*
六月に入って数日が過ぎた。
クラスメイトの提案もあって席替えをすることになる。順番にクジを引いていった結果、わたしは一番後ろの席になった。
「胡桃沢さん、よろしくね」
わたしの左隣には瀬戸口くんが座る。
もちろんそのときの姿は、先週見た〝あの姿〟ではなく、みんなから慕われている表の顔、王子様の姿だ。
「こちらこそよろしくね」
当然、わたしも表の顔で返事をした。
休み時間になると、教室は少し騒がしくなる。
「瀬戸口くん、この問題が分からないんだけど」
彼の席にクラスメイトがやってくる。
瀬戸口くんは嫌な顔ひとつもせずにいつものように快く受け入れた。
「すごい! 瀬戸口くんのおかげで問題が解けた!」
「僕じゃなくて、鈴木さんが一生懸命僕の話を聞いてくれたからだよ」
教室にいる瀬戸口くんは完璧な優等生でもあり、王子様でもある。
けれど、もうひとつの顔がある。
それを知っているのはわたしだけ。
休み時間が残りわずかに迫る中、わたしは次の授業の準備をしていた。すると、「やべ、数学の教科書忘れた」と突然クラスメイトの男子が騒ぎ出す。
「なあ、誰か貸してくれ!」
「何言ってんだよ。次数学なのに貸すわけねーじゃん」
「そうだよ。他のクラスに借りてこいよ」
これから数学のため誰も貸そうとはしない。
そんな中、おもむろに瀬戸口くんが席を立つ。
「野田くん、僕の教科書使って」
あろうことか彼に話しかけたのだ。
当然困惑した彼は、「え、だけど、瀬戸口が……」と彼と教科書を交互に見つめる。
言いたいことは分かる。これから数学の授業があるのに、教科書を貸してしまえば瀬戸口くんが授業中に困るからだ。
「野田くん、確か教科書三回忘れてるんだったよね。次は準備室の片付けさせるって言われてたし、だからこれ使ってよ、僕は借りるから大丈夫だよ」
そう言うと、教科書を野田くんに渡す。
「マジでありがとう。あとでジュース奢るよ!」
野田くんは感謝して手を合わせた。
──キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴り、瀬戸口くんが席についたあと、数学の先生がやってくる。
「みんな席につけー」
教卓へ向かった先生を見て、瀬戸口くんは堂々を手を挙げた。
「先生、すみません。今日教科書を忘れてしまったので胡桃沢さんに借りてもいいでしょうか」
当然わたしは驚いて、彼を見つめた。
「おー瀬戸口が珍しいなあ。よし、いいぞ。胡桃沢、教科書を見せてあげなさい」
先生は注意をすることもなく、わたしに言う。
わたしは、小さく返事をすると、瀬戸口くんが「胡桃沢さん、よろしくね」と言って机をくっつけた。
最近では、彼のそばにいると不思議と安心してしまう。その理由は、自分の過去を瀬戸口くんに打ち明けたからだろう。
ほんとの意味でひとりじゃないことがこんなにも大きな力になるのだとはじめて知った。
「起立、礼──」
授業が終わると委員長が号令をかける。
休み時間になると、すぐに教室は騒がしくなった。
「胡桃沢さん、教科書見せてくれてありがとうね」
「どういたしまして」
瀬戸口くんの笑顔を見ると、わたしまで嬉しくなる。
「瀬戸口、ほんとに助かったよ! マジでサンキューな!」
野田くんが瀬戸口くんの元へやってくる。
「これから俺、ジュース買ってくるんだけど何がいい?」
「僕は大丈夫だよ」
「それだと俺の気が収まらねえ! 炭酸系がいい? それともスポーツドリンク系?」
「じゃあ……アイスティーで」
瀬戸口くんが言うと、野田くんは「了解!」と言って騒がしく教室を出て行った。
「瀬戸口くん、今いい?」
別のクラスメイトに声をかけられる。
彼は嫌な顔ひとつもせずに対応していた。
また別の休み時間には、わたしが自主的に先生の手伝いをしていたら、
「胡桃沢さん、僕も手伝うよ」
と、瀬戸口くんがやってくる。
「ありがとう。すごく助かるよ」
わたしが持っていた箱を瀬戸口くんはひょいと掴み上げた。
廊下にいる生徒たちから羨ましそうな眼差しを向けられる。
数学準備室にやってきて荷物の入った箱を置くと、わたしたちは人通りの少ない旧校舎を通って歩いて帰る。
「こっちの校舎、わりと静かでいいよな」
不意をつくように現れた瀬戸口くんの裏の顔。
「そんな話し方してていいの?」
「いいんだよ。胡桃沢さんの前だけだし。てか息抜きだよ息抜き」
ちらっと隣を見ると、姿勢や歩き方はいつも通りなのに、口調だけが裏になっている。
「ふふっ」
思わず笑ってしまうと、
「何だよ」
少し照れくさそうにムスッとした顔がこちらを向いていた。
教室に戻ると、すぐに王子様キャラになる。
わたしだけが知っているこの感じは、まるで特別感のようで、少しだけ嬉しくなった。
*
それからいつも通りの日常が続いていく。瀬戸口くんと席が隣になったことで、前よりは騒がしい毎日だ。
瀬戸口くんとは、あいさつは当たり前になり、休み時間になると授業中に出た問題のことや、昨日の夜何を食べたかなどごく普通の会話もするようになった。
そしてひとつ変わったことと言えば、瀬戸口くんに対する気持ちだ。はじめのうちはバラすなと脅されていたのに、いつのまにか過去の苦しみを打ち明けて心強い味方となってくれた。
今では瀬戸口くんの隣に無条件にいられることや自然体で過ごせることに嬉しさを感じていた。
そんなある日の一限目終わりの休み時間のことだった。
「胡桃沢さん、呼ばれてるよ」
何だろうと思いながら廊下に向かうと、そこには隣のクラスの男子がいた。
「急に呼び出してごめん。今、大丈夫?」
顔は知っているけれど、あまり話したことはなかった。
でも、みんなの前だし断るわけにもいかずに、
「大丈夫だよ」
返事をすると、場所を移動することになった。
そして人気の少ない旧校舎の階段にやってくる。
「急にごめん。でも、胡桃沢さんに話があって……俺、胡桃沢さんのことが好きなんだ」
階段に響き渡る告白の声。
今までも何度かされたことがある。けれど、わたしはどの告白にも断り続けてきた。
だから今回もまた同じように、
「えっと、気持ちは嬉しいんだけど……」
断ろうとすると、「待って」と引き止められる。
「少しだけでいい。少しの間だけ俺のこと考えてみてくれないかな」
そう言われてしまえば、それを押し切って断ることができなかった。
教室に戻ると、クラスメイトが集まってきて「告白されたの?」「返事はもうしたの?」と次々と質問攻めにあう。
どうやら呼び出された時点でそれが告白だと気づいていたらしい。まだ返事ができていないことを告げると、「今度は好きってこと?」と違う意味で誤解されそうになった。
もちろん最後まで学校用のわたしで真摯に対応をした。
五限目終わりの休み時間。
「瀬戸口くんって付き合ってる人いるの?」
突拍子もなくクラスメイトが尋ねる。
その瞬間、ロッカーに荷物を置いていたわたしの心はわずかに動揺する。
「急にどうしたの?」
「この前ね、夜に瀬戸口くんが女の人と一緒にいるところを見たって友達が言ってたの。だから実際のところどうなのかなあって思って!」
何て答えるんだろう、と少し気になっていると、
「見間違いじゃないかな。僕、付き合ってる人いないし」
その言葉を聞いて、どこか安心している自分がいた。
どうしてそんなふうに思うんだろう。
「だよねえ。瀬戸口くんが夜に女の子を連れ回す姿なんて想像できないし」
クラスメイトは口を揃えて納得していく。
話は自然と終わるかと思っていた。
「じゃあ、どんな子が好きなの?」
また恋バナが加速する。クラスメイトの女子はみんな気になるようだった。
かくいうわたしもそのうちのひとりで。
「僕の好きなタイプ? そうだなあ」
うーん、と瀬戸口くんは考えだす。
もしも瀬戸口くんに好きな人がいたら……わたしは嫌だなあ。
──えっ……?
わたし今、嫌って思った。
それはどうして?
そんなの答えは、ひとつしかない。
わたしは、瀬戸口くんの答えを耳にする前にロッカーのそばから歩き出し隣のクラスへ向かった。
「菅田くんいますか?」
近くにいた子に声をかけて、彼を呼んでもらう。
「胡桃沢さん、どうしたの?」
「少しだけ今、時間ある?」
一瞬だけ困惑していたけれど、すぐに菅田くんは頷いてくれた。
彼と話をするのは、約五時間ぶり。
告白をされたのが一限目終わりの休み時間。
「あのね、さっきの答えを伝えたくて……」
「え、それは、少し考えてくれって」
「うん。そうなんだけど、相手のことを思ったらそれはよくないんじゃないかって思って。だから、聞いてほしいの」
きっとそれは自分勝手で、菅田くんからすると誠実ではないのかもしれない。
だけど、どれだけ待っても答えは変わらないのだ。
だったら時間をかけて期待をさせてしまうのは忍びない。
「気持ちを伝えてくれてありがとう。ほんとにすごく嬉しかった」
わたしは、大切な人が離れていく恐怖を知っている。怖さを知っている。少しでも傷つけてしまう言葉を言わなきゃいけないことはとても苦しい。
だからといって、ここで嘘をつくことはそれこそ相手に誠実ではない。
「でも……わたし、気になる人がいるの。だから、菅田くんの気持ちには応えられません。ごめんなさい」
頭を下げると、菅田くんは、
「うん、知ってた」
そうっと顔を上げると、穏やかに微笑む彼の姿が見える。
「最近の胡桃沢さん、なんとなくだけど空気が優しくなったから。あ、いや、元々優しかったんだけど、なんていうか、今までの胡桃沢さんは完璧で居続けようとしてるみたいな感じがしたんだ。でもそれがいい意味で少しだけ溶けたような感じがして。俺の気のせいだったらごめん」
菅田くんの言葉にわたしはゆっくりと首を振った。
「菅田くんの言う通り、わたし、今までずっと無理してたんだと思う。でも、ある人のおかげで少しだけ……少しだけ、肩の荷が降りたのかもしれない」
それは他ならぬ、瀬戸口くんのこと。
彼の言葉が、彼の優しさが、わたしの凍っていた心を少し溶かしてくれた。
「そっか。なんか、妬けるなあー」
そう言って菅田くんは、笑ったあと、
「胡桃沢さん、俺のことちゃんと考えてくれてありがとう。嬉しかったよ」
「わたしの方こそ、好きになってくれて、気持ちを伝えてくれてありがとう」
菅田くんは最後まで優しそうな顔で笑ってくれた。
放課後になり、わたしは瀬戸口くんに声をかけようとしたら、「胡桃沢さん」と南さんたちがわたしに駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
のどまで出かかっていた言葉を飲み込んで、南さんたちへと顔を向ける。すると、彼女ではなく隣にいた石原さんが口を開いた。
「実はね、胡桃沢さんにお願いがあって! うち、今から妹の迎えがあるんだけど、そのあとも夕飯作ったりしなきゃいけなくて……」
「わたしが変わってあげたかったんだけど、このあと用事があって」
「だからお願いできないかな!」
ふたりは交互にわたしに言ってくる。
その眼差しは、頼みの綱とでも言いたげな様子で。
「うん、大丈夫だよ」
わたしはいつものように笑って答えた。
そうしたら石原さんにすごく感謝されて、「今度の掃除当番変わるから」と言ってくれた。そのあと、ふたりは忙しなさそうに教室を出ていった。
「胡桃沢さん、また明日」
瀬戸口くんにあいさつをされて、そこで引き留めるわけにもいかずに、
「あ、うん、またね」
わたしも同じように返した。
そのあと掃除当番の人が残り、黒板や床、机のズレ、ゴミ捨てなどをやって、それが終わるとみんな部活へ行ったり帰ったりする。
壁に掛けてある時計を見ると午後四時を過ぎたあたり。まだ十分くらいしか経っていない。今からならまだ間に合うかもしれない。そう思ったわたしは、鞄を肩にかけると教室を飛び出した。
門を抜けて右の道へ進む。五分走ると見慣れた場所からかなり遠ざかっていることに気づく。でも、瀬戸口くんの姿はまだ見えない。まだ先へ進むと、横断歩道が見える。そこを過ぎて、ひとつ目の角を曲がると、スーパーが見えた。お店の外で待とうかと思ったが、もしかしたらもう買い物を終えて帰っているかもしれない。なんとなくそう思ったわたしは、スーパーを過ぎて大通りを抜けると、ちょうど右の道へ曲がろうとしていた瀬戸口くんらしき人が見えた。
「瀬戸口くん!」
お腹の底から声を出す。
けれど、わたしの声は届かなくて右の道へ曲がっていく。
必死に走って、追いかけて、彼が曲がった道へ進んで、少し先に見える後ろ姿に。
「瀬戸口くん、待って!」
もう一度声をかけると、立ち止まる。
そして、ゆっくりとこちらを向いた。
間違いない、あれは瀬戸口くんだ。
「瀬戸口くんに、話が、あるの!」
走り続けたせいで息が途切れ途切れになる。
それでも走るのは、彼に伝えたいことがあるから。
わたしは必死に追いつくために走った。が、アスファルトにつまづいて転んでしまった。最悪だ。
「……わたし、ついてない」
心が折れてくじけそうになった。
身体を起き上がらせて、血が滲んでいる膝を見つめていると、
「大丈夫か?」
焦ったような声が近づいてくるのがわかった。
そうっと顔を上げると、わたしのそばまで駆け寄ってきた瀬戸口くんか見えた。
「なんで……」
「何でって胡桃沢さんが転んだから心配して戻ってきたんだよ」
「わたしのことなんて放っておけばよかったのに」
「放っておけないからきたんだよ」
なんで?
わたしはそう聞きたかった。
でも、意気地なしで聞くことができない。
「とりあえず場所移動して消毒するぞ。立てるか?」
わたしにそうっと手を差し伸べてくる。
わたしはその手のひらに、ゆっくりと手を重ねた。
それからわたしを小さな公園のベンチに座らせると、瀬戸口くんは一度公園を出た。五分ほどして戻ってくると、小さな袋を提げて戻ってくる。
袋の中から絆創膏とガーゼと消毒液を取り出して、
「少し沁みるかも」
消毒液をかけると、ほんとに沁みて思わず顔が歪む。
「痛い……」
「うん。でも我慢」
黙々と瀬戸口くんは手当をしてくれる。
絆創膏まで貼り終えると、「よし」と言ってベンチに腰掛けた。
「……ありがとう」
照れくさくなって俯いた。
無我夢中だったとはいえ、さっきの出来事は恥ずかし過ぎて顔が熱くなる。
「そういえば何で追いかけてきの。なんか先生に頼まれたとか?」
「あ、えっと、それは……」
意識すると、一気に緊張してきて、言葉に詰まってしまう。
それを言いにくいことだと勘違いしたのか、
「……もしかして、付き合ったとか?」
「え?」
「菅田、いい人そうだよな。女子の間で結構人気あるみたいだし」
瀬戸口くんに勘違いされるのは嫌だと思った。
「──違うよ! 付き合ってないよ!」
わたしは咄嗟に声を張り上げる。
すると、その声の大きさに瀬戸口くんは少し驚いて、
「そう、なのか?」
「う、うん。少し考えてみてほしいって言われたけど、断ったの。時間かけても答えが変わるわけじゃなかったから……それに……」
一度わたしは話すのをやめる。
大切な人が突然いなくなってしまう悲しみを、わたしは知っているから、それを言葉にするのはとても怖い。
「わたしね、気になる人がいるの……その人は、今隣にいるんだけどね」
きっとこれがわたしなりの精一杯。
わたしの言葉を聞いて、隣からかすかに驚いたような声が漏れる。
瀬戸口くん、なんて思ったかな。
不安になって心臓の音が大きくなる。
「俺も気になるやつがいる。今ここに」
瀬戸口くんの言葉が聞こえてきて、わずかに顔を上げる。
「まだ恋愛感情とかじゃないけど、俺の中では特別な存在で。好きか嫌いかでいったら多分好きだ」
そう聞こえて、わたしは彼の方を向いた。
「わたしも正直、恋愛とか分からないけど……恋愛するなら、瀬戸口くんとがいいなって思う」
まだ恋愛感情じゃないけけれど、瀬戸口くんのことが大切だ。
彼の隣にいると安心して、不思議と肩の荷が降りる。
自分らしくいていいんだ、って自信をもらえる。
その感情に名前をつけるとしたら、間違いなく今はまだ〝恋〟ではないけれど、友達でもなく、クラスメイトでもない、〝特別〟な感情を抱いている。
「じゃあさ、これから焦らずゆっくり探そうぜ」
「探すってなにを?」
「今、俺らが感じてるこの感情の答え。時間はまだたくさんあるんだし焦らず俺らのペースでいい。ふたりで探していこうよ」
瀬戸口くんの言葉を聞いて、わたしは嬉しくなった。
「なんかそれ、すごくいいね」
「だろ」
時間はまだたくさんある。
その分、瀬戸口くんのそばにいられる。
大切な人がそばにいてくれる、それだけでわたしはたまらなく幸せだった。
つらいことがずっと続くわけじゃない。悲しいことがずっと続くわけじゃない。乗り越えた先には、きっと希望が待っている。
そう願って、わたしたちは今日もこの世界で生きていく。



