「こ、この世界に、って……」

 聞き返す俺に先輩は、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す。
 過呼吸気味にさえなりかけていた先輩を落ち着かせる為、俺は肩を支え、落ち着ける場所を探して歩いた。



 近くに公園があって良かった。
 自販機でお茶を買って、ベンチで座ってもらっていた先輩に手渡す。
 それを力なく受け取って、口は付けないまま膝の上に持ってゆく。
 セミの鳴き声すら聞こえない静寂の中、ジジ、と電灯が明滅した。
 どこから話せばいいか――と先輩が口を開いたのは、そこに辿り着いてから、小一時間程も経った頃だった。



 先輩は、幼少期から入退院を繰り返す生活だった。
 それは俺も聞いた。
 ただその理由が、産まれつき心臓が弱かったためなのだと、先輩はまず話した。
 何のことかも分からず病院へ行く日々が続く中、嘘の笑顔ばかり向けては一人すすり泣く母の様子から、自分はあまり良い状態ではないのだと、幼心にも理解していたと言う。
 その心臓が、今年の四月の通院時から更に弱り始め、半年の余命を宣告されていたのだということを、先輩は嗚咽交じりに吐き出した。
 どんな言葉を掛けたら良いか分からなかった俺は、咄嗟に、その震える肩を抱き寄せていた。
 先輩はそれを拒むでも、突き放すでもなく、ただ頭を、身体を預け、声も出さずに泣き続けるばかり。
 いっそのこと、大きな声でも上げて泣きじゃくってくれたら――悔しさやしんどさを押し殺すようなその泣き方が、俺にまで伝播する苦しさを、却って強くした。



 どれだけの時間が経ったろうか。
 気が付けば涙も枯れ、嗚咽も聞こえなくなった。
 先輩は、頭を俺の肩に預けたまま、動かない。
 ジジ、ジジ、と音を立てて、電灯は明滅を繰り返す。
 皮肉にも思えるそれは見ないようにして、俺は思い切って先輩の手を取った。
 小さな手が、キュッと握り返してくれた。

「四月に言われた半年って、どのくらいなんですか……?」

「激しい運動や無茶なことをしない前提で、凡そ十月の末から十一月の頭、くらいまでです」

「十月末……」

 八月に入ったばかりの今日から考えたら、長くてあとふた月半。
 ふた月半――。

「――夏休み、どこか行きたいところはありますか?」

 俺の質問に、先輩は――今までだったら、え、と聞き返して来ていたことだろうけれど。

「また、本屋さんに行きたいです」

 俺の言いたいことを察してか、素直に、そう答えてくれた。

「はい。行きましょう」

 俺は、少しだけ強く手を握った。

「水族館って、行ったことがなくて――」

「連れて行ってあげます」

「美味しい喫茶店の話を、同じクラスの子がしていました」

「ご馳走します」

「……紅葉狩りって、ちゃんとしたことがありません」

「綺麗な場所を知ってます」

「………ゆ、雪だるま、作ったことがないんです……病院でも、家でも、外に出るのは止められてたから……」

「でっかいやつを作りましょう。うんとでっかい、俺や先輩くらいでかいやつ」

「は……初詣にも、行って……お、おみくじ、見せ合って……」

「日付が変わる夜に行きましょう。零時になったら、一緒にあけましてって言いたいです」

 秋のこと。冬のこと。
 やりたいこと、やり残したことを、思いつく限り。

「……榎さん」

「はい」

 先輩は、俺の手を力一杯握りしめる。

「一緒に……いたい、です……」

「――はい」

 叶えられることには実際のところ、限りがあるだろうけれど。

「俺、何でも付き合います。どこにでも行きます。連れて行ってあげます。だから、やりたいこと、やり残したこと、全部全部、俺に教えてください」

「……うん」

「――違う。付き合います、じゃない。付き合いたいんです。先輩に。俺が。俺も、一緒にいたいから」

「…………うん」

「出来ることは、全部しましょう。元気に笑って暗い気持ちを吹き飛ばしていれば、余命なんて、きっと向こうの方から忘れてくれます。忘れて、気付いた時にはおばあちゃんになってます。雪だるまだって、何回でも作れます」

「…………うん……ぐすっ……う、ん…」

 暗い話は、今日までだ。
 最後の最後の、最期の時まで、楽しいことばかり考えていよう。楽しい思い出だけを、先輩には作ってもらおう。

「あり、がとう……真琴くん」

「…………はい」

 もう『ごめんなさい』なんて、口にさせないでいいように。
 泣き出しそうなくらいズキズキと響くこの胸の痛みを、俺も忘れないでいよう。