『もう少しで、一学期の期末試験が始まりますね。部活動も休止期間になりますし、少しの間、貴方ともお話しが出来なくなってしまいます』

『部室で勉強するとか』

『先生が鍵を貸してくれませんよ』

『それはそうか。先輩は特に受験生ですし、その辺り先生は許さないですよね』

 うちの学校は、男女共通で学年毎に上履きの色が違う上、女子は特に紐ネクタイの色でもそれが分かる。一目で、こいつ何年だな、と分かってしまうのだ。
 三年だと分かる相手である先輩に、むざむざ鍵を渡すような真似はするまい。

『テスト期間中の部活動の休止って、うちの高校は何日間なんですか?』

『試験前一週間から試験の五日間を含む、計十二日間となります。凡そ二週間ですね』

『半月も交換日記が出来ないのは、少し寂しいですね。何だかんだ毎日続けてるから、習慣みたいになってますし。下駄箱に入れてやり取りするとか?』

『誰かとの噂でも立てられて、貴方が不快な思いをなさらないのであれば構いませんけれど。ラブレターのようですし』

『俺は別に何でも良いですけど、そうなったら先輩にも迷惑がかかりますもんね。というか、それ以前に先輩は受験生だし、俺もそこそこ頑張らないとですし。日記も、一旦お休みですかね』

『そうした方が賢明かも分かりませんね。私も、聊か寂しい思いですが』

 付け加えられた言葉が、どれだけの意味合いを孕んでいるのかは分からないけれど。
 正式に『友達』というやつになった日から、早ひと月ほども経過しようとしているのだ。
 少しくらい、大きく一歩、踏み込んでみようと思う。

『先輩、帰りってどっち方面ですか?』

 校門を出たところで、道は左右に分かれている。
 うちの学校で『どっち方面』と聞く時には、大方その左右の分かれ道で答える。
 右は電車を利用する人が多い方面で、左は比較的近くに住んでいる人が向かう方面だ。
 無論、進展の具合は、先輩の歩幅に合わせるつもりではある。
 けれど、その期末試験も終われば、次に待つのは夏休みだ。
 日記上の友達も、一月半程は自ずと休みになる。

『私は左です。徒歩で二十分ほどでしょうか』

 左、か。左なら丁度いい。

『俺も左です。徒歩三十分の距離で』

 一度、そこまで書いてから、半分程消して書き直す。
 回りくどい言い方は、しない方が良いと思った。

『俺も左なので、もしお邪魔でなければ、途中まで一緒に帰りませんか? 試しに、明日だけでも』

 翌日の返事を待つのが、緊張と不安でソワソワしたけれど。

『私は構いませんが、気の利いたことは話せないと思いますよ。日記のようにはいかないこと、よくよくご存じかとは思いますが。それに、貴方のお友達は? 一緒には帰られないのですか?』

 意外にも拒否をされなかったことが少し嬉しくて、俺は心の中で拳を握った。

『気の利いたことなんて話さないのが友達ですよ。それに俺、仲の良いやつらは皆電車通学なので、基本一人か、いても姉だけなんですよね』

『そうですか』

 短い文章の後、恥ずかしさと躊躇いでも表しているかのように一行空けて、

『では、よろしくお願い致します。校門の外で待ち合わせましょう』

 どこか走り書いたような、感情の乗ったとでも言うような文字で、そう括られていた。
 明日から、部活は一時休止期間。
 その初日とも呼ぶべき日に、俺たちは、お試しで一緒に下校する。
 なんだろう……姉以外の異性と歩くのが、初めてだからだろうか。
 自分で誘っておいて、今更ドキドキして来た。
 ポケットから取り出したスマホを開き、時刻を確認し、閉じてポケットへしまって――そんなことを、もう何度も繰り返してる。
 相手が誰とか関係なく、人と待ち合わせて帰るなんてこと自体もう何年ぶりだという話で、変に緊張してしまう。

 昔はどうやって時間を潰して待ってたっけ。
 どんな心持ちだったっけ。

 そんなことをついぐるぐる考えてしまうから、意味もなく何度もスマホを確認する。
 ちらちらとそこらに見えていた、誰かと待ち合わせていたらしい他の子たちは、早くも合流してさっさと帰り始めている。
 ぽつりぽつりと見えていたそれらは、次第に数を減らしていって――気が付けば、校門から出てそのまま帰ってゆく人たち以外、立って待っているのは俺だけになっていた。

 先輩、まだかな。

(……まだかな?)

 どういう気持ちで、俺はそんなことを思ったのだろう。
 待ちくたびれたから?
 周りに誰もいなくなったから?

 それとも――

「お、またせ、いたしました……」

 すぐ傍らから届いた小さな声に、俺はそちらを振り返る。
 思いがけず目が合ってしまった瞬間、逸らし、数歩退くのは、相良先輩だった。
 急に振り向いて、驚かせてしまっただろうか。

「お疲れ様です、先輩」

「お疲れ様、です、榎さん……お待たせしてしまいました」

「全然。行きましょうか」

 背中を預けていた壁面から離れ、先輩に向き直る。
 意外にも高身長な先輩は、姉を隣に連れている時と、目線があまり変わらない。

「え、っと……あの、ほ、本当に、良いのでしょうか……?」

「良いって、一緒に帰るのが?」

 先輩は小さく頷いた。

「私なんかが、榎さんの隣を歩いて……」

「なんかって――あれ、友達なんですよね、一応? 俺ら」

「は、はい…! あっ、えと、そ、そうだと、嬉しいです……」

「嬉しいって……」

 文面から感じる性格とは、本当にかけ離れている。
 日記の中だと、ある程度はっきりとした性格のように思っていたけれど――これは、俺の方が選択を間違えてしまっただろうか。

 ……いや。

「変に気と遣わなくても良いですからね。友達って、そういうもんだし」

「友、達……」

 先輩はその言葉を、まるで噛み締めるかのように小さく復唱した。

「放課後なんて、何となく時間が合うから一緒に帰るってだけのことです。気の利いた言葉とか、下手な話題作りとか、そういうのって他人行儀でしょ?」

「……はい」

 頷きながら答えると、先輩はゆっくりと視線を上げた。
 そうして俺に視線を合わせて、

「か、帰りましょうか……榎さん」

 消え入りそうなくらい小さく言って、またすぐに視線は逸らされてしまった。
 今は、それが彼女の精一杯の距離なのだ。
 でも――俺も、今はそれくらいが心地良い。
 初めからグイグイ来られるような人は苦手だし、俺自身、まだ緊張したままだし。

(……苦手、か)

 彼女の目に、俺はどう写ってるんだろうか。
 そう写っていたり、するんだろうか。
 願ってもない、頼んでもいない下校を、強いられているような心地になっていたりとか……。
 ……落ち着かない。
 これはやはり、選択を間違えてしまったかも分からない。

(やば……俺の方が冷静でいられないかも……)

 隣を歩く彼女の髪から――なのだろうか。
 とにかくもずっと、いい香りが漂ってきている。
 姉の使うシャンプーや石鹸、香水の類とはまた異なるそれは、甘くも爽やかなフルーツらしい香り。
 それが、一歩二歩と歩く度に揺れる彼女の髪からふわっと香って、どうにも心が落ち着かない。
 自分なんかが、とか言っておきながら、先輩は意外と近い距離を歩いている。
 さっきからずっと、心臓が五月蠅くて仕方がない。
 ……早い話が、ガラにもなくドキドキしてしまっているのだ。

「あ、あの……」

 ふと、ずっと静かに歩いているだけだった先輩が、声を上げた。

「えっ……? は、はい?」

 我に返ったような心地で聞き返す。

「榎さんは、その、榎先生と一緒に、住んでおられるんですよね……?」

「ええ、そうですけど――ははっ、やっぱり姉ちゃんが『先生』とか呼ばれてるの、違和感しかないな」

 家での生活っぷりを存分に知っている身からすれば、似合わない似合わない。

「姉ちゃんがどうかしました?」

「えっ…! あ、いえ、その……何でも、ありません……」

 尋ねる俺に、先輩は首を横に振る。
 ——なるほど。気は遣わなくていい、って言ったのに、気を遣って共通の話題を何とか見つけ出した、といったところだろうか。

「――そう言えば、姉ちゃんは先輩の担任なんでしたね。どうです、姉は?」

「えっ、えと……とても、頼りにしています……優しいし、勉強の教え方もとてもお上手ですし……あ、あと、とても美人ですよね……」

「美人? あれが!?」

「あ、あれだなんて、失礼ですよ…! 綺麗なお姉さんじゃないですか」

「綺麗とか、先生って称号より似合わないな」

「よ、容赦がない、ですね……」

「うーん、まぁ実の姉ですしね。そんな風に思ったことがないんですよね」

 年の離れた『姉妹』なら、感じ方も違ったかもしれないけれど。
 弟が姉に抱く印象なんて、そんなものではないだろうか。

「姉弟って、そういうものなんですね……」

「じゃないですかね。先輩は?」

「わ、私は、一人っ子なので……」

「へえ、そうなんですね。それはそれで、気が楽でいいものじゃないですか?」

「ど、どうなんでしょう……入退院ばかりの生活の中、兄弟姉妹がいないことも、人と話すのが苦手になって理由なのかな、と思うことも……あっ、すみません、こんな話…!」

「あいや、俺の方こそ無神経に――にしても、なるほど。確かにそれだと、苦手になっていっても仕方ない話ではありますよね」

 頷く俺に、先輩が意外そうな目を向ける。
 どうしたのかと尋ねると、少し固まっていた後で、いえ、と視線を外した。

「そんな反応をされるとは、思わなくて……」

「そんなって?」

「せっかくの会話を、身の上話に繋げてしまったこと、です……そ、そんなにあっさりと流されるとは、思わなかったので……」

「それは――先輩の、失敗談?」

 先輩は、小さく頷いた。

「昔、ちょっと話す女の子がいたんですけど……な、何度か、どうしてもそういった流れになってしまう内、面白くなさそうに離れて行ってしまって……」

「――難しいところではありますよね、確かに」

 自分語りが苦手、という人は多い。俺は特に気にしたことはないけれど、バスケ部の連中にもそういうやつはいる。
 けれど。

「せっかくの会話、なんて思わなくても良いですよ。話したいことを話して、話したくないことは話さなくても良いです。少なくとも、俺と話してる時は、そんなこと何も気にしなくて良いですからね。好きに話して、好きに話さないでください。それぐらい気楽に、初めての友達ってやつを試してやってください」

 そう、ある程度気を利かせたつもりで言ったそのすぐ後で、気が付いた。

「や、初めてとか、失礼ですよね…! すいません、忘れてください」

 慌ててかぶりを振って、バツが悪くなって頭を抱える。
 そんな俺とは反して、

「――ふふっ。はい、ぜひ、そうさせてもらいます」

 先輩は小さく、けれども確かに笑って言った。
 初めて見る顔だった。
 笑うと、こんなに優しい色になるんだ。
 難しい顔、神妙な面持ちばかりしか見たことがなかったから、俺はそれに気の利いた言葉の一つも返せないままで、その横顔を眺めたまま、しばらくの間固まってしまっていた。
「――あっ、榎さん……こ、この通りを、少し行ったところですので」

 一つの交差点に差し掛かった時、先輩が足を止めた。
 小さく控えめに、進行方向を指さしながら言う。
 俺はまだまだまっすぐ進むところで、先輩は曲がってしまうらしい。

「そう、ですか――では、お気をつけて」

「は、はい」

 先輩は頷き、そう言うけれど。
 すぐには歩き出さないで、俺の顔をチラチラと窺っている。

「え、っと……?」

 思わず尋ねる俺に、先輩は一度キュッと唇を嚙み締めてから、口を開いた。

「き、今日は、ありがとうございました…! えっと、その、楽しかったです…! 色々、お、お話しが、出来て……」

「えっ? あ、はい、俺も。誘って良かったです。誰かと帰るなんて久しぶりで、俺も、その……はい、楽しかったです」

「よ、よかった、です……」

 先輩は、安堵の息を零した。
 深い深い、溜め息だった。

「そ、それで、えっと……」

 まだ何か、言いにくそうにしている先輩。
 俺はそれを、催促するでもなく、自然と出て来るのを待った。

「え、っと……」

 気が付くと、俯いた耳元が真っ赤に染まっていた。
 そう見える、なんて程度の話じゃない。
 言いにくそうにしているのは、その何かを口にするのが、彼女にとって、とても難しいことだからだ。
 文字通り『意を決して』でないと、ポロリと零れ落ちるものでもないのだろう。
 もう一度、更に一度、ギュッと口を閉じて、深く息を吸って吐いて――
 何度か繰り返したところでようやく、先輩は俺の目を真っ直ぐに見つめてくれた。

 瞬間、心臓が大きく打った。

 その綺麗な瞳に正面から見つめられたことが、とにかくも衝撃だった。
 俺の方も、自然と背筋が伸びてしまう。
 そうして口を開くと、

「あ、明日も――明日からも、一緒に帰りたいです……も、もし、榎さんが、嫌じゃなければ…!」

 震える瞳をつい逸らそうとしてしまうのを、先輩は自分で必死に制して俺の目を正面に捉え続ける。

(そんなに……)

 別に、特別なことじゃない。
 また話したいから、暇だから――そんな理由から、また一緒に歩きたいと思うことだってあるだろう。
 たまたま馬が合ったから一緒に帰るでもいい。たまたま時間が合うからでもいい。
 けれどもそれは、この先輩にとっては、とても勇気のいることで――。

「……俺でよければ、ぜひ」

 俺だってそうだ。
 先輩が言ってくれなかったら、きっと俺の方から言っていたと思う。
 俺だって、先輩ともっと話したい。
 そう思うようになっていた。
 でも――そうか。先輩の方も、そう思ってくれていたんだ。

「……ありがとう、ございます」

 俺の方は、相変わらず気の利いた返しの一つも出来ないけれど。

「明日からも――よろしく、お願いしますね」

 そう言って頬を染める彼女の笑顔を、俺は生涯、忘れることはないだろう。
 期末試験が無事終わり、テストの返却もこれで最後。
 結果は――悪くはない。いつも通り、平均のちょっと上だ。
 もっとも今は、試験の結果なんでどうでも良くて。
 ようやく、今日から部活動が再開する。
 溜まりに溜まった面白話でも綴られた日記が出迎えてくれる――

「……なんて」

 そんな筈はなかった。
 一緒に帰らなかったのは、期末試験本番の五日間だけ。テスト中に面白いことなんて、そうそうある訳でもない。
 期末試験が始まるまでの一週間、俺たちは初日と同じように、校門で待ち合わせて一緒に帰った。
 急激な変化こそ無かったものの、少しずつ慣れて来てくれたのか、先輩の方から口を開く機会が多くなったように感じる。
 それでもやっぱり、人と自然と話すことそれ自体はまだ難しいようで、長くも多くも続かない会話。
 でも、寧ろそれくらいで良かったと思う。急に慣れてあれこれ話されても、それはそれで俺の方が委縮してしまっていたことだろう。
 ゆっくりゆっくり、一歩ずつ、いや半歩ずつくらいの進歩であるからこそ、俺の方も、ある程度冷静に先輩と話していられる。
 異性と二人きりで話すなんてこと自体、俺だって殆ど経験のないことだ。

「お疲れ様、でした、榎さん」

 準備室の方から出て来た先輩が、いつもと変わらない声色で言う。

「先輩もお疲れさ――」

 振り向いた瞬間、思わず言葉が途切れた。
 夏服は試験前から目にしていたが、それに似合うポニーテールに、髪が結われている。
 サラサラの長い黒髪はいつも、何もせずただ下ろされているばかりだったから、とても新鮮だ。

「榎さん……?」

「へっ…!?」

「わっ…!」

 大きな声で驚く俺に、先輩も釣られて驚き、一歩下がる。
 その小さな動きだけで、髪が躍るように揺れる。

「あっ、ご、ごめんなさい…! その、えと、髪型……」

「髪……? あ、はい……七月に入りましたし、暑くなってきたので……」

 そう言ってパタパタと手で仰ぐ仕草は、とても控えめだ。

「あの……へ、変、でしょうか……?」

「えっ、な、なんで……?」

「だ、だって榎さん、何も言ってくれない、から……」

 寂しそうな、悲しそうな顔で先輩は言う。

「そんなこと――! めっちゃ似合ってるなって思ったから、言葉が出なかっただけです…!」

 頭の中で考えていた気の利いた言い回しなんて全部忘れて、慌てて首を振りながらそう言う俺に、

「あ、えっと……じ、冗談、です……」

 俯き、申し訳なさそうに、小さくそう言った。

「あぇ……冗、談……?」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい…! ちょっと、揶揄ってみたくなって――で、出来心で…!」

 ガバっと頭を下げ、ごめんなさいと繰り返す。
 まさか、この人から『冗談』なんて言葉が飛び出すとは思わなかった。
 さっきとは別の意味で、言葉を失ってしまった。

「お、怒りましたか……?」

「え、と……いえ、別に怒りはしませんけど……」

 申し訳なさそうにおずおずと頭を下げる仕草さえ、どこか可愛らしい。

「あの……とてもよくお似合いです、ほんと……」

「へっ…!? あ、あぅ…! あ、ありがと、ございます……」

 勢い任せじゃない言葉に、先輩は真っ赤になって固まった。
 それが何だか可笑しくて思わず吹き出すと、先輩は頬を膨らませて準備室の方へと戻って行った。
 やらかしてしまったような、そうでもないような。
 何とも言えず頭を掻きながら、俺はいつもの椅子に腰を下ろす。
 手に持ったノートを開き、その上にペンを置いて――特に何も浮かんで来ないままの時間を、何となく過ごす。

「期末、終わりましたね」

 思っていたことが、ふと口を突いて出て来た。

「そ、そうですね」

 先輩が、短く返答してくれた。準備室の扉を開けたままだ。

「試験明けって、何かパーッとやりたくなりますよね」

「パーッと、ですか?」

「ええ、パーッと」

「た、例えば、どのような……?」

「うーん……思いっきり寝るとか」

「……そ、それ、榎さんは普段からやってそう」

「心外だなぁ。まぁ、遠からずですけど」

 家事をしていない時間は、適当な本を読むかテレビを見るか、大体ダラダラと過ごしている。
 先輩は、きっと真逆なんだろうな。
 普段からコツコツと勉強をしていそうだ。

「パーっと、パーっと……」

 繰り返し呟く先輩。
 思わずそちらに目を向けると、ふと何かを思い出したように顔を上げた。

「あ、そうだ……好きな作家さんの新刊、明日発売なんだった……」

 呟くように零れた声は、初めて聞く、敬語じゃない言葉。

「新刊?」

「ひゃっ…! き、聞こえてましたか…!?」

「え、今の独り言…!?」

「う……うぅ……」

 ハッとしたかと思うと、しゅんと丸く小さくなる背中。
 両手で頬まで隠してしまった。
 こういう小動物、どこかにいたような気がする。

「で、誰の新刊です?」

「あ、えと、亜久里清香(あぐりきよか)さんって人の――」

「えっ、探偵喫茶の新刊、明日なんですか…!?」

 大声を上げる俺に、先輩が振り返る。
 咄嗟に頭を下げて、心を落ち着ける。

「ご、ご存じなんですか?」

「ええ。前はあんまり読書が好きじゃなかったんですけど、何となく表紙買いしたそれにすっかりハマっちゃって」

 口には出来ないが、きっかけは、バスケから離れた苛々からだった。
 何となくモールの中をうろつき、ふと立ち寄った本屋で出会った一冊だ。

「そうなんですね……」

 感心したような顔で、先輩が頷く。

「――俺、そういう人間に見えません?」

「う……あ、あまり……」

「まぁ、ですよね」

「あっ、ご、ごめんなさい…!」

「あはは、別に構いませんって。自覚はありますから」

 それこそ、昔はあまり好きではなかったのだから。

「あ、あの……お好きなお話とか、あったりしますか……?」

 先輩が、控えめに尋ねる。
 ふと、友達がいなかったと話していたことを意識してしまう。
 いなかったからには、こうして誰かと好きなものの共有なんてことも、したことがないのかもしれない。
 控えめながらも、目の奥は、期待からかとてもキラキラしている。

「うーん……俺は三巻ですかね。ライバルのお茶屋さんとの、何でか巻き込まれた謎解き一騎打ち」

「わ、私も…! やれやれ勘弁してくれって感じで巻き込まれたのに、最後にはビシッと謎を解いていつもの日常に戻って行くあの感じ…!」

「そうそう。で、それに腹を立てたライバルが、また次の巻で喧嘩を吹っかけてきて――」

「含みあり気な感じで始まった冒頭二ページだけで、事もなげにあっさり解決しちゃうんですよね!」

 キラキラと輝く瞳で、気が付けばずずいと前のめり。
 一瞬訪れた無言の時間に、先輩はハッとして顔を逸らした。

「ごご、ごめんなさい…! 好きなことになると、いっつもこうで…!」

 慌てて机に向き直りながら、いつもはあるはずの横髪を撫でて、あれ、とポニーテールの方を掴み直して真っ赤になって。
 好きなものを話すといつもの調子でなくなるなんて、悪いことじゃない。寧ろそれだけ好きなんだなって分かるから、話しているこちらも嬉しくなる。
 こんなに楽しそうな、嬉しそうな表情も、初めて見るし。

「明日――明日、土曜日か」

 期末は終わり、試験の返却も終わり、一学期が終わる。
 ――丁度良いかな、と思う。

「あー……その、先輩。もしお暇だったらで良いんですけど……あ、明日とか、一緒に買いに行きませんか……?」

 なんとも情けない言葉と声音。
 もっとスマートに誘えれば良かったのに。
 ほら見たことか、先輩が口を開けて固まってしまった。

「や、その、忙しいならアレですけど、えっと――あ、そう期末…! 終わったし、一学期お疲れ様会ってことで! ついでに、思い切ってクレープも、食べに、とか……」

 情けなくて俯く俺。
 顔が熱い。
 怖くて表情を窺うことは出来ないけれど――沈黙の続いた数秒後、小さく笑う声が耳を打った。

「良い、ですね、それ……一学期、お疲れ様会」

「……え、ほ、ほんとに……? 俺が一緒で良いんですか……?」

 顔を上げると、淡く微笑む先輩と目が合った。
 ドクン、と心臓が強く打つ。

「正直なことを言うと、本屋さんに行くのも、ちょっとだけ怖いので……知らない人、いっぱいだから……だから、一緒に来てくださるの、とても心強いです」

 いつものように、少したどたどしくはあるけれど。
 目を逸らさずに、ハッキリとそう言ってくれた。

「そ、そう、ですか……」

 少しずつではあるけれど、先輩は俺と話す時、頑張って目を見てくれるようになってきた。
 それと同時に、自分の気持ちや話したいことも、遠慮なく話すようになってきた。
 その変化に――ちょっとだけど大きな勇気に、俺も応えたい。
 背筋を伸ばして、今一度。
 しっかりと目を見て、もう一度。

「先輩――よろしければ明日、一緒に本屋に行きましょう。せっかくだからご飯も食べて、帰りにクレープも買って、目一杯羽を伸ばしましょう」

「よろしければ、なんて、とんでもない。嬉しいです」

 先輩は、ふわりと微笑んだ後、

「私なんかで良ければ、喜んで」

 恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに、明るく笑って頷いた。
 それはまるで、初めて見る花が初めて開くのを、目の当たりにしたようで。
 心臓がキュッと掴まれるような、痛いとさえ思える程の高鳴りを覚えた。



 少しして落ち着いた後で、明日の予定をある程度詰めて。
 丁度いい頃合いに響く下校のチャイムを機に、俺たちは一緒の道を帰った。
 ——浮かれすぎ、なのかな。

 待ち合わせは十一時だけれど、現在時刻はそろそろ十時半になろうかというところ。
 早く着き過ぎてしまった。

 男友達相手なら、素直に『早く着いた』とでも連絡を入れていることだろうが、相手は女の子……超楽しみなやつみたいに思われたり、はたまた無駄な気を遣わせてしまうかもしれない。
 先輩なら――きっと後者だろう。下手な連絡は入れられない。
 自販機で買ったお茶を手に、駅前広場の端の方に見つけたベンチに腰掛ける。

 と、ポケットに入れていたスマホが震えた。
 取り出して確認すると、姉からのメッセージが一件入っていた。

『いくら人生初デートだからって、浮かれすぎじゃなーい?』

 短い文章の後、ケラケラと笑いながら転がる猫の、変なスタンプが貼られている。
 今日は姉も休みで家にいる為、出掛けるからには自然と、相手の名前も出していた。
 ニヤニヤといやらしく笑って「どこ行くの?」「何すんの?」と質問攻め、もとい詰問されたのを思い出す。
 先輩の事情なんかに関しては、何なら俺より姉の方が色々と知っているだろうに。
 本当に良い性格をしている。

『うっさい。晩飯はカップ麺な』

『あら久しぶりのインスタント。楽しみにしてるわねー』

 今度は、ルンルンスキップをしている犬のスタンプ。

『どんな顔して打ってんのそれ。米のとぎ汁だけにしてやろうか』

『うそうそ冗談。気を付けて行ってらっしゃいね。麻衣にもよろしく』

『初めからそれだけ言えって』

『どうせ空白の時間になってるであろう弟の暇つぶしに付き合ってあげてる、優しい優しいお姉ちゃんの親切心が分からないなんて』

『雲でも眺めてる方が有益だよ』

『うわー失礼なやつ。どうせ麻衣もまだ来てないんでしょ? ひとりで何して時間潰すのよ』

『別に何もし』

 まで中途半端に打ったところで、隣から「あの」と小さな声が聞こえた。
 その声に反応して顔を上げたすぐ先には、シンプルながら、制服とは全く異なる印象を受ける服装の先輩が立っていた。
 思わず送信ボタンを押してしまったすぐ後でまた、姉からのメッセージが入る。

『もし? もしもしかめよ?』

『先輩来たごめん切る』

 手短に要点だけを綴ってさっさと送信して、俺はスマホをポケットに突っ込み、立ち上がった。

「おはようございます、先輩。お早いですね」

「そ、それ、榎さんにもそのままお返しします」

「あー……ですよね」

 こんなことなら、もっと目立たない場所で待っていれば良かったか。
 いや、そうなったら先輩をどこかで待たせてしまうことになっていたかも。
 ……時間を決めての待ち合わせって、こんなに難しかったっけ。

「携帯、良いんですか……? 熱心に、どなたかとお話しなさっていたような……」

「姉です姉。くだらない日常会話です」

「そ、そうですか……?」

 間違っても『初デートだなんだと弄って来やがった』とは、笑いながらでも言えない。
 先輩は、それを冗談だとちゃんと受け取ってくれるか分からない。

「あー……っと、その……」

 立ち上がったは良いけれど、どうしたものか。
 キョトンとした顔で俺のことを見上げる先輩の方を、何だかまともに見られない。
 真っ白なカットソーの上に灰色の薄いニットベスト、デニムのパンツ――なんてことはない、どこにでも見られるようなファッションの筈なのに、どうも眺めていられない。
 ゆったりとした制服からは分からなかったことだけれど、パンツがピチっとしたサイズのものだからか、たっぱがあって凹凸もしっかりしているスタイルの良さが、際立ってしまっている。
 髪も髪で、下の方で緩く結わって肩から前に流されていて――色っぽいとすら思えるような装いだ。
 肩に掛けているのが小さなショルダーポーチなのも、尚大人っぽい。

「榎さん……?」

 小首を傾げる先輩に俺は、

「……いえ。ちょっと早いですけど、行きましょうか」

 気の利いた言葉の一つも言えなかった。
 口にすると、更に強く意識してしまいそうだったから。

「はい。今日は、よろしくお願い致します」

 そう言いながら、先輩は小さく頭を下げる。
 ふと浮かべられた笑顔は、緊張を隠しているようにぎこちなかったけれど、それさえとても綺麗に見えて、もう顔を覗き込むなんてことは出来なくなっていた。

「――はい。俺も、よろしくお願いします」

 全身にむず痒さを覚えながらもそう答えると、一歩、俺の方から踏み出した。
 待ち合わせ場所から反対側の入り口から直結しているビルの中に、目的地である本屋はある。
 昔、何度か来たことはあったけれど、他に入っている店はあちこち変わっていて、とても新鮮な気持ちにもなった。

「ひ、人、多いですね……」

 緊張というより、何なら怯えながら、先輩が呟く。

「休日ですからね。他の、もっと静かなところに行けば良かったですか?」

「い、いえ、そんな…! ここに行こうって言い出したの、私ですし…!」

 昨日、今日の予定を決める中で、ここなら周りに飲食もあるから、と言い出したのは確かに先輩だった。
 何を疑うこともしなかったけれど、これだけ人が多いと、俺でも少ししんどくなってしまいそうだ。

「ふわぁ……」

 隣を歩く先輩が、口元を隠しながら小さく欠伸をした。
 思わず目を向けると、恥ずかしそうに俯いてしまう。

「す、すみません、失礼なことを…!」

「別に構いませんよ。寝不足ですか?」

「は、はい、少しだけ……今日が楽しみで、ちょっと夜更かしをしてしまいまして……」

「あぁ、そういう――俺も昨日の夜、何となく探偵喫茶を読み返してて、姉ちゃんに『はよ寝ろ』って取り上げられて」

「あっ、お、同じです…! 私も、お話しに出て来た三、四巻を読み返してたんです…!」

「え、偶然。俺も、三巻を読んで四巻に差し掛かったところで没収されたんですよ」

「そ、そうなんですね…! 何度読んでも良いですよね、やっぱり」

「ほんと、何でか飽きないんですよね。それだけ、物語にも文章にも、読者を楽しませる工夫がされてるんでしょうね」

「そう思います。単に上手いとか語彙力があるとかだけじゃなくて、こう、亜久里先生の人柄が滲んでいるような」

「作者の人柄ですか。確かに、そんな感じはしますね。他の書き下ろしとか読んでても、なんか漠然と『良い人そう』って思いますもんね」

「そうなんですよ。良い意味で子どもっぽいというか、無邪気な感じがします」

「あー分かる。それだ、無邪気なんだ。だから、あんなにキャラクターたちが活き活きとしてるんでしょうね」

「ええ。私はそう思います」

 ——なんて話を、当たり前のようにしているけれど。
 ふと会話が途切れた一瞬間、あれ、と思う。
 好きなものの話をしている時は、口籠ることも、言葉が途切れ途切れになることも、あまりないように感じる。
 好きこそものの、というやつだろうか。いや、それは少し違うか。
 とにかくも本が、亜久里先生の書く物語が、純粋に好きなんだ。
 その『好き』を共有出来る人がいなかったであろうことも、昨日のように我を忘れる程の興奮に繋がってしまうのだろう。

 好きなものの話をしている時の顔は、とても素敵だ。
 それくらい素直な顔の方が、先輩にはよく似合っている。
 誰とでも、他のことでも、そんな顔で話せるようになるといいな。

(……いい、のかな)

 前向きな気持ちの裏に、ふと足を止める自分がいた。
 先輩にとって俺は、初めて出来た友達だ。
 初めてがあるからには、次も、その次の人も出て来ることだろう。いや、いずれそれは出て来るものだ。遅いか早いかだけの話。
 本当はそれが望ましい。いやそうなっていくことが、先輩としても目標のはずなんだ。
 それはとても良いことだ。良いことなんだ。
 良いことのはずだ。
 良いことの、はずなのに……。

(友達が増えて、もし、もっと自分と近い人に出会えたら……)

 その時、先輩は――
 いや、そんなことは考えないようにしよう。考えなくていいことだ。
 まるで先輩の特別にでもなりたいみたいな、そんなこと。
 まさかそんな。

(…………でも)

 以前、姉の言っていた言葉がふと浮かぶ。

『もしあの子のことを、そういう意味で好きになったらさ。好きって気持ち、ちゃんと伝えてあげてね』

 なんで今、そんな言葉を思い出すんだろう。
 なんで、その言葉しか浮かばないんだろう。

 違う。そういうんじゃない。
 俺はただ、先輩にとって初めて出来た友達として――
 友達……。

(……はぁ。何でこんなこと考えてんだろ。ぐるぐるして、訳分からなくなってきた)

 あれこれ浮かんでは、そんなことない、そんなはずないの繰り返し。
 このモヤモヤの先にある答えが『恋』だっていうなら――なんだろう。
 相当に厄介な奴だな、恋って。

「…………はぁ」

 浮かんだモヤモヤを、いつからか止まっていた息と共に吐き出す。
 そんなのは、今は考えなくても良いことだ。
「無事にゲット出来ましたね」

 例の本が入った袋を片手に、隣で大事そうに同じものを抱える先輩に話し掛ける。
 早々に目的の物を手に入れた後、何となく他の本も見て歩き、小一時間程経った後だ。

「ええ。でもまさか、サイン本まで入荷しているとは思いませんでした」

「残り二冊だけだったのも驚きましたね」

「ふふっ。早く来て正解でしたね」

 ふわりと、先輩はとても自然に笑った。

「――ですね」

 それだけのことでまた、胸の辺りがキュッとなって。
 俺はすぐに、気の利いた返しなんて出来なくなってしまう。

「少し、お腹が空きましたね……どこか、入りましょうか」

 先輩が尋ねる。
 三階の本屋から何となく下り、一階の、飲食が並ぶ区画へとやって来ていた。

「どうしましょうね……」

 そう返しながら、俺は先輩の方を窺う。
 あちらこちらへと目を向け、その度、客入りを見てか渋い顔をしている。

「――少し歩きますが、先輩は疲れてませんか?」

「え……? え、ええ、私は問題ありませんけれど……」

「良かった。なら一旦出ましょう。いい所を知ってます」



 ビルを後にし、歩くこと約二十分。
 休日の丁度お昼時、無駄足だったらどうしようかとも思ったけれど、運よく席が空いていて助かった。

「へぇ、こんなところが……」

 やって来たのは、よくあるメニューの他、あまり見ない珍しい食事も提供しているような、ちょっとだけ特別な大衆レストラン。
 他の飲食と同様、座席は仕切りで区切られているタイプながら、その仕切りは高く隣は見えず、全席通路側にカーテンまで下ろせるようになっている。
 疑似的に、個室を有せるようになっているのだ。

「全席個室の軽い飲食って、この辺りにはなくて……せめてここなら、先輩もあまり緊張しなくて良いのかな、と」

「あ、ありがとう、ございます……」

 口ではそう言うけれど、まだ何か落ち着かない様子。

「どうかしました?」

「えっ…!? あ、えっと、その……お、男の人と二人きりで食事、なんて……は、初めてなので、ちょっと緊張してしまいます」

 困ったように、でもどこか少し照れくさそうに、先輩が言う。

「あー……本、本…! 読んでて良いですから…! お、俺も読んでよっかな…!」

 傍らに置いていた袋を取り上げて言う俺に先輩は、

「……いえ。それは、帰ってからの楽しみに取っておきます。今は、その……榎さんと話したい、かな、なんて……思うんですけれど……」

 顔を伏せ、背中を丸め、恥ずかしそうに小さく言う。

「駄目、でしょうか……?」

 頭は下げたままで、視線だけこちらへ寄越して。

「ぁ……っと、その……はい……き、気の利いた話とか、あんま出来ませんけど……」

「だ、大丈夫、です…! ほら、気の利いた会話をしないのが友達って、榎さんが」

「そう、でしたね……あ、そうだ、俺が言ったんだ、それ……」

 上手く言葉が出て来ない。
 喉が渇いて仕方がない。

 それを察してなのか、先輩は、二つ並べられていた水の入ったコップを一つ、俺の方へと滑らせた。
 それを一口――一気に全部飲み干して。

 迷った挙句、『新刊の展開予想』なんて無難な話題から話し出した。
 帰りがけ、駅前で例のクレープ屋を覗いてみたら、今日はもう片付け始めてしまっていたようで、目的その二は一旦お預けになった。
 しかし先輩は、当初のとりあえずの最終目的でもあったからか、『楽しみがまだ残っているよう』だと言って笑っていた。

「一学期お疲れ様、なんて名目でしたけど、結局、行ったのは本屋だけでしたね」

 隣を歩く先輩に問いかける。
 茜色に染まる空が、先輩の横顔を鮮やかに縁取っている。

「お、お食事もしましたよ」

「まぁ、それは――何も食べずにさようならってのは、流石に無いですからね」

 時間が時間だし、それこそ本屋にだけ寄って帰るというのは、あまりに無い。

「先輩は、リフレッシュになりました?」

「は、はい、とても…! す、少し緊張しました、けど……」

「……ええ、それは俺も」

 女の人と二人で買い物、二人で食事だなんて、どちらも人生初のことだ。
 肩の力が抜けたのだって、帰路に就いてホッとした今になってからだ。

「夏休みになりますね」

「そう、ですね」

「先輩は、やっぱり部活――いや、受験生ですもんね。どうなさるんですか?」

「え、えっと……学校、行きます。おそらく、毎日……」

「部活と勉強?」

「……ええ、そんな感じですね」

「ふぅん……」

 毎日、か。
 先輩が携帯電話を持ってない以上、夏休み、互いに連絡を取り合うことは出来ないけれど、学校に行くと言うのであれば。

「そ、それ――」

「え、榎さんも…! えと、いつでも、来てくださって構いません…! き、気楽に、ふらりと、来てくださって……来て、ください……」

「ぁ――は、はい、行きます…!」

 先に言われたのが、言おうとしていたことの答えであったことが嬉しくてか、俺は思わず大きく答えていた。
 それに驚き小さく震える先輩を見て、思わず顔を逸らしながら謝る。

「あ、でも先輩、勉強もあるんじゃ……?」

「――いえ。構いません。その……お、お喋り、したいので……」

「そうですか……? 分かりました。じゃあ、たまに顔出します」

「は、はい……嬉しいです」

 俯いているせいで、表情を窺うことは出来ないけれど。
 声色は、少しだけ弾んでいるように聞こえた。
 なんていうのは、俺が勝手に前向きな捉え方をしているせいだろうか。

「夏休みか……先輩、何かやりたいこととかあります?」

「やりたいこと、ですか?」

 ふと、俺の方を見上げた。

「ええ。せっかく高校最後の夏休みなんですし、やりたいこと、せっかくだから色々やりましょうよ。部活もないし暇なんで、何でも付き合います」

「やりたいこと……やりたいこと……」

 先輩は、また下の方に目を落として考え始めた。

「……あれ? でも最後っていうなら、それこそ勉強が優先ですよね……やっぱ今の無し、なんて――」

 言いかけた矢先、

「……夏祭り」

 先輩が、小さく呟いた。
 思わず聞き返す俺に、先輩は立ち止まり、俯いたままでもう一度口を開く。

「な、夏祭り、行きたいです……浴衣とか、着て……榎さんと……ふ、2人で、行きたい……」

 そう話す先輩の肩が小刻みに震えているには、すぐに気が付いた。
 気が付いてしまったから、その言葉の重みを考えた。
 夏祭り――それも、浴衣を着て、なんて。
 本屋に行く道中、人混みに眩暈さえしそうな程だった人が。

 先輩にとってそれは、きっと簡単なことじゃない。
 行くのも、口にすることさえも。

 それなのに行きたいと――俺と行きたいだなんて、はっきりと口にした。

(俺と……俺と…………)

 どこかに追いやった筈の言葉がまた、脳裏に浮かんだ。

『もしあの子のことを、そういう意味で好きになったらさ。好きって気持ち、ちゃんと伝えてあげてね』

 心臓が、ドッと強く跳ねた。
 身体が熱くなって、急速に喉が渇く。
 考えないように、意識しないようにしていたのに。
 そう話す先輩の表情が――俯いていても分かるくらいに紅潮したその顔が、俺をそうさせてくれない。

 高校最後――高校最後、か。

 もし来年があるとして、その時俺は、彼女は、同じ学校の先輩後輩ではなくなっている。
 たまたま交換日記を始めた、遠いようで近くにいる人では、なくなってしまう。
 高校最後。同じ高校に通う、最後の年、最後の夏休み。
 最後の、夏祭り。

「…………喜んで」

 行きたい、だなんて幼稚な言葉では、駄目だと思った。
 意を決して俺は、苦しいくらいに強く打つ胸を押して、細く弱々しい声ではあったけれど、何とか言葉を出した。
 それに先輩は、何も言わず、ただ小さく頷き、涙を流して微笑んだ。
 何でそんな顔を――そう聞きたい、聞きそうになった俺を制するように、気が付けば辿り着いていたいつもの分かれ道から、先輩は家の方へと向かって走り出した。