……落ち着かない。
 これはやはり、選択を間違えてしまったかも分からない。

(やば……俺の方が冷静でいられないかも……)

 隣を歩く彼女の髪から――なのだろうか。
 とにかくもずっと、いい香りが漂ってきている。
 姉の使うシャンプーや石鹸、香水の類とはまた異なるそれは、甘くも爽やかなフルーツらしい香り。
 それが、一歩二歩と歩く度に揺れる彼女の髪からふわっと香って、どうにも心が落ち着かない。
 自分なんかが、とか言っておきながら、先輩は意外と近い距離を歩いている。
 さっきからずっと、心臓が五月蠅くて仕方がない。
 ……早い話が、ガラにもなくドキドキしてしまっているのだ。

「あ、あの……」

 ふと、ずっと静かに歩いているだけだった先輩が、声を上げた。

「えっ……? は、はい?」

 我に返ったような心地で聞き返す。

「榎さんは、その、榎先生と一緒に、住んでおられるんですよね……?」

「ええ、そうですけど――ははっ、やっぱり姉ちゃんが『先生』とか呼ばれてるの、違和感しかないな」

 家での生活っぷりを存分に知っている身からすれば、似合わない似合わない。

「姉ちゃんがどうかしました?」

「えっ…! あ、いえ、その……何でも、ありません……」

 尋ねる俺に、先輩は首を横に振る。
 ——なるほど。気は遣わなくていい、って言ったのに、気を遣って共通の話題を何とか見つけ出した、といったところだろうか。

「――そう言えば、姉ちゃんは先輩の担任なんでしたね。どうです、姉は?」

「えっ、えと……とても、頼りにしています……優しいし、勉強の教え方もとてもお上手ですし……あ、あと、とても美人ですよね……」

「美人? あれが!?」

「あ、あれだなんて、失礼ですよ…! 綺麗なお姉さんじゃないですか」

「綺麗とか、先生って称号より似合わないな」

「よ、容赦がない、ですね……」

「うーん、まぁ実の姉ですしね。そんな風に思ったことがないんですよね」

 年の離れた『姉妹』なら、感じ方も違ったかもしれないけれど。
 弟が姉に抱く印象なんて、そんなものではないだろうか。

「姉弟って、そういうものなんですね……」

「じゃないですかね。先輩は?」

「わ、私は、一人っ子なので……」

「へえ、そうなんですね。それはそれで、気が楽でいいものじゃないですか?」

「ど、どうなんでしょう……入退院ばかりの生活の中、兄弟姉妹がいないことも、人と話すのが苦手になって理由なのかな、と思うことも……あっ、すみません、こんな話…!」

「あいや、俺の方こそ無神経に――にしても、なるほど。確かにそれだと、苦手になっていっても仕方ない話ではありますよね」

 頷く俺に、先輩が意外そうな目を向ける。
 どうしたのかと尋ねると、少し固まっていた後で、いえ、と視線を外した。

「そんな反応をされるとは、思わなくて……」

「そんなって?」

「せっかくの会話を、身の上話に繋げてしまったこと、です……そ、そんなにあっさりと流されるとは、思わなかったので……」

「それは――先輩の、失敗談?」

 先輩は、小さく頷いた。

「昔、ちょっと話す女の子がいたんですけど……な、何度か、どうしてもそういった流れになってしまう内、面白くなさそうに離れて行ってしまって……」

「――難しいところではありますよね、確かに」

 自分語りが苦手、という人は多い。俺は特に気にしたことはないけれど、バスケ部の連中にもそういうやつはいる。
 けれど。

「せっかくの会話、なんて思わなくても良いですよ。話したいことを話して、話したくないことは話さなくても良いです。少なくとも、俺と話してる時は、そんなこと何も気にしなくて良いですからね。好きに話して、好きに話さないでください。それぐらい気楽に、初めての友達ってやつを試してやってください」

 そう、ある程度気を利かせたつもりで言ったそのすぐ後で、気が付いた。

「や、初めてとか、失礼ですよね…! すいません、忘れてください」

 慌ててかぶりを振って、バツが悪くなって頭を抱える。
 そんな俺とは反して、

「――ふふっ。はい、ぜひ、そうさせてもらいます」

 先輩は小さく、けれども確かに笑って言った。
 初めて見る顔だった。
 笑うと、こんなに優しい色になるんだ。
 難しい顔、神妙な面持ちばかりしか見たことがなかったから、俺はそれに気の利いた言葉の一つも返せないままで、その横顔を眺めたまま、しばらくの間固まってしまっていた。