『今日、クラスの子たちが話していたのですが、駅前が随分と賑わっているらしいですね。なんでも、新しいクレープ屋台が出来て、客足がとても多いとか』

『それ、うちのクラスの子も言ってた。スイーツだけじゃなくて、おかずクレープも売ってる上にすごい美味しいって、SNSから拡散されて有名になってきてるらしいね』

『そのようなお話でしたね。ただ、おかずクレープ、というのは何なのでしょう? ご存知ですか?』

『唐揚げとかハムチーズとか、アボカドサーモンとか、そういうご飯系のおかずを挟むクレープだよ。本当に知らないの?』

『知りませんでした。そのようなものがあるのですね。一度、食べに行ってみたいです』

『行ってみれば良いじゃん。って書いたけど、幽霊なんだったね』

『ええ。なので、私は行くことが出来ません。行ったところで、食べることは叶いませんから』

『知らないことを知る権利ぐらい、幽霊にだって』

 と、そこまで綴ったところで、俺は一度、必要ないだろうと思っていた消しゴムを取り出し、自分で書いた文章を消した。
 知らない言葉を、わざわざ一日先にしか返事が来ない人間に対して尋ねる必要が、はたして現代人の高校生にあるのだろうかと思ったからだ。
 スマホか、持っていなければガラケーか、或いは自宅にあるパソコンで、幾らでも調べられる。幽霊でもあるまいし。

 そう。彼女は幽霊ではない。
 それは、姉と、俺自身の記憶が証明してくれた。
 それに彼女は『クラスの子』と口にした。読み返しても相違はない。
 幽霊かという俺の問いに対し、想像に任せると、どちらでもいいような言い方で突き放しておいて、だ。

 俺は、返信の内容を変えた。

 俺の方から詮索するようなことでもないから、わざわざ聞かないようにと思っていたけれど、どうにも気になってしまうのだ。
 彼女の――そう、幽霊でも何でもない、相良麻衣という一人の人間が工作した、交換日記というものそれ自体の意味が。
 他でもない俺が今、踏み止まったように、彼女だって、自分で書いていて、その書いた内容に疑問を抱かなかったとは、どうにも考え辛い。
 俺が幽霊かと尋ねたことに対して『想像に任せる』と返したのは、その後の返信内容からも、俺がそう思っている方が都合が良いとでも考えたからだろう。

 理由は分からないけれど。

 しかしそれでいて、『クラスの子』と自分で書いたことに対しては疑問を持たなかった。続けて書かれた俺の文章にもその言葉は入っていながら、彼女はそれには触れなかった。
 その違和感に、自分自身が気付かない筈なんてない。

 それは、まるで――

『クラスの子?』

 わざわざ聞くのは間違いだっただろうか。野暮だったろうか。
 そう思いながらも、俺は消すことなくノートを閉じた。

『言葉の綾です。廊下を通る生徒たちの会話が聞こえたんです。私は幽霊です。クラスになんて所属はしていませんよ』

 彼女は、幽霊であるという立場に還った。

『幽霊ならそうだろうね。でも』

 そう、書きかけた時だった。
 奥の方。思わず視線を向けた、鍵のかかった準備室の方から、ガタ、と物音がした。
 それは小さな音だったが、吹奏楽部の楽器の音が運よく止んでいた今、とても鮮明に耳へと届いた。
 椅子が――木のボックス椅子が、倒れるような音だった。
 学校の理科室に置いてあるような、四角のあれだ。
 雫の落ちる音、動物か何かの動いたような音であれば、疑問に思うこともなかった。
 けれどもそれは、明らかに人為的なものだ。

 科学部の誰かが使っている可能性は無い。
 いや、科学部なるものがあるかどうかも知らないけれど――あったところで、旧理科室側の準備室も、今は立ち入り禁止。現在でも利用されている隣の理科室から使う準備室は、その更に隣の部屋だ。
 仮に使うなら、開放されているこちら側――そう、唯一利用している、文芸部員以外にあり得ない。

 文芸部員……。
 相良麻衣だ。

 わざわざ隠れているような人間の正体を突破することの、なんと配慮のないことか。

「…………」

 などという思考は、一瞬の内だけだった。
 そんなこと以上に、例えば怪我や持病なんかで倒れてしまう際に聞こえた音なのだとすれば、見過ごすわけにはいかない。
 見過ごして何かが起こった後で、知らぬ存ぜぬというのは通らない。
 そんな考えは瞬きの内に忘れて、俺は扉に手を掛けた。
 鍵はかかっていなかった。恐ろしいほどにあっさりと、扉は開いた。

「大丈夫ですか…!?」

 大声を出しながら見やった扉の向こう。
 窓辺に向かう小さなテーブルの足元に、その姿はあった。

「ぁ、と……ぇ……」

 その女子生徒は、尻もちをついて俺のことを見上げていた。
 さらりとした長い黒髪。同色の眼鏡。同じく黒の、深く吸い込まれそうな丸い瞳。
 それら全てが訴えかける――不安げな表情。

「ぁ、の……」

 それが言葉なのかただの音なのか、分からず言葉に詰まってしまった暇に。

「……っ!」

 さっと立ち上がった勢いそのまま、俺の脇を通り過ぎ、走り去っていってしまった。

 倒れたままの椅子。
 机上の原稿用紙。
 恐らく彼女のものと見られるハンカチ。

 それらを見送った先に目を向けたあの机の上から、例のノートは無くなっていた。