その翌日、教室で瀬戸口くんのことを見ていたけれど、特におかしなところはない。
 もしかすると一昨日の夜に見た彼は、瀬戸口くんではなかったのかもしれないし、昨日学校帰りに見た女の人ともただの友達かもしれない。
 そう思って気にすることをやめようと思っていたら、
「胡桃沢さん、ちょっと今いいかな」
 一限目終わりの休み時間に瀬戸口くんに声をかけられる。
 もしかして昨日のことだろうか、と思い当たる節があるわたしは断ることができずに、
「うん、大丈夫だよ」
 学校用のわたしで返事をする。
 周りは少しざわついて熱い視線を向けられる。
 けれど、その予想は全くなくて、わたしはこのあとの弁解だけを必死に考えてあとをついていった。
 屋上につくと、少し強い風が吹く。
「ごめんね、急に」
「あ、ううん、大丈夫だよ」
 わたしは風に攫われる髪を手で押さえながら返事をする。
「昨日のことなんだけど、どうして胡桃沢さんは僕のあとつけたの?」
「えっと、それは……」
 屋上に来るまでの間に考えてみたけれど、うまい言い訳が見つからなくて言葉に詰まってしまう。
「聞こうと思ったら結局逃げられちゃったから。もしも僕に何かを伝えに来たんだとしたら、胡桃沢さんのこと驚かせて悪いことしちゃったかなって思って」
 瀬戸口くんは、まるで自分に非があるみたいな言い方をする。
 けれど、それは違う。
 悪いのはわたし。瀬戸口くんのあとをつけて、嫌な思いをさせてしまったのだから。
「ごめんなさい!」
 咄嗟にわたしは頭を下げる。
「勝手に瀬戸口くんのあとつけて嫌な思いをさせてしまって、ほんとにごめんなさい」
 頭を下げたまま謝罪をすると、彼はわたしに頭を上げるように促した。
「あとをつけるつもりはなかったんだけど……どうしても気になることがあって……」
「気になることって?」
「……一昨日の夜、コンビニ近くで瀬戸口くんのことを見かけたの。高山駅すぐ近くにあるところなんだけど、そのとき女の人がすごく怒ってたみたいで……瀬戸口くんにあんたむかつくって聞こえたような気がして。でも、学校ではみんなから慕われている瀬戸口くんが誰かと口論するなんて考えられないし、違ったのかなって思ってたんだけど」
 ちら、と瀬戸口くんを見たあと、わたしはバツが悪くて目を逸らす。
「でも、やっぱり気になっちゃって昨日の放課後にあとをつけたら、その……また、べつの女の人が現れたから、わたし何がなんだか分からなくなっちゃって、それで……」
 わたしの説明を聞いてもなお、微動だにしない瀬戸口くん。怒っているのかそうじゃないのかさえも分からなくて、反射的にわたしは俯いた。
「──なんだ。あれ、見られてんなら仕方ねえか」
 そんな声が聞こえてきて、わたしは困惑しながら顔を上げる。
「確かに一昨日の夜、怒鳴られたよ。でもあれは俺に対して怒ってたわけじゃなくて、彼氏に対して怒ってたんだよ。『あんたむかつく』じゃなくて『あいつむかつく』って。あの人、あのとき酒が入ってて酔ってたからめちゃくちゃキレてて」
 いつもより低い声に少し乱暴な話し方。
 目の前にいる彼は、ほんとに瀬戸口くんなのだろうか。
「そんであの人はうちの常連さん。俺の母親が飲み屋やってんの。で、すげー酔ってたからタクシー拾ってやろうと思ってたんだけど、勝手にキレてひとりでどっか行ったけど」
 話が全く頭に入ってこない。
 それはきっと、目の前にいる〝瀬戸口くん〟がいつもの話し方ではないからだ。
「で、昨日胡桃沢さんが逃げる前に会ったっていう女の人が俺の母親」
「……え、そうなの?」
「嘘じゃねえよ。まあ、若く見られるから今までもこういう反応されたけど」
 どうやら嘘をついているようには見えない。
 つまり一昨日見た口論している場面も昨日の人も、わたしの誤解だったらしい。
「まだ他に気になることでもあんの?」
 いつもの瀬戸口くんとは決定的に違う、〝その違和感〟にわたしは困惑してしまう。
「……みんなの前にいるときの話し方と違くない?」
 おずおずと尋ねてみると、瀬戸口くんはわたしを一瞥したあと口を開いた。
「学校用とプライベート用の顔を使い分けてんの。で、胡桃沢さんが一昨日見た姿がプライベート用の俺ってこと」
 学校での一人称はずっと『僕』だったのに、今目の前にいる瀬戸口くんは『俺』だ。
どうやら使い分けているのは嘘ではないらしい。
 だからといって、今の瀬戸口くんをすぐに受け止めることもできない。
「……どうしてそれを隠してるの?」
 わたしの言葉を聞いて瀬戸口くんは一瞬乾いた笑みを浮かべたあと、
「色々と面倒なんだよ。だから、それ隠して優等生演じてる方が気楽なの。てか、そっちこそさっきからすげー違くねえ? さっきまではあんなニコニコ穏やかなオーラ纏ってたのに、すげー弱気っていうか弱腰に見えるっつーか」
「あ、えっとこれには深い理由があって……」
「理由って?」
「それは、だから……」
 言えなくて思わず口籠ってしまう。
 みんなの前にいるときのわたしとはほんとに大違い。
「まあ、よく分かんねえけど、言いたくねえならべつに言わなくていいよ。そのかわり、俺のこっちの姿のこと絶対に誰にも言うなよ。言ったらオレもバラすから」
 若干脅しにもとれることを言われて、怖くなったわたしは首を縦に振った。
 話が終わると、何事もなかったかのように距離をとって教室に帰ると、すぐに瀬戸口くんを探していたクラスメイトが集まってきて、「どこに行ってたの?」と尋ねられる。その言葉に彼は「先生の手伝いをしてたんだ。ごめんね」と満面の笑みを浮かべて言った。
 そこにはみんなから慕われている『完璧な優等生の王子様』しかいなくて、わたしが先ほどまで見ていた『黒い瀬戸口くん』はどこにもなかった。