……とは言え。
 まさかヨーヨー釣り、射的、くじ引き、わなげ、型抜きと、全部回ってあんなに笑うとは思わなかった。
 数時間で、一生分ぐらい笑った心地だ。頬が痛い。
 やったことがないというだけで元々器用な方なのか、先輩はどれも、すぐにコツを掴んで悠々と遊んでいた。けれどもどこかポンコツでもあって、それに俺が吹き出すと、頬を膨らませて憤慨していた。

 金魚すくいもやるにはやったけれど、先輩は家に持ち帰って育てることは出来ないからと、すくった子たちはビニールプールの中に戻していた。うちもうちでそんな環境はないから、同じように戻してやった。
 変わった客二人に屋台のおっちゃんはビックリしていたけれど、じゃあ代わりに持っていきなと、参加賞の飴をどっさりくれた。

 それを舌の上で転がしながら、すっかり暗くなった夜更け、二人並んで帰路を進む。
 先輩は、最後に立ち寄った屋台で買ったリンゴ飴を齧りながら。
 前にも後ろにもこれでもかというくらいいた人の波は、気が付けばまばらになり始めていた。

 カラン、コロン、カラン、コロン。

 道行く人々の話し声の影に、先輩の下駄の音が響く。
 規則正しいその音を聞いていると、どこか心が落ち着く心地と同時に、楽しい時間の終わりが確実に近付いているような、何とも言えない寂しさや物悲しさも覚えた。

 足を止めて、遠回りをしようとか、もっと一緒に居たいとか、そんなことをすんなり言えれば良いのに。
 もう嬉しいことは十二分にあった。満足している。
 満足はしているけれど、だからこそもっともっとと思う自分もいる。
 本当に厄介なやつだ。本当に。

 カラン、コロン――

 下駄の音は止まない。
 更に人の数が減った通りに、その音はよくよく響く。
 先輩は……どう思っているんだろう。

 なんて考えるのは、ひょっとしたら贅沢なことだろうか。
 こんな気持ちは一方的なもので、先輩も同じとは限らない。
 そんなことをぐちゃぐちゃあれこれ考えてしまうから、欲の一つも吐き出せないのだ。

 カラン、コロン……カラン……コロン…………。

 下駄の音が、少しゆっくりになった。
 けれど、何を言われるでも、何をされるでもないから、俺も自然と歩みを遅くして、その横に並ぶだけ。

 カラン……コロン…………カラン――

 下駄の音が、止んだ。
 そう理解した頃には、俺は数歩先の方にいて――先輩の方を振り返ると、足元に目を落としながら、巾着をギュッと握りしめている姿が目に入った。
 気が付くと、辺りに人の気配はなくなっていた。
 足音も話し声も、車の通る音さえも無くなって、俺たち二人だけがこの場に立っていた。

「え、と……」

 先輩が、小さく声を出した。
 何か言いたげなその様子に、俺はまた、胸がキュッと締め付けられるような心地を覚える。
 続く言葉を待つ。けれどもずっと、言葉にならない声ばかりが耳を打つ。

「あの、その……」

 視線が泳ぎ始めた。
 それと同時に、街灯に照らされる頬が染まり始めていることにも気が付いた。
 緊張――それが、どの類の意味合いを孕んでいるのかは分からないけれど。
 言いたいことは、俺にだってあった。

「先輩。俺――」

 言いかけた、矢先のことだった。

「え、榎さん…!」

 俺の言葉を制するように、先輩が俺の名前を強く呼んだ。
 思わず言葉を切って、そちらに意識を向け直す。

「き、今日、とっても楽しかったです…! あ、ありがとう、ございました…!」

 勢いよく頭を下げて、そんなことを言う。

「えっ…!? い、いや、それは俺の方こそ…! ええ、本当に……ありがとうございました!」

 釣られて頭を下げる俺に、先輩は目をギュッと瞑って頷いた。
 ……違う。何かが。
 直感したのは、先輩の肩が僅かに、ほんの僅かに、震え始めていることに気が付いたからだった。

「せんぱ――」

 思わず手を伸ばす俺から、先輩は首を振ると、一歩、大きく退いた。
 違う。これはきっと違う。
 頬が染まっていたのは、そういう意味じゃない。

「た、楽し、かった……楽しかった、なぁ……」

 肩の震えはやがて大きく強くなって、それと同時に、声も嗚咽交じりの鼻声へと変わっていった。

「楽しかったなぁ……帰りたく、ないなぁ……」

 そんな言葉は、男からすれば飛んで喜ぶべきものなのに。
 この数時間、いやこの数日で得た動悸とは全く異なる鼓動と、それに比例して強くなる焦燥感。
 その先の言葉は口にして欲しくない――そう思える程の、胸のざわめき。

「あり、がと……ご、ごめ、なさ……わたし、榎さん……嘘、ついてました……」

 ふとして上げられる顔は、目元から溢れる大粒の涙が伝って、くしゃくしゃに歪んでいた。
 強がった笑顔はぎこちなく、俺の不安を増長させる。

「う、うそ……?」

 聞きたくないのに、俺は聞き返していた。
 その言葉に先輩が頷くのを受けて、俺はまた、口の中が一気に渇いてゆく感覚に襲われた。

「わた、わたし……こんなに楽しいなら……こ、こんなに、別れが惜しいなら……誘わなきゃ、良かった……手なんて、繋がなきゃ良かった……一緒にいる時間が楽しくて、嬉しくて……誘っちゃ駄目なのに、あ、あれがしたい、これがしたいが、止められなくて……」

 楽しい。

 惜しい。

 嬉しい。

 駄目。

 そんな言葉が並ぶだけで、俺は嫌なことばかり考える。
 しかして現実とは非情なもので、良いことより悪いことの方が、往々にして的中するもので。

「ごめん、なさい……ごめんなさい、榎さん……」

 どうして謝るの……。
 胸の中で尋ねた俺に、答えるように。
 際限なく溢れる大粒の涙の中、鼻水までみっともなく流す先輩は、とうとう口にしてしまう。
 強がった笑みも忘れて、歪みきった顔で。



「私……秋には、も……もう、この世界には……いないんです……」