帰りがけ、駅前で例のクレープ屋を覗いてみたら、今日はもう片付け始めてしまっていたようで、目的その二は一旦お預けになった。
 しかし先輩は、当初のとりあえずの最終目的でもあったからか、『楽しみがまだ残っているよう』だと言って笑っていた。

「一学期お疲れ様、なんて名目でしたけど、結局、行ったのは本屋だけでしたね」

 隣を歩く先輩に問いかける。
 茜色に染まる空が、先輩の横顔を鮮やかに縁取っている。

「お、お食事もしましたよ」

「まぁ、それは――何も食べずにさようならってのは、流石に無いですからね」

 時間が時間だし、それこそ本屋にだけ寄って帰るというのは、あまりに無い。

「先輩は、リフレッシュになりました?」

「は、はい、とても…! す、少し緊張しました、けど……」

「……ええ、それは俺も」

 女の人と二人で買い物、二人で食事だなんて、どちらも人生初のことだ。
 肩の力が抜けたのだって、帰路に就いてホッとした今になってからだ。

「夏休みになりますね」

「そう、ですね」

「先輩は、やっぱり部活――いや、受験生ですもんね。どうなさるんですか?」

「え、えっと……学校、行きます。おそらく、毎日……」

「部活と勉強?」

「……ええ、そんな感じですね」

「ふぅん……」

 毎日、か。
 先輩が携帯電話を持ってない以上、夏休み、互いに連絡を取り合うことは出来ないけれど、学校に行くと言うのであれば。

「そ、それ――」

「え、榎さんも…! えと、いつでも、来てくださって構いません…! き、気楽に、ふらりと、来てくださって……来て、ください……」

「ぁ――は、はい、行きます…!」

 先に言われたのが、言おうとしていたことの答えであったことが嬉しくてか、俺は思わず大きく答えていた。
 それに驚き小さく震える先輩を見て、思わず顔を逸らしながら謝る。

「あ、でも先輩、勉強もあるんじゃ……?」

「――いえ。構いません。その……お、お喋り、したいので……」

「そうですか……? 分かりました。じゃあ、たまに顔出します」

「は、はい……嬉しいです」

 俯いているせいで、表情を窺うことは出来ないけれど。
 声色は、少しだけ弾んでいるように聞こえた。
 なんていうのは、俺が勝手に前向きな捉え方をしているせいだろうか。

「夏休みか……先輩、何かやりたいこととかあります?」

「やりたいこと、ですか?」

 ふと、俺の方を見上げた。

「ええ。せっかく高校最後の夏休みなんですし、やりたいこと、せっかくだから色々やりましょうよ。部活もないし暇なんで、何でも付き合います」

「やりたいこと……やりたいこと……」

 先輩は、また下の方に目を落として考え始めた。

「……あれ? でも最後っていうなら、それこそ勉強が優先ですよね……やっぱ今の無し、なんて――」

 言いかけた矢先、

「……夏祭り」

 先輩が、小さく呟いた。
 思わず聞き返す俺に、先輩は立ち止まり、俯いたままでもう一度口を開く。

「な、夏祭り、行きたいです……浴衣とか、着て……榎さんと……ふ、2人で、行きたい……」

 そう話す先輩の肩が小刻みに震えているには、すぐに気が付いた。
 気が付いてしまったから、その言葉の重みを考えた。
 夏祭り――それも、浴衣を着て、なんて。
 本屋に行く道中、人混みに眩暈さえしそうな程だった人が。

 先輩にとってそれは、きっと簡単なことじゃない。
 行くのも、口にすることさえも。

 それなのに行きたいと――俺と行きたいだなんて、はっきりと口にした。

(俺と……俺と…………)

 どこかに追いやった筈の言葉がまた、脳裏に浮かんだ。

『もしあの子のことを、そういう意味で好きになったらさ。好きって気持ち、ちゃんと伝えてあげてね』

 心臓が、ドッと強く跳ねた。
 身体が熱くなって、急速に喉が渇く。
 考えないように、意識しないようにしていたのに。
 そう話す先輩の表情が――俯いていても分かるくらいに紅潮したその顔が、俺をそうさせてくれない。

 高校最後――高校最後、か。

 もし来年があるとして、その時俺は、彼女は、同じ学校の先輩後輩ではなくなっている。
 たまたま交換日記を始めた、遠いようで近くにいる人では、なくなってしまう。
 高校最後。同じ高校に通う、最後の年、最後の夏休み。
 最後の、夏祭り。

「…………喜んで」

 行きたい、だなんて幼稚な言葉では、駄目だと思った。
 意を決して俺は、苦しいくらいに強く打つ胸を押して、細く弱々しい声ではあったけれど、何とか言葉を出した。
 それに先輩は、何も言わず、ただ小さく頷き、涙を流して微笑んだ。
 何でそんな顔を――そう聞きたい、聞きそうになった俺を制するように、気が付けば辿り着いていたいつもの分かれ道から、先輩は家の方へと向かって走り出した。