええ」

「色んなこと話したいし、色んなとこに行きたいし、もっともっとこの人とやりたいことがったのに……その機会を自分から潰してしまったことが……何より先輩の時間を奪ってしまったことが、情けなくて、情けなくて……」

「情けなく、って言うなら――私も同じよ」

 佳代さんは、小さく言った。

「私――君には、本当に感謝しているの。片親で仕事ばかりの私には、この子のことを楽しませてあげることも、日々を満足させてあげることも……少しも、幸せに出来なかったから。何かしてあげたいけれど、何をして良いかも分からなかった。本当に情けないわ」

「そんなこと――」

 ない、とは軽々しくは言えなかった。
 確かに、遊びに連れて行ったりすることは出来なかったのかもしれない。片親で頑張り、仕事をすることで問題なく人を食わせて生活させるということが、簡単なことでないことくらい俺には分かる。
 けれど、佳代さんからすればそれは当然のことで、それ以上に、娘が笑って過ごしてくれることの方が大事だったんだ。

 そう。娘――子どもが。
 姉ちゃんと同じだ。

 姉ちゃんも、俺の親だったんだ。
 それに反発していた俺には、佳代さんに掛ける言葉が見つからなかった。

「余命が宣告されてから暫くは、抜け殻のように過ごしていたわ。酷く憔悴しきって、たまの土日に休みが被った時にも、私はいいからゆっくりしてて、って。避けようのない終わりが近付いてる自分の方が、うんとしんどい筈なのに……元々わがままは言わない子だったけれど、輪をかけて気まで遣うようになったわ」

 佳代さんは、横たわる先輩の頬を撫でた。

「それが――そう、中間の終わりからよ。帰って来たあの子は驚いたような表情をしていて、それが別の日にはふわふわ笑ってて、かと思えば何か悩んでいるような顔もして――ああ、良いことがあったんだな、楽しめる何かを見つけたんだな、って思ったわ」

「そ、それ――」

「ええ。交換日記――君と麻衣とが続けていたあの日々は、私の心まで軽くしてくれたのよ」

 佳代さんは、震える声で続ける。

「友達がね。出来たんだよって、嬉しそうに話してくれたわ。あんな笑顔、初めて見た」

「友達……」

「期末試験が終わって急に『遊びに行ってくる』って言い出した時は、耳を疑ったわ。余命の宣告がかかる前から人付き合いの苦手だったこの子が、日記の交換相手にそこまで心を許すなんてって……それがまさか、男の子だったとは、本当に思いもしなかったけれど」

 佳代さんは、仄かに笑った。

「ありがとう、榎くん。君は自分のことを情けないと言うけれど、私はそうは思わないわ。一度だけ、ちょっとした間違いはあったのかもしれないけれど、そんなこと気にならないくらい、この数ヶ月はこの子にとって楽しいものだったはずよ。きっとそう思っている。親の私が断言するわ」

「で、でも、俺……」

「喧嘩することなんて、友達なら当然よ。それだけ、君とこの子が親しくなれたってことじゃないかしら」

「えっ、そんな……」

「やりたいことリスト、この子にちょっとだけ見せてもらったんだけどね。運動をしたいって書いてあったのよ。昔から何回も言ってたわ。全て、私が止めてたけれど」

「心臓が悪いっていうなら、当然ですよね」

「ええ。その度、この子は『勿論やらないよ』って笑って言ってたけれど――初めて、反発されちゃったわね。親への反発なんて、この子の考えるやりたいことリストに入ってるかしら」

 佳代さんは、先輩の頬から手を離して、俺の方に向き直った。
 初めて、正面から目を合わせた。

「改めてありがとう、榎くん。君は、自分が思っている以上に、この子のことも、私のことも助けてくれたわ。胸を張りなさい」

「……はい」

 その言葉を素直に受け取るには、俺の気持ちは未だ前を向いていない。
 それでも何とか頷く俺に、佳代さんは鞄からメモ帳を取り出すと、さらりと何かを書いて手渡して来た。
 先輩の書く文字と、そっくりなだった。

「後で登録しておいて。携帯のアドレスと番号、それから家の番号よ。何かあったら遠慮なくかけてきなさい」

 そう言って、佳代さんは席を立った。

「も、もう帰られるんですか……?」

「一旦の無事は確認できたからね。それに君も、私がずっと居たんじゃ気まずいでしょ?」

「そ、そんなこと――俺の方が、部外者なのに」

「部外者でいることが気になるなら、さっきの話、この子にでも聞かせてあげて。あれは、私ではなくこの子に言うべきことよ」

 さっきの話。
 先輩に言ったこと、謝ったこと、それらを指してのことだ。

「……はい」

 僅かに和らぎかけていた胸の痛みが、戻って来た。

「君は――きっと、優しすぎるのね。自分でない他人に対して」

「本当に優しいやつは、あんな失言なんてしません」

「一度表に出た言葉を取り消すことは誰にだって出来ないけれど、それを自覚できるのは褒められるべきことよ。それが原因で十歩も百歩も後退してしまったって、一歩ずつでも戻っていければ良い。そうしようとする姿勢は、多少なり褒められるべきだわ」

 百歩後退しても、一歩ずつ――その言葉が、とにかくも心に刺さった。
 深く深く刺さって、また泣きそうになってしまう。

「それじゃあ私は帰るけれど――明日からも、自由に出入りしてくれていいわ。良いことも悪いことも、全部この子に聞かせてあげればいい」

「…………はい」

 俺は頷いた。
 何とか、頷くだけ頷いた。

 佳代さんは、鞄を肩に掛け直すと、俯く俺の肩をそっと撫でてから、病室を後にした。
 残された俺は――それでも、先輩の顔を見ることは出来ずに、看護師さんが声を掛けに来るまで、ただ俯き、モニターの無機質な音に耳を傾けるばかりだった。