しばらくは、無言の時間が続いた。
 今日は夕飯の材料も家にあるもので足りるから、買い出しもなく、ただ帰るだけ。

 寄り道もしない、家までの三十分。

「まずは――そうね。非行に走っていないってことは分かってる。学校の中で時間を潰していたんだろうからね」

「……うん」

「でも、嘘はよくないかな。さっき、外周を走ってる悟志くんと鉢合わせたんだけどさ。私も、敢えて敢えてはっきりとは尋ねなかったけど、部活に顔を出してるっていうの、嘘だよね」

「…………うん」

 別の学校に通っているやつの名前で吐く嘘ならまだしも、同じ学校、それも幼馴染で昔から姉とも親交のあるやつの名前を使って吐く嘘なんて、その程度のものだ。
 そんなこと、分かってたはずなのにな。

「昨日のは嘘。だけど、別の時には同じことで誘われてはいるから。それ自体は、嘘は言ってないよ」

「ん、分かった。理由、聞いてもいい?」

 姉の声音は、至って真面目だ。
 俺は言葉に詰まってしまう。

 やっていることそれ自体のせいじゃない。
 悟志の名前を使って嘘を吐いていたこと、そしてその嘘で姉を安心させてしまったことに対する、後悔から来る罪悪感のせいだ。

「――別に、そこまで怒ってる訳じゃないんだよ。わざわざ嘘を吐くようなことには、理由があるはずでしょ? それも、ほんのちょっとだけ言いにくい程度のこと」

「……うん」

「絶対に言えないようなこと?」

「……って言うか、恥ずかしいこと」

「そんな程度のことだと思った。言いな、別に笑ったりはしないから」

 姉は、努めて優しい口調で言った。言ってくれた。
 それだけのことで、心は幾らか軽くなった。

「……交換日記をさ、してるんだよ」

「交換日記……? 誰と?」

 姉は、心底意外そうに聞き返してきた。

「分からない。というか、知らない。誰かと」

「ふぅん。どこで?」

「……立ち入り禁止の空き教室。ほら、特別教室側の一階の、一番奥にある旧理科室」

 それも、言葉に詰まった理由の一つだった。
 立ち入り禁止、とわざわざ張り紙までされている教室へと侵入しているのだ。鍵が開いていたとは言え、軽い気持ちでやっていいようなことではない。

「ごめん、勝手に入ったのは――」

「あぁ、その教室ね。じゃあ麻衣(まい)かな。うちの子だ」

 姉は、なるほどといった様子で言った。
 思わず俺は聞き返す。

「ま、麻衣……?」

「うん。私、この春から部活の顧問になったんだよ。顧問らしい活動なんて殆どないから、別にあんたにも言ってなかったけどさ」

「顧問……? え、あの教室、部活で使ってるの?」

「うん、文芸部がね。でも今、その文芸部はその子一人だけでさ。顧問もいない一人だけの部は部としての存続は認められないんだけど、都合、今だけ部として認めて貰ってるの。その条件の一つに新しい顧問が必要だったんだけど、それに私がなったわけ。言ってみれば、名前だけ置いてるような状態ね」

「ぶ、文芸部……」

 それは知らなかった。
 特に興味もなく、高校では入学当初から部活に入っていないこともあって、この高校に何部があるのか、またどの部がどの教室を使っているのかなんて、詳しくは知りもしなかった。
 中学の頃は、バスケ部に所属しているってだけで、そんな話はいくらでも受動的に入って来ていたから。

「しかしあんた、名前も知らない子と話してるなんてね。それも、文字だけのやり取りでさ」

「気が付いたら置いてあったんだよ。それで、気まぐれに返事書いてみたら、なんか続いちゃってさ」

「――へぇ。今晩、雪でも降るんじゃない?」

「……笑わないって言ったくせに」

「笑ってないわよ。おちょくってるだけ」

「良い性格してるよ」

「ん、最高の褒め言葉だ」

 姉はわざとらしく笑って言う。
 日記の相手、麻衣って名前なんだ。

 麻衣……麻衣?

(麻衣って……)

 直感したのは、初めてあのノートを見た時に感じた違和感の一つについてだった。
 俺はあの字に、どこか見覚えがあるような気がしていた。
 今思えば、それもあのノートが気になった理由の一つだったのかもしれない。
 相良(さがら)麻衣――芸術科目の選択授業、書道科で使っている教室の外に、見本として掲示されている作品の一つにそんな名前のものがあった筈だ。
 あれは確か、書道のコンテストで入選したから掲示されていた。

 見覚えがあるような字、ではなかった。
 俺は確かに、あの字を見たことがあったのだ。

「姉ちゃん。麻衣って、相良麻衣?」

「え、知ってるの?」

「あいや、名前だけ。書道の入選作品で。俺も、芸術の選択は何となく書道を選んだから」

「ああ、そうだったわね。ん、そうよ、相良麻衣。私が担任してるクラスの子よ」

「担任……」

 姉は今、三年のクラスを受けもっている。
 ということは、相良麻衣は――交換日記の相手は、三年の先輩だ。

「え、どうしよ。俺、ずっとタメ口なんだけど」

「別に良いんじゃない? お互いに素性を知らないんでしょ?」

「それは、そうだけど……」

「それにしても――そっか、麻衣と交換日記してるんだ」

 姉は、どこか含みあり気に呟いた。

「え、何?」

 尋ねると、少しの間を置いた後で、姉は目を伏せた。

「んーん、何でも」

「何だよ、それ。言い逃げは無しだろ」

「別に逃げた訳じゃないわよ」

 笑って言って、姉は続ける。

「ね。それ、麻衣は最初、何て書いてたの?」

「……守秘義務」

「うわ、また大人ぶってる。まあいいわ。大方『友達募集』とでも書いてあったんだろうしね」

「募集じゃなくて、なってくれって」

「――ふぅん?」

「あっ……いや、まあ、うん。友達になってくれって、いきなり書いてあったんだよ。だから無性に気になって、幽霊かって尋ねた」

「あははっ! うーわ、失礼な弟ね、まったく。あはは!」

「わ、笑うなよ…!」

「いや笑うでしょ、あははっ!」

 姉は豪快に笑った。
 こんな笑い方、久しぶりに見るってくらい、遠慮なく笑った。
 そうして一頻り笑った後で――優しく、微笑んだ。

「そっかそっか、麻衣、そんなこと書いたんだ」

「姉ちゃんは、その相良麻衣って人のこと、何か知ってるの?」

「――んや、なんにも」

「何だよ、それ」

「知らないのは知らないけどさ――」

 姉はどこか、

「せっかく返事したんなら、あの子と仲良くしてあげてね」

 どこか物悲しげに笑って、そう言った。

「姉ちゃ――」

「さーて、夕飯夕飯! 今日は何作ってくれるの?」

「えっ……? え、っと、野菜炒めと味噌汁、だけど……」

「ん、楽しみなやつだ。ほら帰るよ、歩け歩けー」

 姉は、さっさと小走りで道を進み始めた。
 まるで俺に、それ以上何かを尋ねようとさせないみたいに。