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それから数日が過ぎたけれど、あれ以来、『黒い瀬戸口くん』を見たことはなかった。
週明けの月曜日。日直当番が回ってくる。そのためわたしは授業が終わると、ノートや教科書を片付けたあと教卓に向かって黒板を綺麗にしていく。
「ねえねえ、瀬戸口くん、さっきの問題の──」
今日もまたクラスメイトに質問をされている。
それを嫌な態度ひとつ見せずに、「どれ?」と優しく尋ねているやりとりが聞こえてくる。
みんなの前にいる『完璧な優等生の王子様』を見ていると、この前のあれは夢だったんじゃないかとすら思えてしまいそうなのが怖いところだ。
なんて考えながら黒板消しをしていると、ドンッと鈍い音がする。顔を向けると、ひとりの男子が黒板の端にぶつかってしまったようだ。すぐ近くにはその姿をケラケラ笑っている友人が見えた。どうやらふたりでふざけていたらしい。
「うわ、胡桃沢さんごめん! 日付が……」
男子のシャツで擦れて黒板に書いてあった日付が滲んでいるようだった。
「大丈夫だよ。あとで日付書いておくね」
わたしはいつものように笑った。
すると、近くにいた一部始終を見ていたクラスメイトが「胡桃沢さん優しい〜」「さすが胡桃沢さん」と言う。
黒板を綺麗にし終えると、白いチョークを掴んで日付を書く。今日は五月二十三日。
──世界で一番大嫌いな日だ。
でも、世界はわたしを放ってはくれない。
「ねえ、今日って胡桃沢さんの誕生日じゃない?」
突然、南さんの声が聞こえてくる。
それに続くように、「ほんとだ!」「確かに!」と女子数人の声が近づいてくるのを感じた。
「みんな覚えてくれてたの?」
嬉しいことをアピールするかのようにわたしが表情を緩めると、
「当たり前だよ! 胡桃沢さんの誕生日なんて覚えてるに決まってるじゃん!」
南さんの言葉に周りも同調していく。
「ねえ、今日のお昼購買でデザート買ってあげようよ。いつもお世話になってるんだし、それくらいうちらしようよ!」
「だね! それいい!」
わたしそっちのけで会話が進んでいくから、ここで断るわけにもいかなくなる。
「胡桃沢さんって甘いもの好き?」
ほんとは、嫌いだ。
甘いものも、自分の誕生日も大嫌いだ。
だけど、そんなこと言えないから。
「うん、大好きだよ」
みんなが期待している答えをわたしは言う。
すると、その場にいたクラスメイトが「お昼にうちらでサプライズしてあげよーよ!」と提案する。
「いや、もう本人に言ってる時点でサプライズじゃないし!」
南さんがつっこむと、周りにいたみんなが笑い、
「確かに!」
「紗理奈うけるー」
笑顔の中心にわたしがいる。
それをわたしが望んだんだ。
だから、ここでやめるわけにはいかない。
お昼休みになると、宣言通りに南さんたちが学校人気のプリンやいちご大福などスイーツを四つほど買ってくれた。どれも甘そうで、胃が重たくなりそうだったが、みんなに喜んでほしくて、ほんとは食べたくもないプリンを「おいしい」と言って食べた。
いちご大福を食べ終えたところで、急に胃が痛くなる。けれど、場の雰囲気を壊したくなかったわたしは、先生に手伝いを頼まれていると嘘をついて席を立った。
廊下をしばらく歩いて人気のない階段の隅っこに身を縮めて座り込む。
頭の隅に押し込んでいた嫌な記憶が、甘いものを食べたことによって思い出される。頭がぐるぐる回って気分が悪い。病気ではないから薬を飲むこともできない。我慢をして収まるのを待つしかない。
「──胡桃沢さん?」
聞き覚えのある声が聞こえてきて、少しだけ顔を上げると、そこには瀬戸口くんがいた。
「なん、で、ここに……」
ボーッとする頭で必死に考えて言葉を出す。
「教室を出ていく胡桃沢さんがなんかいつもと違ったように見えたから追いかけてきたんだけど。てか、どうした。具合でも悪ぃの?」
話し方を聞いて気がついたら。
今、目の前にいるのは『黒い瀬戸口くん』だ。
「……大丈夫。なんでもないの」
無理して笑って立ち上がろうとするが、足に力が入らなくてわずかにふらつく。
「おっと、あぶね。ほんと大丈夫かよ。体調悪いんじゃねえの?」
瀬戸口くんが支えて、顔を少し覗き込まれる。
「平気だから、離して」
「でも足もふらついてんじゃん。保健室まで送るよ」
「ほんとに大丈夫だから……」
瀬戸口くんの胸元を軽く押して離れる。
その際にまたふらついて、わたしは壁に手をつく。
「大丈夫だから、わたしに構わないで」
必死に笑顔を浮かべると、人気のない旧校舎へと向かった。
それからよくなったのは十五分あとのことだった。
「胡桃沢さん、これから遊びに行かない?」
放課後に南さんたちに誘われる。
きっとまだお祝いの続きをしてくれるのだと思う。
けれど、とてもじゃないがそんな気分にはなれなくて。
「ごめんね、今日はこのあと予定があって」
申し訳なさそうに手を合わせて謝罪をすると、
「そうだよね。誕生日なんだからすでに予定埋まってるよね!」
「せっかくわたしのために誘ってくれたのにごめんね」
「大丈夫だよ。気にしないで! じゃあ胡桃沢さん、また明日ね!」
南さんたちは手を振って、教室を出ていった。
それから次々にクラスメイトにあいさつをされて返事をする。
わたしはテキパキと日直当番の仕事を済ませて教室を出た。
「失礼します」
職員室のドアをノックして中へ入り、担任の先生が座っている机に向かう。日誌を提出すると、すぐに中身を確認して、
「おーそうだ。胡桃沢は今日が誕生日だったな」
どうやら日誌に記入してある日付を見て思い出したらしい。
机に大雑把に置いてあるカラフルなパッケージの袋から何かを一つ取り出すと「ほら」と先生はわたしに手渡す。受け取ったものを見ると、そこにはのど飴と書いていた。
「のど飴で悪いが気持ちは十分こもってるからな」
先生はニカッと笑う。
「気持ちが嬉しいです。ありがとうございます」
「おー気をつけて帰るんだぞ」
そんなやりとりをしてから職員室を出た。
握りしめていた手を開いてのど飴を見つめたあと、浮かべていた笑顔を解いてからため息をついた。
昇降口に向かうと、壁に背もたれている人の姿が視界に映り込む。
「──お、やっときた」
なぜかそこには瀬戸口くんがいた。
「瀬戸口くん……帰ったんじゃないの?」
「待ってた。胡桃沢を」
「わたし……?」
「あのあと大丈夫だったかなって思って気になってさ。それに今日、誕生日っていってたじゃん。せっかくだし俺もなんかしたいなって思ったんだけど」
また、だ。
同じようにみんな誕生日を祝ってくる。
それはみんなにとって誕生日にいい思い出があるからだろう。
嫌な思い出があるなんて、これっぽっちも考えないのかもしれない。
小さな苛立ちを覚えて、
「……誕生日なんて嬉しくないのに」
わたしは思わず呟いた。
それを聞いていた瀬戸口くんは困惑しているようだった。
だから、わたしはそれを笑い飛ばすことにする。
「──なんてね。びっくりした? ごめんね、冗談」
自分の下駄箱を開けてローファーを掴む。
「だからあんな顔してたのか?」
ローファーを下ろして履き替えようとしていたら、そんな言葉が聞こえてきた。
「だ、だから、今のは冗談だって……」
「じゃないよな。思わず口に出してしまうくらい嫌いってことだろ?」
「……」
「誕生日が嬉しくないのと、昼休みのあれ、やっぱ関係してんだろ」
質問を重ねられて、わたしは言葉に詰まってしまう。
今日はわたしの十六歳の誕生日。本当ならきっと幸せなはずだった。
だけど、現実は嬉しくもないし、幸せでもない。
俯いて、ゆっくりと瞬きをした。
「……ここだと人に聞かれちゃうから、場所変えよう」
わたしはそう提案する。
ふたりでやってきたのは、学校の近くにある公園。
たくさんの子供たちが遊んでいるから楽しそうな声が響き渡る。
「前に瀬戸口くんがわたしに聞いてきたよね。キャラ違くないか?って」
わたしはそれを見つめながら、過去の自分と重ねるようにして話しだした。
「わたしね、小学生の頃からずっと自分に自信ないの。勉強も覚えるの遅かったし、運動も下手くそだったし、とにかく何をやらせてもダメダメで、ほんとに自信がなかった」
今みたいにクラスメイトに慕われるような自分ではなかった。
「今は必死に努力してできるようになったけど、昔のわたしはできることよりもできないことの方が多くて、それでいつもお母さんがイライラしてたの。わたしが朝早く起きれなかったり、何度も同じ失敗繰り返したり、勉強覚えるのも遅かったりしたから、いつもお母さんイライラしてた。伝わるんだよね、大人の感情って。だからわたしは、いつもごめんなさいって謝ってたの。できなくてごめんなさいって」
子供のわたしは、謝ることでしかお母さんに許してもらえないと思ったのだ。
「だから自分なりに苦手だった算数や理科の勉強を必死にしたの。それでテストではじめて七十点以上取ったときがあってね、そのときちょうどわたしの誕生日で。とにかくわたし嬉しくて、お母さんに早く見せたいって思って急いで家に帰ったの」
学校から家までの十五分を走って帰った。
今でもあの光景を忘れることはない。
「そしたら、お母さんいなくて。仕事から帰ってる時間のはずなのに家のどこにもいなくて、リビングの机の上に置き手紙がおいてあったんだ。『ケーキは冷蔵庫に入ってます』ってそれだけだったの。誕生日おめでとうも何もなくて、ただそれだけしか書いてなくて……わたし、何度もお母さんに電話したんだ。でも、一度も出てくれることはなくて……」
スマホの向こう側からは『おかけになった番号は電波の届かないところにあるか──』としか言ってくれなくて、結局お母さんの声を聞くことはできなかった。
「夕方、お父さんが帰ってきたときに言われたの。『お母さんは帰ってこない。これからはふたりで頑張ろうな』って。わたし、意味が分からなくて、お父さんに聞いたの。なんで帰ってこないの?って。そしたらお父さんが言ったんだ。『この家にいることが疲れちゃったんだって』って。わたし、一番にお母さんに見せたかったの。テスト結果を。頑張ったねって褒めてもらいたくて、走って帰ったの。でも、会えなくて……わたし、泣いちゃって」
夕方にお父さんがご飯を作ってくれた。それを一緒に食べたあと、お母さんが買ってくれていたホールケーキを切ってお皿に出された。
「夜、お父さんが小さな誕生日会を開いてくれたの。きっと、わたしに嫌な思い出を残さないためにしてくれたんだと思う。でも、お皿によそったケーキを食べることができなくて……あのとき思ったの。お母さんは、わたしに疲れたんじゃないのかなって。わたしが出来が悪くてダメダメだから疲れて出て行ったんじゃないかなって、そう思ったらすごく悲しくて」
八年もの歳月が過ぎても、あの日の出来事を忘れることはできない。
「もしかしたら戻ってくるかもしれない。何度も期待した。でも、何年経ってもお母さんは戻ってこなくて……あの日から自分の誕生日がやってくるたびに思い出すの。お母さんに捨てられたことを。だから、わたしは自分の誕生日が大嫌いなんだ」
わたしは、あの日お母さんに捨てられた。
わたしの世界から誕生日が消えた。
「何もできなかったわたしが悪い。そう思うしかなくて、だからわたしはそれから自分でなんでもできるように努力したの。捨てられないために必死で、ひとりになりたくなくて必死で、わたしはそうやって生きてきた」
だけど、わたしの時間はあの頃からずっと止まったままで。
「みんながわたしのためにお祝いしてくれるのも分かってるし、みんながわたしのためにしてくれる気持ちも嬉しいの。嬉しいのに、すごくつらいの。みんなと一緒にいて楽しいのに時々すごくつらくなる。それなのにひとりになるのは怖いの。何にもできなくてまた必要とされなくなることが怖くてたまらない。だから、みんなに愛想撒くし必死とされたくていい人演じるし、嫌いなことでも好きだって笑うし……こんなわたしの醜い心を知ったら、みんなわたしのこと嫌いになっちゃうかな」
目頭が熱くなって、わたしは空を見上げた。
「ならないよ」
力強く、だけど優しい言葉が聞こえてくる。
「胡桃沢さんのこと嫌いにならないよ。誰もならないし、俺もならない」
ゆっくりと顔を上げると、瀬戸口くんはまっすぐわたしを見つめていた。
「胡桃沢さんがどれだけ優しい人なのか、どれだけ温かい人なのかそれはみんなが知ってる。今まで接してきてたんだからみんな分かってる。だから、自然と胡桃沢さんの周りに集まるんだよ」
「でも……わたしは、みんなに嘘ついて一緒に過ごしてる。ひとりになりたくないからって、みんなを利用してる」
「利用していいじゃん」
「え……?」
「人ははじめからひとりで生きていけるわけじゃない。胡桃沢さんも俺も、クラスメイトのやつらだってみんなそう。誰かに支えられて、支えて、生きている。知らず知らずのうちに人は支え合って生きている」
瀬戸口くんはわたしから一度目を逸らして、目の前で遊ぶ子供たちを見つめた。
「俺だって周りのこと利用してるよ」
「……瀬戸口くんが?」
「俺の両親、早くに離婚してんだよ。母親が早くに俺を産んで、それからずっとふたりでさ。小さい頃から俺、すげー口が悪くて、やんちゃなやつだったんだよ。小学生に上がると親が学校に呼び出されることなんてしょっちゅうでさ。でも俺、自分のことしか考えてなくて、親に迷惑かかるとか一ミリも思ってなくて」
穏やかに笑いながら、子供たちを見つめる。
まるで過去の自分と重ねるように。
「そんなんで毎日過ごしてたら、ある日クラスメイトのやつに言われたんだ。瀬戸口と遊ぶな、って親が言ったとか俺の親は男取っ替え引っ替えだ、とか親のしつけがなってねえ、とか言われて、ムカッとしてさ。ちょっと強く肩押したらそいつ倒れたんだよ。そしたら親が学校に呼び出されて、倒れた方の親にすげー謝ってて。そんとき思ったんだよ。あ、俺すげー迷惑かけてるんだなって。で、親にごめんって謝ったら、なんて言ったと思う?」
「……怪我させることはよくない、とか」
「まあ、ほとんど正解なんだけどさ、俺の親、怪我をさせることは悪いことだけど、理由もなしにあんたは手だけは出さないやつだって言われて。俺なんかそのときすげー嬉しくてさ。俺のことちゃんと理解してくれる人がそばにいるんだなって思ったら、俺自分のことばっかじゃダメだなって気づいて。そこから言動に気をつけるようになったんだ」
だからさ、と瀬戸口くんは続ける。
「愛想振り撒いても嘘ついててもいいじゃん。人を傷つける嘘はよくないけど、そうじゃなくて、自分を守るために胡桃沢さんは嘘をついている。自分の過去を隠したいから自分を偽る。べつにそれは俺らに限ったことじゃないし、悪いことでもない。ひとりになりたくなくて、必要とされたいからみんなの前でいい顔する。人を利用して生きる。それでいいじゃん」
ずっと自分に非があるのだと思っていた。
わたしがダメな人間だから、お母さんはそれに愛想をつかして出ていったのだと思っていた。
真実は分からないけれど、瀬戸口くんの言葉を聞いて、少しだけ心が軽くなった気がした。
もしかしたらわたしは、ずっと過去に縛られていただけなのかもしれない。
「大丈夫。胡桃沢さんはひとりじゃないよ」
彼の言葉を聞いて、一筋の涙がこぼれ落ちる。
そこにいる彼は、学校で見る姿とは違うけれど、「根っこ」の部分が元々優しいのかもしれない。
空はまだ青く、夜になるには早過ぎる。
だけど、遠くの方で夕暮れのオレンジ色が迫っているようで。
「……瀬戸口くん、ありがとう」
そんな彼に救われたのは事実だった。



