足の痛みなんて、気が付けば意識の中から消えていた。
 それくらい夢中になって、俺はグラウンドまで走った。

 なんでリレーになんて出てるんだ。
 出ないって言ってたのに。

(違う……俺だ…!)

 俺の気持ちを理解する。
 やり残したことリスト。

 確かに書いてあった。
 思いっきり走りたいって。

 でも何で出られることに――それも言っていた。
 欠員が出たせいだ。
 そこに、自ら立候補したんだ。

「くそっ……くそっ、くっそ…!」

 俺があんなこと言わなければ。
 本当に言いたいこと、伝えたいことじゃなかったのに。

(間に合え…! 間に合ってくれ…!)

 無理矢理にでも手を引いて、あの列から外さないと。
 やりたいことはやる。言い出したことは止めない。
 それが、この数ヶ月でよくよく分かった。
 先輩はきっと走る。
 自分の身体のことなんて置いておいても、走ってしまう。

(頼むから間に合――!)

 刹那、ドッと沸き上がる歓声が聞こえた。
 人波に押されて中までは入れないけれど、遠目に見える様子から、最後のバトンが渡ったようだった。
 最後のバトン――アンカーを、先輩は走っていた。

「なんで……」

 慣れない身体を必死になって振る先輩。
 とても不細工な、運動なんてやって来なかった走り方。
 それでも必死に、懸命に、繋がれたバトンを握りしめて。
 一位で渡された後から、一人、二人と抜かされてゆく。
 それでも、それを許してくれたクラスメイトの声援に応えるかのように、我武者羅に身体を動かして……。
 そのまま、あっという間に最下位まで落ち込んでしまうけれど、それでも――

「せんぱ――が、頑張れ……がんば――!」

 言いかけた矢先、先輩の足がもつれた。

 ——違う。限界が来たのだ。

 こけてしまったのではない。
 倒れてしまったのだ。

「先輩ッ…!」

 糸が切られた人形のように、先輩は力なく顔から倒れ込んでしまい、そのまま動かなくなってしまった。

「あちゃー」

 事情を知らない女子生徒の声が耳を打つ。
 瞬間、俺は走り出していた。

「どいて――どいてくれ…!」

 力ずくで人波を掻き分け、先輩の元へと急ぐ。
 手足の一本、指の一本も動かしていない。

「どいてくれ…!」

 半ば殴るように。
 先頭にいた最後の一人を押し退けて、俺はそのまま先輩の傍らまで走って跪いた。

「先輩…! 先輩ッ…‼」

 無造作にも抱き起す。
 目は閉じられ、口も動かさない。
 息をしているのかどうかすら判断出来ないその様子に、全身から嫌な汗が噴き出した。

「だ、誰か、救急車…! はやく、はやく呼んでくれ…! 誰でもいいからッ…!」

 生徒たちは動かない。
 先輩がどのような状態にあるのかなんて、本当に一部の人間しか知らないんだ。

「早く……早くしてくれ…! 悟志…! 姉ちゃん…!」

 叫ぶ声は、ざわつく人波にかき消される。
 なんで、こんな……。

「どきなさい」

 低い体育教師の声。
 担架を持ってきたその先生は、後ろに連れて来たもう一人の先生と共に先輩を担架に乗せると、そのまま何も言わずに運んで行った。

「待っ――!」

 待ってください。
 そう言いたかったのに、声は掠れ、迫り来る嗚咽に止められてしまった。
 周囲にいた生徒たちのざわつきが大きくなった。

 それから少しして、救急車が校舎の方へと走ってゆくのが見えた。