期末試験が無事終わり、テストの返却もこれで最後。
 結果は――悪くはない。いつも通り、平均のちょっと上だ。
 もっとも今は、試験の結果なんでどうでも良くて。
 ようやく、今日から部活動が再開する。
 溜まりに溜まった面白話でも綴られた日記が出迎えてくれる――

「……なんて」

 そんな筈はなかった。
 一緒に帰らなかったのは、期末試験本番の五日間だけ。テスト中に面白いことなんて、そうそうある訳でもない。
 期末試験が始まるまでの一週間、俺たちは初日と同じように、校門で待ち合わせて一緒に帰った。
 急激な変化こそ無かったものの、少しずつ慣れて来てくれたのか、先輩の方から口を開く機会が多くなったように感じる。
 それでもやっぱり、人と自然と話すことそれ自体はまだ難しいようで、長くも多くも続かない会話。
 でも、寧ろそれくらいで良かったと思う。急に慣れてあれこれ話されても、それはそれで俺の方が委縮してしまっていたことだろう。
 ゆっくりゆっくり、一歩ずつ、いや半歩ずつくらいの進歩であるからこそ、俺の方も、ある程度冷静に先輩と話していられる。
 異性と二人きりで話すなんてこと自体、俺だって殆ど経験のないことだ。

「お疲れ様、でした、榎さん」

 準備室の方から出て来た先輩が、いつもと変わらない声色で言う。

「先輩もお疲れさ――」

 振り向いた瞬間、思わず言葉が途切れた。
 夏服は試験前から目にしていたが、それに似合うポニーテールに、髪が結われている。
 サラサラの長い黒髪はいつも、何もせずただ下ろされているばかりだったから、とても新鮮だ。

「榎さん……?」

「へっ…!?」

「わっ…!」

 大きな声で驚く俺に、先輩も釣られて驚き、一歩下がる。
 その小さな動きだけで、髪が躍るように揺れる。

「あっ、ご、ごめんなさい…! その、えと、髪型……」

「髪……? あ、はい……七月に入りましたし、暑くなってきたので……」

 そう言ってパタパタと手で仰ぐ仕草は、とても控えめだ。

「あの……へ、変、でしょうか……?」

「えっ、な、なんで……?」

「だ、だって榎さん、何も言ってくれない、から……」

 寂しそうな、悲しそうな顔で先輩は言う。

「そんなこと――! めっちゃ似合ってるなって思ったから、言葉が出なかっただけです…!」

 頭の中で考えていた気の利いた言い回しなんて全部忘れて、慌てて首を振りながらそう言う俺に、

「あ、えっと……じ、冗談、です……」

 俯き、申し訳なさそうに、小さくそう言った。

「あぇ……冗、談……?」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい…! ちょっと、揶揄ってみたくなって――で、出来心で…!」

 ガバっと頭を下げ、ごめんなさいと繰り返す。
 まさか、この人から『冗談』なんて言葉が飛び出すとは思わなかった。
 さっきとは別の意味で、言葉を失ってしまった。

「お、怒りましたか……?」

「え、と……いえ、別に怒りはしませんけど……」

 申し訳なさそうにおずおずと頭を下げる仕草さえ、どこか可愛らしい。

「あの……とてもよくお似合いです、ほんと……」

「へっ…!? あ、あぅ…! あ、ありがと、ございます……」

 勢い任せじゃない言葉に、先輩は真っ赤になって固まった。
 それが何だか可笑しくて思わず吹き出すと、先輩は頬を膨らませて準備室の方へと戻って行った。
 やらかしてしまったような、そうでもないような。
 何とも言えず頭を掻きながら、俺はいつもの椅子に腰を下ろす。
 手に持ったノートを開き、その上にペンを置いて――特に何も浮かんで来ないままの時間を、何となく過ごす。

「期末、終わりましたね」

 思っていたことが、ふと口を突いて出て来た。

「そ、そうですね」

 先輩が、短く返答してくれた。準備室の扉を開けたままだ。

「試験明けって、何かパーッとやりたくなりますよね」

「パーッと、ですか?」

「ええ、パーッと」

「た、例えば、どのような……?」

「うーん……思いっきり寝るとか」

「……そ、それ、榎さんは普段からやってそう」

「心外だなぁ。まぁ、遠からずですけど」

 家事をしていない時間は、適当な本を読むかテレビを見るか、大体ダラダラと過ごしている。
 先輩は、きっと真逆なんだろうな。
 普段からコツコツと勉強をしていそうだ。

「パーっと、パーっと……」

 繰り返し呟く先輩。
 思わずそちらに目を向けると、ふと何かを思い出したように顔を上げた。

「あ、そうだ……好きな作家さんの新刊、明日発売なんだった……」

 呟くように零れた声は、初めて聞く、敬語じゃない言葉。

「新刊?」

「ひゃっ…! き、聞こえてましたか…!?」

「え、今の独り言…!?」

「う……うぅ……」

 ハッとしたかと思うと、しゅんと丸く小さくなる背中。
 両手で頬まで隠してしまった。
 こういう小動物、どこかにいたような気がする。

「で、誰の新刊です?」

「あ、えと、亜久里清香(あぐりきよか)さんって人の――」

「えっ、探偵喫茶の新刊、明日なんですか…!?」

 大声を上げる俺に、先輩が振り返る。
 咄嗟に頭を下げて、心を落ち着ける。

「ご、ご存じなんですか?」

「ええ。前はあんまり読書が好きじゃなかったんですけど、何となく表紙買いしたそれにすっかりハマっちゃって」

 口には出来ないが、きっかけは、バスケから離れた苛々からだった。
 何となくモールの中をうろつき、ふと立ち寄った本屋で出会った一冊だ。

「そうなんですね……」

 感心したような顔で、先輩が頷く。

「――俺、そういう人間に見えません?」

「う……あ、あまり……」

「まぁ、ですよね」

「あっ、ご、ごめんなさい…!」

「あはは、別に構いませんって。自覚はありますから」

 それこそ、昔はあまり好きではなかったのだから。

「あ、あの……お好きなお話とか、あったりしますか……?」

 先輩が、控えめに尋ねる。
 ふと、友達がいなかったと話していたことを意識してしまう。
 いなかったからには、こうして誰かと好きなものの共有なんてことも、したことがないのかもしれない。
 控えめながらも、目の奥は、期待からかとてもキラキラしている。

「うーん……俺は三巻ですかね。ライバルのお茶屋さんとの、何でか巻き込まれた謎解き一騎打ち」

「わ、私も…! やれやれ勘弁してくれって感じで巻き込まれたのに、最後にはビシッと謎を解いていつもの日常に戻って行くあの感じ…!」

「そうそう。で、それに腹を立てたライバルが、また次の巻で喧嘩を吹っかけてきて――」

「含みあり気な感じで始まった冒頭二ページだけで、事もなげにあっさり解決しちゃうんですよね!」

 キラキラと輝く瞳で、気が付けばずずいと前のめり。
 一瞬訪れた無言の時間に、先輩はハッとして顔を逸らした。

「ごご、ごめんなさい…! 好きなことになると、いっつもこうで…!」

 慌てて机に向き直りながら、いつもはあるはずの横髪を撫でて、あれ、とポニーテールの方を掴み直して真っ赤になって。
 好きなものを話すといつもの調子でなくなるなんて、悪いことじゃない。寧ろそれだけ好きなんだなって分かるから、話しているこちらも嬉しくなる。
 こんなに楽しそうな、嬉しそうな表情も、初めて見るし。

「明日――明日、土曜日か」

 期末は終わり、試験の返却も終わり、一学期が終わる。
 ――丁度良いかな、と思う。

「あー……その、先輩。もしお暇だったらで良いんですけど……あ、明日とか、一緒に買いに行きませんか……?」

 なんとも情けない言葉と声音。
 もっとスマートに誘えれば良かったのに。
 ほら見たことか、先輩が口を開けて固まってしまった。

「や、その、忙しいならアレですけど、えっと――あ、そう期末…! 終わったし、一学期お疲れ様会ってことで! ついでに、思い切ってクレープも、食べに、とか……」

 情けなくて俯く俺。
 顔が熱い。
 怖くて表情を窺うことは出来ないけれど――沈黙の続いた数秒後、小さく笑う声が耳を打った。

「良い、ですね、それ……一学期、お疲れ様会」

「……え、ほ、ほんとに……? 俺が一緒で良いんですか……?」

 顔を上げると、淡く微笑む先輩と目が合った。
 ドクン、と心臓が強く打つ。

「正直なことを言うと、本屋さんに行くのも、ちょっとだけ怖いので……知らない人、いっぱいだから……だから、一緒に来てくださるの、とても心強いです」

 いつものように、少したどたどしくはあるけれど。
 目を逸らさずに、ハッキリとそう言ってくれた。

「そ、そう、ですか……」

 少しずつではあるけれど、先輩は俺と話す時、頑張って目を見てくれるようになってきた。
 それと同時に、自分の気持ちや話したいことも、遠慮なく話すようになってきた。
 その変化に――ちょっとだけど大きな勇気に、俺も応えたい。
 背筋を伸ばして、今一度。
 しっかりと目を見て、もう一度。

「先輩――よろしければ明日、一緒に本屋に行きましょう。せっかくだからご飯も食べて、帰りにクレープも買って、目一杯羽を伸ばしましょう」

「よろしければ、なんて、とんでもない。嬉しいです」

 先輩は、ふわりと微笑んだ後、

「私なんかで良ければ、喜んで」

 恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに、明るく笑って頷いた。
 それはまるで、初めて見る花が初めて開くのを、目の当たりにしたようで。
 心臓がキュッと掴まれるような、痛いとさえ思える程の高鳴りを覚えた。



 少しして落ち着いた後で、明日の予定をある程度詰めて。
 丁度いい頃合いに響く下校のチャイムを機に、俺たちは一緒の道を帰った。