なんだよ、これ。
 どうして、彼女が謝ってるんだ。
 彼女は悪くない。誰も悪くない。俺だって、間違ったことをしたつもりもない。

 それなのに――

 それに、何だよこれ。
 ありがとうございました?
 もう続けないつもりなのか?

 ……いや違う。
 そう誘導してしまったのは俺だ。

 彼女の言葉の揚げ足なんて、取らなければ良かった。取る必要さえなかった。
 追い込んだつもりなんてなかったけど、その距離感が心地よかった彼女のことを、結果的にでも追い込んでしまった。
 そんな俺に、彼女に何か言う資格なんてない。

 それなのに……。

「なんで……」

 どうして彼女は、惜しむような書き方をするのだろう。
 俺の勘違いだろうか?

 ――いや、そんなことはない。そんなはずがない。

 彼女は以前、確かに書いていたではないか。
 貴方と仲良くなりたいと思っている、と。

 俺たちは仲良くなったのか?
 友達になれたのか?

「……そんなわけ」

 俺は、迷わず準備室の扉に手を掛けた。
 捻ったドアノブは、つっかえることなく回った。鍵は開いているらしい。
 ほら。惜しむことなんてない、なんて、嘘だ。
 日記にも(したた)めたのであれば、その不注意を反省して施錠すればいい。
 そうしていないのが、何よりの理由じゃないか。

「――失礼します」

 一呼吸置いた後で、俺は扉を押し開けた。
 彼女は――今日は、特に驚くこともなく、窓の外に目をやっていた。
 その姿はまるで、精巧に作られた人形のように綺麗で――瞬間、俺は目を奪われ、言葉を失ってしまった。

「――そうやっていつも、この部屋で過ごしていたんですか?」

 俺の質問に、彼女は少し時間を置いた後で、小さく、ゆっくりと頷いた。

「……俺が寝てる間、ずっと?」

 彼女が頷く。

「どうしてですか? ノートだけでも置いておいて、教室かどこかで、いや、帰ったって別に良いじゃないですか。俺が来るのは放課後だけだったんだし、朝取りに来て、そこから書いたって――いやそもそも、俺が男だって、気付いてないなんて嘘ですよね。俺、この教室でめっちゃ独り言喋ってたし、多分いびきだってかいて寝てたし」

 聞こえていなかった、ということはないと思う。
 あの椅子の音が聞こえたくらいだ。何もないこの教室で反響する俺の声が、一度も聞こえていなかったということはないだろう。
 そんな、俺の予想の通りに。
 彼女は、暫くの時間を空けた後で、ゆっくりと頷いた。

「……交換日記、やめますか?」

 少しの間、様子を見る。
 しかし彼女は、頷かなかった。

「もう俺、ここには来ないようにしますね」

 彼女は頷かない。

「あれ、もう終わるので、持って帰っておいてくださいね。他の人に見られるのは、俺も嫌なので」

 彼女は――頷かない。
 ほら。
 やめる気なんて――やめたいなんて、嘘じゃないか。

「…………友達、本当に欲しいんですか?」

 少しの間を空けて、彼女は小さく頷いた。

「俺、明日もここに来た方が、良かったりしますか?」

 彼女は頷いた。
 やめたいなんて嘘だ。

 ……俺だって、そうだ。

「わた、し……」

 ふと、彼女が口を開いた。
 窓の外に目をやったままでの瞳が、微かに揺れ動いているのが見えた。

「わたし……小さい頃から、入退院を繰り返す生活で……誰か、仲良くなった子とか、よく話せる人って、病院の先生と看護師さん以外にはいなくて……それで、友達が欲しかったんです……」

 僅かに、声も震えていた。

「そのせいで、人と話すのが苦手で……それでも、どうしても友達が欲しくて、でも、やっぱり話しかけに行く勇気なんか、出なくて……そんな私でも出来ることが、筆談しか思い浮かばなくて、それで……」

「文芸部、今は貴女だけなんだって、姉ちゃ――先生から聞きました。貴女以外に寄りつかない場所にノートを置いて、友達が出来るなんて、本当に思ってたんですか?」

 彼女は、首を横に振った。

「友達は欲しいけど、沢山の人に見られるのは、恥ずかしくて……誰か、気付いた人だけ、手に取ってくれればって」

「手に取った奴が、それを晒上げるような真似をしないとも限りませんよ」

「貴方は、そんなことをしませんでした」

「……結果論です」

「でも、こうして先週までは、続けてくれました……感謝しても、しきれません」

 彼女は、会話を切ろうとするかのような言葉で続けた。
 欲しいと言いながら遠ざけようとするのは、彼女の境遇が作り上げた性格から来る、自己防衛のようなものなのだろう。
 だから、ここで俺が踏み込むのは違う。
 違うと、分かってる筈なのに。
 踏み込まないと、引いたその線から逸脱することにも挑んでいかないと、友達なんて永遠に出来ないままだ。
 それでも彼女は、欲しいと言った。文字だけでなく、言葉にして声に出してくれた。
 それはきっと、彼女なりに精一杯頑張った結果なんだ。

 きっと彼女なりに、線は引きつつも、壁を一つ壊したんだ。
 だから、こんなに小刻みに肩を震わせているんだ。
 頑張った。きっと、頑張ったんだ。

「……続けて来た、なんて言わないでください。俺、明日もここに来ますから」

 思い切ってそう言ったところ、彼女がようやく、俺の方に目を向けてくれた。
 それでも、口にした通り苦手で恥ずかしいのか、俺の耳元、首すじ、背後の方へと泳いだ視線は、自身の足元へと落とされる形で落ち着いた。

 十分だ。

 きっと、それだってかなり無理をしたのだろう。慌てた様子で小さく丸まってしまった。

「嫌なら、やめたいなら、そう口で言ってください。でも俺は――今は俺も、貴女と仲良くしたいなって、そう思い始めています。もっと色々、話したいと思っています」

「は、はい……」

 彼女は、控えめに頷いた。
 ——こんなこと、本当は言うつもりもなかったけれど。
 彼女の身の上を少しでも聞いてしまった今、俺だって言わない訳にはいかない。

「――俺、バスケ部だったんです。小学校と中学校。高校でも続けるつもりでした」

「ば、バスケ、ですか……すごいですね。背、高いですもんね」

「自慢じゃないですけど、それなりに上手くやれてる自負もありました。でも、中学三年に上がるすぐ前に、ちょっとした事故に遭って、膝が外れやすい身体になって――それで、諦めたんです。諦めるしか、なかったから」

 彼女は、相槌を打つ代わりに、小さく頷く。
 前髪が影を落とすせいで詳しい表情までは窺えないけれど、それはやや、何かを言いにくいような暗さを持っているようにも見えてしまった。

「あ、いや、それ自体が言いたいことじゃなくて……それがあって、今部活には入っていないので、暇というか、時間だけはいっぱいあって、それで……」

 違う。そうでもない。
 言いたいことは、その先のことだ。
 それを望むことが、自分が望んでいることが、自分でも意外だったせいで、認めるのがどこか怖かった。だから、彼女が日記を持って帰った時、それでもいいと思った。
 でも、そうじゃなかった。
 それを望んでいるのは俺自身で、疑いようのない事実で、正直な気持ちだった。そう、自覚した。
 だから、俺も言わないと。
 もっと正直に、もっと分かりやすい言葉で。

「……変化が、欲しいんです」

「変化、ですか……?」

「はい、変化。うち、俺と姉ちゃんしかいない二人だけの家で、家事はやらなきゃだけど、とにかく暇で暇で……じゃなくて、だから、貴女と話しているのは楽しかったんです。毎日毎日勉強ばっか繰り返すみたいな日々から、どこか抜け出せたような気がして」

 そう。それでいい。
 言いたいことを、正直に言うだけだ。

「だから――俺と、友達になってください。もし、貴女が嫌じゃなければ」

 高校生にもなると、友達、という言葉をそのまま使うことには、どこか抵抗があった。
 けれど、その言葉だからこそ、その言葉を使うからこそ、意味があるんだ。
 少なくとも、今この場に於いては。

「とも、だち……」

 彼女は、その言葉だけを復唱した。
 二回、三回と噛み砕いてようやく、理解出来たかのように顔を上げた。
 その目元には、薄っすらと雫が浮かんでいて――

「いい、のでしょうか……私が、望んでも……」

「最初に言ったのは先輩の方でしょう? 俺、そのつもりで日記やってたんですけど……違ったんですか?」

「ち、違いません…! 友達、欲しかったです…!」

 ずずいと顔を寄せるようにして、彼女は前のめりに話す。
 一拍置いて、そんな行動に出たことと声を荒げたことにでも羞恥心を感じたのか、また引っ込んで、視線は逸らされてしまった。

「友達……なってくれるんですか……? に、日記でしか、話せないような私なのに……」

「別に、しばらくはそれで良いんじゃないですか? 俺、多分毎日来ますから、そのうち慣れてくれれば良いですよ」

「な、慣れないかも、分かりませんよ……」

「それならそれで、まぁ別に良いでしょ。ちょっと寂しいですけど。でも時間はあるし――って、それ俺だけか。先輩、受験生なんですもんね」

「それ、は――い、いえ。なるべく、早く慣れるように努めます」

 努めるようなことでもないとは思うけれど。
 いや。それも、彼女にとっては、現状とても難しいことなんだろう。

「やりたいこと、やって行きましょう。まずは――そうですね。駅前のクレープ屋、行けるようになれれば良いですね」

「そ、外に行くんですか…!? 一緒に!?」

「そりゃ友達ですし――って、俺異性か。まずいなら、別に行かなくても――」

「い、行く、です…! です、けど……ちょっと、心の準備が……い、異性とかじゃなくて、人と出たこと、ないから……」

「――分かりました。じゃあ、これは一先ずの最終目標ということにしましょう」

 彼女は、恥ずかしそうに小さく頷いた。

「そ、それにしても、どうして受験生って……あ、先生に聞いた、って……榎先生に、聞いたんですね。ご姉弟かなにか、でしょうか?」

「はい、さっき言った姉ちゃんっての、アレです。十個違うんですよ」

 俺がもうすぐ十七で、姉が二十七だ。

「貴女のことも、結果的にですが、その姉から聞いたんです。あ、名前だけ。確か、先輩のクラスの担任なんですよね」

「は、はい……榎先生には、とてもお世話になっていて……相談とか、勉強とか、色々……」

 なんて言い出す先輩を前に、俺は思わず吹き出してしまった。

「な、何か、おかしなことを言いましたか…!?」

「えっ? ああいや、姉ちゃんが『先生』とか呼ばれてるの、そう言えば初めて聞いたなって。まだまだ若いし、生徒との距離が他の先生と比べて近いからか、『さやちゃん』とかって呼ばれてるのしか聞いたことがないんですよね」

 榎紗耶香。で、さやちゃんだ。
 内何度かは『さやちゃん先生』だとか呼ばれていたような気もするけれど、それだって『先生』より『さやちゃん』の方に引っ張られる。
 どうあれ、良くか悪くか、先生らしい威厳なんてないような感じだった。

「榎先生、生徒からとても人気がありますから……美人ですし、ノリも良い性格をしてらっしゃいますし」

「あれが美人? ないない、うち来ます? ガサツだしそこそこだらしないし、手を焼くこともちょいちょいあるんですよ?」

「そ、それは――きっと、家だからこそ羽を伸ばせるのではないでしょうか。少なくとも、私たちの目に映る先生は、とても毅然としていて、それでいてとても優しいお姿ばかりですから」

「ふぅん……そういうもんですかね」

 言われてみれば、そう思えなくもない。
 先輩たちは、俺の目には映らない面ばかりを知っているのだろう。
 俺は姉と、学校ではなぜか極端に出会わない。

「それより——そろそろ、帰りましょうか」

「えっ……?」

 と、先輩は思いがけない言葉でも聞いたような声で俺のことを見上げた。
 思わず同じように聞き返した少し後に、ああそうかと自身の言葉を撤回した。

「そっか、俺が部活に入ってないだけで、先輩は文芸部ですよね。すいません」

 机の上に置かれた原稿用紙の数々に目を送る。

「……じゃあ、俺は先に」

「は、はい……お疲れ様、です」

 ぺこりと小さくお辞儀をしながら先輩が言う。
 俺もそれに倣って頭を下げて――せっかくだから、敢えて言葉にしてみようと、再度口を開いた。

「えっと……また、明日」

 自分で思うより控えめに出て来たその言葉に、先輩はハッとして俺の目を見てくれた。
 先刻のように、逸らすでも泳ぐでもなく、そのまま俺の目を見つめ続ける。
 そうなのだと分かってしまった途端、俺は心臓が強く、速く打ち始めたのを感じた。

「え、と……どうしました?」

 聞くとようやく、先輩はまた俺の目元から視線を逸らした。
 泳いで泳いで、辿り着いた先は、また同じ足元だった。

「あ、えっと……」

 両腕を挟んだ足をキュッと閉じて、背筋まで丸めて小さくなって、

「……また、明日」

 一言、恥ずかしそうに声を出した。
 もう一度トクンと強く打った心臓を隠すように、俺は小さく会釈だけ残して、そのまま教室を後にした。

 ――先輩も、こういう気持ちになったのだろうか。

 また明日、なんて、自分でも『敢えて』口にしたのだと思ったように、存外日常的に使う言葉ではない。
 思った以上に嬉しい。
 嬉しいけれど――少しだけ、恥ずかしいな。