「――あっ、榎さん……こ、この通りを、少し行ったところですので」

 一つの交差点に差し掛かった時、先輩が足を止めた。
 小さく控えめに、進行方向を指さしながら言う。
 俺はまだまだまっすぐ進むところで、先輩は曲がってしまうらしい。

「そう、ですか――では、お気をつけて」

「は、はい」

 先輩は頷き、そう言うけれど。
 すぐには歩き出さないで、俺の顔をチラチラと窺っている。

「え、っと……?」

 思わず尋ねる俺に、先輩は一度キュッと唇を嚙み締めてから、口を開いた。

「き、今日は、ありがとうございました…! えっと、その、楽しかったです…! 色々、お、お話しが、出来て……」

「えっ? あ、はい、俺も。誘って良かったです。誰かと帰るなんて久しぶりで、俺も、その……はい、楽しかったです」

「よ、よかった、です……」

 先輩は、安堵の息を零した。
 深い深い、溜め息だった。

「そ、それで、えっと……」

 まだ何か、言いにくそうにしている先輩。
 俺はそれを、催促するでもなく、自然と出て来るのを待った。

「え、っと……」

 気が付くと、俯いた耳元が真っ赤に染まっていた。
 そう見える、なんて程度の話じゃない。
 言いにくそうにしているのは、その何かを口にするのが、彼女にとって、とても難しいことだからだ。
 文字通り『意を決して』でないと、ポロリと零れ落ちるものでもないのだろう。
 もう一度、更に一度、ギュッと口を閉じて、深く息を吸って吐いて――
 何度か繰り返したところでようやく、先輩は俺の目を真っ直ぐに見つめてくれた。

 瞬間、心臓が大きく打った。

 その綺麗な瞳に正面から見つめられたことが、とにかくも衝撃だった。
 俺の方も、自然と背筋が伸びてしまう。
 そうして口を開くと、

「あ、明日も――明日からも、一緒に帰りたいです……も、もし、榎さんが、嫌じゃなければ…!」

 震える瞳をつい逸らそうとしてしまうのを、先輩は自分で必死に制して俺の目を正面に捉え続ける。

(そんなに……)

 別に、特別なことじゃない。
 また話したいから、暇だから――そんな理由から、また一緒に歩きたいと思うことだってあるだろう。
 たまたま馬が合ったから一緒に帰るでもいい。たまたま時間が合うからでもいい。
 けれどもそれは、この先輩にとっては、とても勇気のいることで――。

「……俺でよければ、ぜひ」

 俺だってそうだ。
 先輩が言ってくれなかったら、きっと俺の方から言っていたと思う。
 俺だって、先輩ともっと話したい。
 そう思うようになっていた。
 でも――そうか。先輩の方も、そう思ってくれていたんだ。

「……ありがとう、ございます」

 俺の方は、相変わらず気の利いた返しの一つも出来ないけれど。

「明日からも――よろしく、お願いしますね」

 そう言って頬を染める彼女の笑顔を、俺は生涯、忘れることはないだろう。