「お疲れ様、真琴くん」

 今日も今日とて、練習を終えた俺のことを、先輩が校門で出迎えてくれた。
 今日も今日とて、飽きもせずに「ういー」と肩を殴るやつらに囲まれて。

 俺が皆に混ざって練習をさせて貰い始めてから、そのまま皆とここまで来ることが当たり前になって、その度少し話している内、先輩は皆にも少しだけ心を開き始めていた。
 最初は俺の背中に隠れるばかりだったところから、今では隣に立って、その弄りを笑って流せる程になっている。

「ほんとごめんなさい、先輩。毎度毎度」

「ううん。真琴くん、楽しそう」

 先輩は、とても純粋な笑顔でそう言う。
 それが見られただけで、練習の疲れなんて簡単に吹き飛んでしまいそうな気になる。

「先輩さんは、どれか出るんすか?」

 元仲間のやつが一人、そんなことを尋ねる。

「――いえ。私、身体が弱くて運動出来ないから」

 苦笑いしつつ、先輩はそう返した。

「それは残念――けど! それなら、遠慮なくマコを応援しに行けますね!」

「ふふっ。はい、そうですね。皆さんも、頑張ってくださいね」

「モチのロン! んじゃマコ、また明日なー!」

 悟志の声、手を振る他の皆。
 俺の方も、疎遠にすらなっていたバスケ部の元仲間と、存外早く当時の空気感を取り戻した。

「おう、気をつけてな」

 控えめに手を振ると、皆は俺と先輩を見てわざとらしく笑いながら、右の方へと進んでゆく。
 ふと隣を見ると、先輩も同じように手を振っていた。

「麻衣先輩は、別にいいんですけど」

「いいお友達だね。楽しそうな真琴くん見てたら、私も挨拶したくなっちゃった」

「ちょっとでも気を許したら調子に乗るんで」

「なぁに、ヤキモチ?」

「……行きますよ」

「ふふっ。うん、帰ろっか」

 何も悪いとまでは言わないけれど、何かこう、何かちょっと……。
 そんな俺の内心を見透かしたように、先輩は悪戯っぽく笑う。

 恥ずかしいような、悔しいような。
 先輩は最近、俺のことを折に触れてつつくようになってきた。

「球技大会、もうちょっとだね」

「ええ。悪夢のような練習の日々も、そろそろ終わりです」

「悪夢だったんだ」

「そりゃあ、二年もまともに運動してませんでしたから。体力を取り戻すだけでも一苦労です。まだまだ――もっとも、球技大会のバスケは、十五分だけですけど」

「それって長い? 短い?」

「普通の試合は十分を四回なので、トータルで言えば半分以下です。だけど代わりに、実質休憩時間のない十五分なんで、多分そこそこきつくなります。ずっと出ずっぱりってことはないと思いたいですけど」

「それはちょっとしんどいね。大丈夫そう?」

「んー、まぁ何とか」

 十五分丸々走り続ける、なんてことはしたことがない。
 マラソンなんかで長距離長時間を走ることはあったけれど、当然全力疾走なんてしなかった。
 走りつつ、飛びつつ、踏ん張りつつ――全身をあらゆる方法で動かし続けるバスケは、とにかくも体力の消耗が激しい。
 シュート練は最低限で、殆どの時間は体力作りに充てている程だ。

「それより先輩、明日どうします?」

「え、明日?」

 と、先輩が意外そうな顔で聞き直す。

「ついさっき、友達さんたちが『また明日』って言ってなかった?」

「え? あー……そっか、そうだった。ストリートのコートに集まって練習って約束だった……」

 明日は日曜日。
 部活はなく、どこで練習しようかということを、今日の練習中に決めていたのだった。
 つい先刻したばかりの約束なのに、忘れてしまっていた。

「せっかくの日曜日なのに。今から棄権しようかな」

「だーめ。それで負けちゃったら、私ちょっと悲しいかも」

「先輩とどっか行きたいんですよ」

「それは私も同じ。でも、せっかくって言うなら、真琴くんだってせっかくの機会なんだから。優勝、私のために獲ってくれるんでしょ?」

「……先輩と遊びたい」

「ふふっ。なんか子どもみたい。真琴くん、素直になったよね」

「それ、先輩だって同じでしょ」

 ちょっと前までは、そんなにスラスラと『私も』なんて言わなかった。
 ……俺だって、同じだけど。

「まあでも、そうだよな。先輩に優勝気分を味わわせるって、約束しましたし」

「そうそう。それに私、真琴くんが練習してる姿、ちょっと好きなんだ」

「姿、って……え、先輩まさか」

「うん。たまーに、部室抜け出して、ちょっとだけ見に行ってる」

「うわ、恥ずかし……完璧な試合だけ見て欲しいのに」

「そう? かっこいいけど」

 なんて言葉に、思わず言葉に詰まる。
 先輩は最近――ほんと、ちょっと、ストレートが過ぎるようになってきた。

「……そういうこと、あんま言わないでください」

「そういうこと?」

「かっこいいとか、その……好き、とか……冗談でもあんまり――」

「冗談じゃないからね。全部、本音」

「……俺じゃなかったら、勘違いとかされますよ」

「真琴くんは、勘違いしてくれないの?」

「は…………えっ……え、なんで……?」

 喉の奥が、一気に渇いた。
 瞬間、全身総毛立つのを感じた。
 思わず立ち止まって、一歩二歩と離れてゆく先輩の方を見つめる。

「良いよ。勘違い、してくれても」

「い、良いって……」

「私は、真琴くんに勘違いして欲しい」

「そん……な、なんで――」

 慣れて来た筈なのに。
 二人でいることも、二人で喋ることも、冗談を言い合うことも。

 冗談――冗談には、思えない。
 思えないから、上手く言葉を返せない。

「どうしたの?」

 振り返った先輩が言う。
 ふんわり、明るく笑って、ほんの微かに頬を染めて。

「……なんでも、ありません」

「――ふふっ。ほら、帰ろ」

 先輩が手招く。
 俺は、ゆっくりと歩みを再開した。

(先輩、なんで……)

 どうして、そんなことを言うのか。
 どうして、欲しい言葉を言ってくれるのか。

 恥ずかしいし、顔も熱くなるし、心臓だってまた五月蠅くなった。
 もしそうならどれだけ嬉しいかと、あれから何度も想像した。

 ——けれど。

 それを口にすることが、あれから凄く怖くなってしまった。
 口にしたら、良くも悪くも関係性は変わってしまう。
 変わってしまったら――仮に良い結果になったとして、その幸せな時間は、あとひと月半しかない。

 思いを伝えないことは、絶対に後悔する。けれど、伝えることで、後々苦しい思いもするかも知れない。
 ただの友達でいた時より、ずっとずっと臆病になってる。

『もしあの子のことを、そういう意味で好きになったらさ。好きって気持ち、ちゃんと伝えてあげてね』

 姉ちゃんはあれを、どんな意味で言っていたのだろうか。
 麻衣先輩の為かと思っていたけれど、ともすれば、もしそうなった時の俺に向けても言っていたりするのだろうか。
 先輩のことを知っていたからこそ、そうなった未来で、口にするか否かと悩む俺に。

「――ねえ、真琴くん」

 先輩が呼ぶ。
 俺は無言のまま、先輩の方へと顔を向けた。

「私ね。もう、嘘も冗談も、あんまり言わないって決めたの」

 どうして、と心の中で呟く。

「ほら、私の時間、もうあと少ししかないでしょ。だから、今から嘘とか冗談を言っちゃうと、後悔しそうな気がして――全部全部、言いたいこと、本音ってやつばっかり言うって決めた」

「……それ」

「だからね。さっき君に言ったことも、ちゃんと全部本音。私ね、君には、勘違いして欲しい」

「先輩……」

「だから――だから、ちゃんと返事、聞かせてね。心の整理がついてからで良いからさ」

「……先輩。お、俺――」

 何かを言いかける俺から、先輩は足早に一歩、二歩と踏み出した。
 見送る先は交差点を左に曲がった道――気が付けば、いつもの分かれ道まで来ていた。
 横断歩道を渡り切ったところで、くるりと振り返る。

「でも、あんまり気長には待ってあげないよ」

 先輩は――

「私、もうちょっとで、いなくなっちゃうんだからさ」

 とても苦しそうに、言いにくそうに。
 そう口にすると、そのまま家の方へと歩き出した。

(先輩は俺を……俺、さっき……)

 自分でも、何を口にしようとしたのか分からない。
 分からないけれど、衝動的に口を開いて、しかしすぐに引っ込めた。

 でも――迷っているくらいなら、今すぐにでも口にしておけば良かった。
 整理はついていなくても、感情をそのまま口にするだけでも良かった。

 伝えられれば、それで良かったかもしれない。

 そんなことを、家に帰って冷静になってから、考えた。