高校二年の春。
 最初の中間試験が終わったところだ。

 特にやりたいことも進路も定まっていない俺だけれど、日々の学習だけはある程度頑張ってはいる。
 それはひとえに、姉に負担をかけたくはない一心で、なのだけれど――
 その姉は今、机に置いた試験結果は見ないで、キッチンで麦茶を啜る俺を睨みつけていた。

「……なんで?」

「何でだと思う?」

 姉は、至って真面目な声音で返す。
 ただ、試験結果に怒っていないのであれば、理由は分からない。学校で粗相を犯した心当たりもない。

「ひとまず、試験はお疲れ様。今回も頑張ったんだね」

「……ん」

 姉の賛辞に、それらしい語気はない。
 言いたいことは、試験とは関係ないらしい。

「やりたいこと、見つかった?」

「まだ。でも、選択肢拡げるために、勉強だけは――」

「ん、偉い。殊勝だね」

 頷き言うその言葉にさえ、やはり芯はない。

「やりたいことは分からないけど、将来の為に勉強して、枝葉を伸ばす。良いことだね。とっても良いことだ。これぞ学生の本分ってやつだよね」

「……何が言いたいの?」

 こちらから切り出してようやく、姉は深い溜め息を吐いた。
 そうして俺の方を見つめ直して、言うのだ。

「そんなに頑張らなくて良いって、いつも言ってるでしょ?」

 ……これだ。

「やりたいことがあるなら頑張ればいい。無くても勉強するっていうのはすごく良いこと。絶対に将来の役には立つからね」

「なら――」

「でも、友達のお誘いを断り続けるのは違うんじゃない?」

「……っ!」

 姉の言葉に、俺は思わず視線を逸らしてしまう。

「せっかくいい成績も取れたんだからさ。その直後ぐらい、羽を伸ばしたっていいじゃん? どうして断ったの?」

「……見てたのかよ」

「たまたまね。職員室に行く途中に悟志くんを見かけたから挨拶をしたの。そしたら、あんたが『姉ちゃんの帰りが遅いからとか何とか言ってた』って」

 何て都合の悪いたまたまだ。
 いや。その現場を見ていなかったとしても、姉はすぐに気付いたことだろう。
 悟志は、いつも律儀に俺のことを誘ってくれる。他の連中もそうだ。
 それは高校に入ってからこっち、ずっと続いていることで、姉も勿論それは知っている。
 それで帰宅した時、夕飯を作って待ってる弟の姿なんて見つけてしまっては、察するなという方が難しいことだろう。
 我ながら、浅い考えで断ってしまったものだ。
 せめて、適当に時間を潰してから帰ればよかった。

「……嘘は吐いてない」

「でも、必要ないよね?」

「…………仕事で疲れてるだろ」

「スーパーでもコンビニでも、どこでもご飯は買えるよ」

「でも――」

「私の為に頑張らなくても良いから。ね?」

 姉は、優しく笑って言った。
 別に、そんなつもりでやっている訳ではない。

 うちは両親を早くに亡くした姉弟だけの家庭で、しばらくは祖父母の援助で頑張っていたのだが、姉が職に就くと同時にそれも断って、今では姉の収入だけで生活している。
 決して安くなんてない俺の学費も、その姉持ちなのだ。

 姉とは十歳差で、俺が物心つく頃には大人かよって思うくらい心身共に成熟していて、ただただ苦労している姿ばかりを見て来た。そのせいで自分は誰かと出掛けたりしなかったくせに、俺には『友達を大事にしろ』と言う。
 そんな姉に、幼い頃から負い目を感じていたから、何とかして、何でも良いから姉の負担を減らしてやりたいのだ。
 結果的にそれは姉の為なのだろうが、結局のところただ単に、俺がその負い目から来る苦みから解放されたいだけなのだ。

「いつも言ってるでしょ、友達は大事にしなさいって。気楽に遊べるのなんて、今の内だけなんだよ?」

「――カラオケ、そんなに好きじゃないってだけだよ」

「またそれ。内容それ自体が重要なんじゃないって、あんたも分かってるでしょ?」

「ほんとだって。他の誘いには行ってるよ」

 嘘だ。

「いつ? 試験後以外、悟志くんは部活に行ってるでしょ?」

「……ほんと、行ってるって」

 苦しい言い訳に、姉はまた溜め息を吐いた。

「私、何も『行け』って言ってる訳じゃないよ。ただ、勉強ばっかりで楽しくなさそうなのが見てられないの。それなら、好きな友達と一緒に遊んで、たまにはスッキリしたら良いじゃんって言ってるだけ。分かるでしょ?」

「勉強なんて、別に楽しいもんじゃないでしょ」

「うん、私も嫌いだった」

「なら同じじゃん」

「同じだね。でも、私とあんたは、違う生き物だよ」

「…………」

 言葉に詰まった俺に、姉は困ったように笑った。

「私さ、こう見えても、いま結構幸せなんだよ? あんたが問題なく大きくなって、いい子に育って、とっても満足してる。ほんとだよ。だから、まだまだ若いあんたが、私の為だけに時間を使う必要はないの。やりたいこと、たまにはしてみなよ」

 とても優しい口調で、姉は言う。
 でも、それがいやに鋭く刺さってしまう程、姉が今言っていることは、姉がこれまでして来なかったことなのだ。

「……やりたいこと、してこなかったのはどっちだよ。俺がいたから、楽しいこと、何もして来れなかっただろ」

「これから、幾らでも時間はあるよ」

「若い時に出来なかったことだぞ……? 今、ほんとに出来るの……?」

「――それは、ちょっと厳しいかもね」

「なのに俺には、それをやれって言うの?」

「あんたが私の為にしてくれること、姉としては嬉しいよ。でも、親としては嬉しくない。もっと明るく、もっと笑って高校生活を送って欲しい」

「……自分が出来なかったのに?」

「親って、そういうもの」

 姉は笑う。
 仄かに香る、苦しそうな色を隠して。

「……親である前に、俺の姉ちゃんだろ?」

「姉ちゃんである前に、私は親でいたい」

 あまりに当たり前のように言うものだから、俺はまた言葉に詰まってしまう。
 姉は、それが当然のことだと思っているらしい。

 ——いや。当然なんて思ってはいないのかもしれない。
 それでも、当然のこととして、俺のことを育ててくれているのだ。

「いつもありがとね、真琴。夕飯、美味しかったよ」

「…………ん」

 反論なんて、もう出来るものでもなかった。
 生きる世界が違う、というのは、こういうことを言うのかもしれない。
 まだまだ世の中のことを知らない俺が、あれこれ講釈を垂れたところで、親と同じ目線に立っている姉に響く筈なんてない。
 俺が思っていることの全ては、姉も過去、既にどこかで思って来たことである筈だから。